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第三話

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 それは、大きな池のほとりだった。
 池の縁には石が並べられ、隙間もなく整然と並べられたその様子から、その池は人工のものであることがわかった。ともすればここは、どこかの庭園なのかもしれない。
 池には鶴が二羽、長い足で立って餌をついばんでいた。ぱしゃ、ぱしゃ、と水が跳ねる。その池の畔、ふたつの人影が立っているのを、文秀は見た。
(ここは、どこなんだろう)
 見覚えはない。ただ、その人影がどこか見たことがあるもののような気がして、どこか記憶にあるものと重なるような気がして、文秀はふたりを見ようとした。
(誰だ……?)
 ひとりは、頭の上に結い上げた髪。ひとりは、長いおさげ。男女とだ。ふたりは、水をぱしゃぱしゃいわせる鶴になど注意を払っていない。向き合って、まるでこの世界には互いしかいないかのように見つめあっている。
 文秀は目を懲らした。男は紺の団領タンリョンを、女は青の裳と赤い短衣をまとっている。それぞれ、刺繍や玉飾りの贅の尽くされた衣装であることから、彼らは庶民などではない、勢いのある商人の息子と娘か、それとも身分のある――両班(貴族)かということが知れた。
 そういった衣装は、旅に出るまでの文秀には馴染んだものだった。今ではこの薄汚れた脚衣と短衣ばかりが文秀の衣装のすべてだったが、親の財産をなくすまでは、文秀は毎日刺繍が施され珠の飾られた団領をまとい、取り巻きに囲まれ、毎日賽に牌にと、楽しい日々を送ってきたのだ。
(まぁ、今が楽しくないわけではないけど)
 贅沢からはほど遠いが、しかし文秀は華虹に会った。あの愛想の悪い順興もいる。新たに加わった闇青は、面白いといえば面白いやつだ。少なくとも、退屈はしない。
(それにしても、あのふたりは?)
 見たことがあるような気がするのだ。文秀は首をかしげ、覗き込もうとし、しかしどうやっても彼らの顔がはっきりと見えない。
(もっと、近づいたら……)
 しかし文秀は、どこか遠いところにある櫓から遠眼鏡を使ってふたりを見てでもいるかのように、視界の自由が利かない。
(そもそも俺は、いったいどこにいるんだろう……?)
 男の口が動いたのに、文秀は気を取られた。彼は何かを言って、それに女が首を振る。男が何かを訴えかけていて、女がそれを無理だと諦めているとでもいうようだ。
(いったい、何が……)
 男の手が伸びる。彼の手は、女を抱きしめる。文秀はぎょっとしたが、女は男の腕の中にあって、逃れようとはしない。抱き合うふたりが恋人同士であるのは明白だ。女のほうがまだおさげ髪であることから、まだ両親に饂飩を食べさせて(結婚して)はいない。
 腕の中に抱きしめられた女が、顔を上げた。その上げた顔に、文秀は驚いて思わず声をあげた。
「華虹さま!」
 それは、華虹だ。その顔は今にも泣き出しそうで、いつもの凛々しく涼やかな風情はない者の、その顔は確かに華虹だ。
(華虹さまが? なぜこんなところに?)
 男は、華虹の肩に顔を埋めているので、誰なのかは見て取れない。文秀は懸命に目を懲らしたが、男の耳しか見ることができない。
(誰だ? まさか……順興?)
「……どぅわぁぁぁぁーっ!」
 自分の悲鳴で、目が覚めた。先ほどの光景は夢だったのだと気がつく前に、文秀は自分の体が宙に浮いていることに気がついた。
「なんだなんだ、何なんだーっ!?」
「うるさい、早く行くぞ!」
 声は華虹のものだ。その声は背後から降ってきて、振り返ると視線をあげたところに華虹がいた。
「順興!」
 ぐる、と声がして、文秀の体は激しく上下に揺れた。まるで籠の中に放り込まれて、無茶苦茶に前後左右に振り回されているようだ。文秀は目を回した。襟首をぶら下げられているから、咽喉に衿が引っかかって苦しくて仕方がない。しかし振動は止まらない。
「文秀、じっとしてなさいよ!」
 声がして、見ると横を闇青が走っている。その隆々とした筋肉にふさわしい素晴らしい跳躍で、まるで地を躍動する虎の速度だ。
(ん……? 虎……?)
