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日向頼子・四

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 頼子の家にはたくさんの使用人がいる。その中に千種という書生がいた。
 千種は北陸の農家の三男だとかで、六歳の時に頼子の家に奉公に出されて来た。憲一郎がその利発を見込んで高等学校を出してやり、家の書生になっていたのだ。頼子より二歳年上の、今は十八の千種は年はくても使用人の中での古株に入るが決してほかの使用人に威張るなどということもせず、それどころかどこかおどおどとした内向的な青年だった。
 その日、和琴の稽古をしていた頼子の部屋にやってきたのは千種だった。襖越しに千種が頼子に声をかけてきた。そうやって千種が両親の使いをするのはいつものことだったから、琴子も別段何の警戒もせずに返事をした。
「お嬢様、奥方様がお呼びでございます」
「そう、ありがとう」
 弦を最後にひとつ弾いて、頼子は爪を外し爪箱にしまう。立ち上がり、衣の裾を整えて部屋を出ると、千種が部屋の前にいた。いつもは頼子が出てくると立ち上がり先導をしてくれるのに、今日はなぜか廊下に正座したままだ。頼子を見ると、手をついて深々と礼をした。
「お母様はお部屋にいらっしゃるのかしら」
「はい。お嬢様においでいただくようにと」
 頼子はうなずいた。しかしなおも千種が立ち上がらないので首をかしげ、そして踵を返すと廊下を一歩先に行った。頼子の背に千種の声がかけられた。
「あの、お嬢様」
「なぁに?」
 振り返ると、正座したままの千種がじっと頼子を見つめている。そのような眼差しを向けられる心当たりは頼子にはなく、頼子は不思議に何度かまばたきをしてじっと千種を見つめた。
「どうしたの、千種」
「……いえ」
 千種の煮え切らないような物言いはいつものことだ。それに苛立った憲一郎が叱りつけるところも何度も見たが、頼子には特に苛立つ気持ちは生まれない。女学校の同級生にもこういう少女がいたことを思い出す。ただ、はにかみ屋なのだ。言いたいことは咽喉まで来ているのに最後の言葉を出すことに、そういう性質を持たない者にはわからない勇気が必要なのだ。
「わたくしに、ご用?」
 だから頼子は、精一杯の思いやりを持って千種に接した。膝をかがめ、千種が言いたいことを口に出せるまでとじっと覗き込んだ。千種は驚いたように腰を引き、頼子は思わず微笑んだ。
「いいのよ、ご準備が出来たらお言いなさいな。わたくしはずっとここにいるわ」
「……本当、ですか」
 千種が思い詰めたような声でそう言ったので、頼子は目をしばたたかせた。千種は改めて座り直し、そんな頼子に向かってさらに言葉を重ねた。
「本当に、ずっとここにおられますか?」
 言葉の意味がわからない。しかし千種の真摯な表情を前に頼子も真剣に向き合わなくてはいけないと考えた頼子は、ゆっくりと優しい声で尋ねた。
「千種、何が言いたいの?」
「お嬢様は……お嫁に行かれるのでしょう?」
「ええ、そうよ」
 頼子はにっこりと微笑んだ。千種の言葉に顔が熱くなった。頼子は肩をすくめて、出来るだけ穏やかな笑みを作る。なんでもないことであるかのような表情を作ろうと思ったのに、どうしてもはしたないほどに顔が緩んでしまうのは止められない。
「卯月になるのよ。まだ半年も先だけれど、きっとすぐ来てしまうのね」
 しかし、頼子の浮かれた口調とは裏腹に千種は表情を沈ませた。その理由はわからなかったが、追求しようとも思わなかった。そのまま千種はうつむいてしまい、立ったままの頼子には千種の表情は見えなかった。
「もういいかしら。わたくし、お母様のところに行くわ」