 顔を上げて、気がついた。文秀は首根っこを、虎の姿になった順興にくわえられている。その背には華虹、傍らには闇青が走っている。この速度で、うっかり順興が口を開いたら、文秀は地面に転がってさぞ痛い目にあうことだろう。
「うわぁ、わぁ、わぁ! 降ろして、降ろして! 降ろしてくださいー!」
「うるさい、騒ぐなっ!」
 華虹に一喝され、文秀は慌てて口をつぐんだ。しかし虎の口にくわえられたままというのは、何とも頼りない体勢だ。不安がつのり、文秀はまた口を開いた。
「いったい何なんですか、何がどうなってるんですか!」
「追っ手が来たんですって!」
「お、追っ手?」
 物騒な言葉に、目をしばたたかせた。闇青は文秀を、横目で見やってくる。
「こ、この森だったら安心して眠れるって言ったのは、闇青じゃないか!」
「外からの攻撃に対しては、別よ! あれは外から入り込んできた者たちだわ!」
 この妖魔の森には、術者でなければ入れないのではなかったか。となれば、追っ手とは術者か。しかし誰を、何のために。
「うわっ、わぁっ!」
 いきなり、石つぶてのようなものが飛んできたのだ。文秀はそれに手をぶつけ、いてっと声をあげるが、それに構う者はいない。順興は風のように駆け続け、文秀は彼の口にくわえられたまま頼りなく揺れた。
「姫さまっ!」
 声がした。文秀は思わず声のほうを見やり、思わず大きく目を見開いた。
「だ、れ……」
 遠目ではっきりとはわからない。しかし明らかに文秀一行を追いかけてきているのは、宙を飛ぶ白いものの一群――よく見ればそれは巨大な白鳥で、その背には人が乗っている。
 先頭にいる者の顔が、目に入った。おさげの少女は、年のころは華虹と同じくらい。若草色の短衣をまとい、藍色の裳を風にはためかせながら、その手は組み合わされ、印を結んでいる。
「姫さま、お留まりくださいっ!」
 少女は叫び、その結んだ印から再び何かが飛んでくる。石つぶてだと思ったものは、何か白く輝く粒だ。それにまた手の甲を打たれ、痛っと声をあげる文秀だが、やはり彼を労る者など誰もいない。
 順興は風のように駆けた。あれほど足場の悪いこの深い森、行く手を邪魔する緑などものともせずに、彼の足も宙に浮いているかのようだ。
「姫さま、しばし! しばしお待ちを!」
 少女の声は、やがて遠くなる。順興と闇青の足は白鳥の集団を振り切り、やがて一行は森を抜けたところにある、ところどころに低木の茂みのある広い野原に足を止める。
 足を止めた順興は、いきなり口を開けた。文秀は突然地面に落とされて、したたかに臀を打った。
「い、ったぁ……」
 華虹の前には闇青がひざまずき、手を差し出している。華虹はその手を取って、ふわりと地面に降りた。
「ありがとう」
「これくらい、我が主には当然よ」
 話す言葉は女のものなのに、その仕草は淑女の手助けをする紳士だ。その言葉遣いと、ときどきはいる妙に婀娜っぽい仕草がなければ、どこからどう見ても立派な男なのに。
 眠っているところをいきなりくわえ上げられ、全力で駆けるという寝起きに遭遇するにはいささか激しい体験を終えた文秀は大きく息をついて、傍らの低木にもたれかかった。
「は、ぁ……」
「何よ、そのため息」
 思わず息を吐いた文秀に、文句を言ったのは闇青だ。
「走ったのはあたしたちよ。あんたは順興にくわえられていただけのくせに、何でそんなに疲れてるのよ」
「襟首だけくわえられて、あんな早さで飛ばされてみろ! 息は苦しいしぶらぶら揺れて不安定だし、いつ落とされるのかと思うと恐くてたまらんし!」
「私が、お前ごときを落とすと思うのか」
 いつの間にか人型に戻った順興が、文秀を睨んでいる。
「あそこに放り出されていなかっただけ、ありがたいと思え。お前がひとり、妖魔の森に放り出されていたら、追っ手につかまらなくても妖魔たちの餌食になっている」
「追っ手は、私を追いかけてるわけじゃないでしょう! 妖魔はともかく、私には追いかけられるような理由はありませんよ!」
 文秀はわめき、華虹を見る。華虹は抜けてきた、森のほうを見ている。あれほど懸命に駆けて逃げてきたわりには、残してきた者――姫さま、と呼びかけていた少女のことかもしれない――を惜しんでいるように見えた。
「あれはいったい、何だったんです?」
 そう問うと、同感だ、というように闇青が頷く。ふたりは揃って華虹と順興を見、彼らは厳しい顔をして、森のほうを見やりただ黙っている。
「姫さま、って聞こえましたけど。華虹さまのことですか?」
「朴氏」
 低い声は、順興のものだ。彼は文秀を睨みつけ、そんな彼の視線に慣れていなければ、恐ろしさにたじろいでしまいそうな迫力だ。
「お前が詮索することではない。華虹さまとご一緒させていただいているだけでもありがたく思わねばならぬのに、それ以上にいろいろ聞きたがるとは、不作法にもほどがある」
「いや、でも、私だってひどい目にあったんですから!」
 順興ではなく、華虹のほうを見て文秀は声をあげる。
「いきなり起こされて、気がついたら子猫みたいに首根っこぶら下げられて、全力疾走ですよ! いったい何があったのか、少しくらい教えてくださったって罰は当たらないと思うんですけど」
「朴氏!」
「いい、順興」
 声を荒らげる順興を止めたのは、華虹だ。彼女は、地面に座り込む文秀の前に、膝をついた。
「いかにも、あれは私の追っ手だ」
「華虹さま……追われていらっしゃるんですか」
 華虹は頷いた。ふわり、と彼女のおさげが揺れる。
「どうして? まさか借金取りとか? 踏み倒して逃げたとか? それで追われてるとか……」
「お前と一緒にするな」
 呆れた声でそう言うのは、順興だ。文秀の言葉に小さく噴き出した華虹は、唇の端を歪める。
「まぁ、似たようなものだな。あやつらは、私の持っているものを追っている。私が、持って逃げたがゆえな」
「それって……あの鏡、とかですか?」
 闇青の本体を倒したとき、鏡が眩しく輝き鈴が鳴り、剣が大きく変化したしたことを覚えている。同時に、華虹が唱えた呪語のことも。それが、天の神ハナニムの力を借りるものなのではないかと思ったことも。
 しかし華虹は、答えなかった。ただちらりと文秀を見て、試すような口調で言う。
「今度こそ、私と一緒に行くのがいやになったのではないのか? この先、もっと大変な目に遭うことも考えられるぞ」
「いいえ、いいえっ!」
 文秀はぶんぶんと首を横に振る。
「何度も申しますけれど、私は華虹さまに着いていきます。ええ、どこまでも。あてのない旅なのですから。それにこういう体験も、面白いといえば面白いものに違いありません」
「弱い術師のくせに、生意気~」
 両腕を組んだ闇青が、冷やかすように言った。文秀は振り返り、闇青を睨みつけておいて、再び華虹に向き直る。
「よろしいでしょう? 華虹さま」
 華虹は何も言わずに立ち上がってしまったが、そんな彼女が、文秀の言葉を受け入れてくれたのはわかる。そうやって言葉遣いや態度は素っ気ないが、何のかんのと受け入れてくれる彼女が文秀には嬉しい。一見冷ややかに見えて、着いてきたいという者をはね除けたりしない優しさを持っているのだ。華虹という人物は。
「でも、少し術師の才を磨いたほうがいいかもしれないわよ」
 そう言ったのは、闇青だ。
「もしひとりのとき、あの連中に会ったらどうする? つかまって、華虹さまの居場所を吐かされるようなことがあったら困るでしょう。あの光の刃だって、貫かれたら、お前程度の術師なら死んでしまうわよ」
「え、あれ、そんな危険なものだったのか?」
「気づいていなかったのか……」
 呆れるのは順興だ。文秀はあの光の粒がぶつかったところを撫でながら、言った。
「あれ、いくつかぶつかったけど、痛いってだけだったけど……」
「まぁ」
 闇青が驚いた顔をして文秀を見る。順興と顔を見合わせて、目を丸くしている。
「え、なに?」
「あの光の刃にぶつかったというのは、未熟者の証。さりとて当たっても平気だというのは、やはりお前には、確かな術師の気が備わっているということだ」
 華虹の言葉に頷きながら、あの光の粒がぶつかったところを見やる。そこは少し鬱血した痣になっているだけで、もう痛くはない。
「ねぇ、ちょっと。術師の才を磨いてみない?」
 闇青が、文秀の前にしゃがみ込んで顔を近づけてきた。
「え……」
「あんたもちゃんとした術師になれれば、さっきみたいなとき、順興だってあんたをくわえて逃げるなんて面倒なことをせずに済んだのよ」
「私も、闇青みたいに走って逃げられた?」