 頼子はもうひとつ首をかしげて千種を見、そして踵を返した。廊下を歩いていきながらちらりと振り返ると千種がこちらを見ていた。頼子と目が合うと慌てて逸らせてしまったが、千種は確かに頼子を見つめていた。
 その理由は、頼子にはわからなかった。


 雪が溶け庭のあちこちに緑の芽が芽吹き始めたころ、頼子の婚礼衣装が出来上がってきた。白無垢には蜘蛛の糸のような銀糸でつがいの鶴が刺繍してある。それを自分の居間にかけ、頼子は毎日眺めては喜んだ。
「まるで絵でもご覧になるようですね。毎日飽かずご覧になって」
 弥生は言って、くすくすと笑った。頼子はそんな弥生に頬を膨らませてみせる。
「だって嬉しいのですもの。これ、美しくないこと? 弥生はそう思わないの?」
「思いますとも。このように美しい花嫁衣装は見たことがございませんわ」
 弥生の言葉に頼子は誇らしく微笑んだ。胸に手を当て、白無垢を凝視する。銀糸で縫い込まれた鶴は、まるで今にも高く舞い上がりそうだと思った。
「頼子さまにお似合いでしょうね。早く、頼子さまの花嫁姿を見たいものですわ」
 頼子は、弥生の言葉にはにかんで笑った。そしてその夜も飾った白無垢を頭に、床を延べて眠った。
 何かの物音で目が覚めたのはすっかり夜も更けてからだった。あたりはしんと、物音もしない。薄くこぼれる月明かりの中、目が覚めた頼子はしかしはっきりとは覚醒しきらないまま、小さく唸って布団の中で身じろぎした。襖がそっと開く音がした。月が濃く差したが襖はすぐに閉じられ、部屋の中はまた薄闇に包まれた。
「誰……弥生?」
 誰かが部屋に入ってきたのだ。しかしそれは弥生ではなく操でもなく、男性だということがわかった。しかし憲一郎でもなかった。ほかに頼子の寝間に入ってくる人物に心当たりはない。頼子は首をかしげた。
「誰なの……?」
 しかし、最後まで言葉を綴る余裕はなかった。掛け布団が乱暴に剥がされ、頼子は真夜中の冷たい空気に身震いした。続けて抱きしめられ、その力に息が止まりそうになった。
「た、す……」
 助けを求めようとしたが声が出ない。腕の主は頼子を布団に横たえ、両腕を強く押さえつけた。薄く差し込む月明かりが頼子の視界を助け、それが千種だと気づいた頼子は大きく目を見開いた。
「千種……なにを、するの」
「お嬢様」
 間近に顔を寄せている千種は見たことがないほどに獰猛な目をして、聞いたことがないほどに荒い息を繰り返していた。その呼気の乱れようは頼子に本能的な危機を感じさせた。大きく息を呑む。そんな頼子の胸を千種の大きな手が鷲掴みにする。夜着一枚が隔てるだけの乳房は千種の手に包み込まれ、乱暴に力を込められて痛みに呻いた。
「いや、やめて……」
悲鳴を上げようとしたが、唇を重ねられて声が上げられない。熱い唇は頼子の息を奪い、熱を吸い上げてしまおうとでもいうかのように熱く押さえつけてきた。
「……ん、っ……!」
 逃げようとする頼子の手は何かを掴み、懸命に引っ張った。重い布の落ちる音がする。その音と手触りの滑らかさから、引っ張ったものが鶴を刺繍した美しい白無垢だと気がついた。すがるようにそれを握ったが、千種は何も言わずに頼子の夜着を剥ぎ、大きく足を開かせた。
 抵抗できない強い力に見開いた頼子の目は千種の顔を映す。月の光が彼の顔を青く染め、その目はぎらぎらとまるで獣のように頼子を貫いている。それに射抜かれて、頼子はまるで標本の蝶のように身動きが出来なくなった。
「……あ、ぁ!」
 身を切り裂く激痛が頼子を襲った。すがるものは握りしめた重い絹の感触だけで、それもまた遠く、頼子の意識は白い靄に包まれていった。
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