「そゆこと」
 言って、闇青は片目をつぶってくる。この仕草は何なんだ、と顔を引きつらせる文秀だが、その後ろから華虹も声をかけてくる。
「そうだな、やってみてはどうだ」
「でも、磨いてみるったって……どうやればいいのか」
「『地の要素』を見ようとしてみなさい?」
 郷校ヒャンギョの教師のように、優しい口調で闇青は言った。
「地の、要素……?」
「そう。この地を構成する、要素のことよ」
「地を構成するのは、土だろう?」
「いやん、そういうことじゃなくってぇ」
 妙に身をくねらせながらそう言う闇青を、いささか無気味に感じながら、文秀は首をかしげる。
「その土が何でできているか。もっともっと、深いところよ。その深いところを感じることができたら、この世界が少し、違うものに見えるんだけど?」
「違うもの……」
 そうつぶやきながら、文秀は目を閉じてみた。瞼に力を入れて、『地の要素』を見ようとする。しかしいくら力を入れてみても見えるのは瞼の裏の暗さばかりで、世界が違うものに見えるどころではない。
「そうそう術師の能力など、目覚めてたまるか。いいから、お前は私たちと離れろ。そうすれば、追われたりもせずにすむのだから」
 そう言った順興を、ぱっと目を開けて睨みつける。
「いやだ! 私は、華虹さまに着いていくって決めたんだから!」
 当の華虹は、何が起こるのかというように面白そうな顔をして文秀を見ている。彼女の前で、術師の才とやらを発揮してみたい。華虹が感心する顔を見てみたい。
「……むっ!」
 文秀は、眉間にまで力を込めて唸った。しかし何も見えず、世界に変わったことはなく、がっくりと肩を落とす。
「やっぱり、私……」
 息をつき、もたれかかっている灌木の葉に手を伸ばす。八つ当たりのように、緑の葉をぶちぶちとちぎった。
「痛い、痛い、痛いってば!」
 突然、声がした。文秀は闇青を見る。闇青は首を横にする。順興を見て、華虹を見て、しかしいずれも、自分ではないと首を振るばかりだ。
「痛いでしょ、やめてよっ!」
 文秀は、大きく目を見開いた。目の前に、座った文秀と同じくらいの背丈の少女が現われたからだ。少女は薄赤い衣をまとっている。短衣と裳にわかれてはおらず、貫頭衣のような衣だ。
「何するのよ、痛いっていってるじゃないの!」
「え、ぇ……ぇ、あ?」
 思わず、葉をちぎる手を止める。少女はなおもぷんぷん怒りながら、腰に手を置いた。そしてじっと、穴が開いてしまいそうなほどにじっと、文秀を見る。
 ふん、と少女は顎を逸らせた。
「あんた程度の未熟な術師が、わたしを起こすなんて! 生意気、生意気よっ!」
「痛い、痛い、いたたたたた」
 少女がぽかぽかと殴ってくるので、文秀は思わず声をあげる。もっとも少女の力だから、そう痛いわけではない。それでも痛い、と合わせなくてはいけないと思ったのだ。
「生意気、生意気、生意気だわっ!」
「痛っ、いたたたたた!」
 今度の『痛い』は本気だった。傍らの灌木から尖った木の枝が、矢のように飛んで文秀を刺したからだ。
「痛いじゃないか! なにするんだっ!」
「未熟な術師のくせに、わたしの眠りを覚まさせた罰よっ!」
「私が未熟なのは認めるよ。それよりも、君は誰? どこから来たの?」
「まぁっ、それがわからないなんて! やっぱり未熟! 未熟だわっ!」
 少女はじたばた暴れ、灌木からまた尖った枝が飛んできた。一本は太くて、文秀の腕にぐさりと刺さって、文秀は悲鳴を上げた。
「わからないの? その子は、無窮花ムグンファの精よ」
「……無窮花?」
 文秀は涙目で、血の流れる傷に口をつけて血を舐めながら振り返る。文秀がぶちぶちと葉をちぎった茂みは、確かに無窮花の木だ。淡い赤の花が、たくさん咲いている。
「じゃ、この木の精霊……」
「そういうことになるわね」
「それさえもわからないお前が、華虹さまのお供だなんて……」
 ぶつぶつ言う順興の後ろで、華虹は笑っている。無窮花はなおもぽかぽか文秀を殴ってきたが、その痛みも、枝に傷つけられた痛みも、楽しげに笑う華虹の魅惑的な笑顔の前では、大したことではないように感じられた。
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