皇女の鈴

月森あいら

文字の大きさ
上 下
3 / 8

第二章

しおりを挟む
 住み慣れた飛鳥あすか浄御原きよみがはらの宮を離れ、新しい都に移り住むようになってから、三年以上が過ぎた。
 吉備が突然声をあげたのは、ある夏の真夜中のことだった。
「紫野、紫野!」
 その声に目が覚めたのは、吉備の寝室の隣の居室で眠っていた紫野だった。紫野は夜着のまま、吉備の部屋へと駆けつけた。
「吉備さま、お呼びでしょうか」
「紫野ぉ……」
 呼び招かれて御簾をくぐると、吉備が寝台の上に座って頬を押さえている。
「どうなさいました?」
 慌てて駆け寄ると、吉備は上目遣いに紫野を見上げた。
「痛いの……」
「はい?」
 腕を引かれ、寝台の上、吉備の隣に腰を下ろした。吉備はそっと紫野に顔を寄せ、ささやきかける。
「痛いのよ、歯が」
「歯、でございますか」
「だから紫野、ちょっとお母さまのところに行ってきてくれない? お母さまが、痛いのによく効くお薬をお持ちだったの」
「かしこまりました」
 頬を押さえる吉備を残して、紫野は阿閇あへの棟に走る。夜の見張りの舎人たちは、この時間に幼い娘がなんの用だ、とでも言わんばかりの顔でこちらを見ていた。
「申し上げます」
 阿閇の宮の前で、紫野はひとつ息を吸って声をあげた。阿閇自身はおっとりと母の優しさを感じさせる人柄だが、紫野を緊張させるのは、阿閇の館の侍女頭の老乳母。阿閇の乳母であった女性であるが、今なお阿閇の宮を取り仕切る気難しい老女だった。
「あの……」
 宵も更けているというのに、宮の中はどこか慌ただしかった。それも、ただ人びとが目を覚ましているというだけでなく、何かただならぬ出来事が起こり、それに慌てふためいている、といった様子だった。
「申し上げます」
 再び紫野は声をあげた。それに気づいたのか、紫野のもとにやって来たのは紫野の苦手な乳母よりは、少しだけ年若い侍女だった。
「おや、お前は吉備さまの女儒ではないの」
「吉備さまのお使いで、参りました」
「ああ……」
 しかし、その侍女は困ったように首をかしげるだけだ。
「阿閇さまに、ご用を仰せつかって参りましたのですが」
「そう……」
 紫野は首をかしげて侍女を見た。彼女の後ろに見えた影がこちらを向いたかと思うと、衣擦れの音も慌ただしくやって来た。それが阿閇だと気づいて、侍女も紫野も頭を下げる。
 しかし阿閇は、そのような礼儀など今は必要ない、とでも言いたげに慌てた声をあげた。
「氷高はいずこに?」
「氷高さま?」
 紫野は、首をかしげた。
「ご寝所においでだと思いますが」
 紫野の当惑の声にああ、と阿閇はうなずく。
「当然ね。わたくしが呼んでいると言ってお前、氷高を起こしてきてちょうだい」
「……わたくしが?」
「早く」
 阿閇の言葉の勢いに押されて、紫野はとっさに頭を下げ、くるりと背を向けた。行き先は、方向は一緒だが回廊を右に曲がる。氷高の寝所だった。
「申し上げます」
 さきほどよりも息せききった声で、氷高の寝所の前で声をあげる。
「氷高皇女さまへの、お使いでございます」
 出てきたのは、氷高の侍女。阿閇と同じほどの年の彼女は、紫野を見て首をかしげた。
「阿閇さまが、氷高さまをお呼びだそうです」
「阿閇さまが?」
 侍女は慌てて部屋に下がる。ややあって出てきたのは、夜着の上に袖の長い上衣を羽織っただけの姿とはいえ、先ほどまで眠っていたとは思えないほどしっかりとした顔つきをした氷高だった。
「お母さまがお呼びですって?」
「はい」
「参ります」
 紫野の横をすいと通り抜けていった氷高の足取りは、まるでそのことを予測していたかのようだった。慌てて侍女が追う後ろ姿を呆然と見送っていた紫野は、自分を呼ぶ声にはっと顔を上げた。
「紫野、お薬は?」
「吉備さま!」
 そこには痛みに顔を歪めて、こちらを非難するように見つめている吉備がいる。紫野は慌てて近寄った。
「申し訳ありません、阿閇さまのもとへ参りましたら、何をも申し上げます前に氷高さまをお呼びしろと仰せつかりまして」
「お姉さまを?」
「はい」
「こんな時間に?」
「はい」
 ふたりは、目を合わせて首をかしげる。吉備はぱっと目を輝かせて、そして言った。
「行きましょう」
「え?」
 とっさに聞き返した紫野は、吉備にじろりと睨まれる。
「お母さまのところよ。何があったのか、お伺いするのよ」
「でも、阿閇さまは氷高さまを、と……」
「だから、行くんじゃない。大丈夫よ、わたくしたちを追い返したりはなさらないわ」
 歯の痛みを忘れたように急ぎ足で阿閇の宮へと向かう吉備を、紫野は慌てて追った。そして案内もないままに母の宮に立ち入った吉備について廊下をゆく紫野は、あたりでささやきかわされる声を聞く。
「高市皇子さまが……」
 紫野は思わず振り返った。そして吉備と顔を見合わせる
「お姉さま……」
 見れば、居室の奥から現れたのは氷高だった。身なりは整えられ、外出用のきちんとした装いに身を包んでいる。ともに、阿閇が姿を見せる。
「どこにおいでになるの?」
 阿閇と氷高は、目を合わせた。そして小さくため息をついた。
高市たけちさまが、亡くなられたの」
「……え……?」
 吉備の、ただでさえ大きな目が、こぼれ落ちそうなほどに見開かれる。
「先ほど、知らせがあったの。とりあえず、お館に行こうと思って」
「そ、んな……」
 震える声とともに、吉備の黒目がちの瞳からはぽろぽろと、透明なしずくがあふれ出してきた。
「まぁ、吉備」
「だって、だって……!」
 夜着の袖で、吉備は必死にこぼれる涙をぬぐおうとする。しかし溢れる涙に間に合わずに、やがては顔を覆って座り込んでしまう。
「吉備、そんな、泣かないでちょうだい」
「だって……お姉さまは、悲しくないの?」
「それは、もちろんだけれども……」
「だってだって、かわいそうだわ……高市の叔父様は、一生懸命お仕事なされていた、そのさなかだったのに……」
「吉備……」
「かわいそうだわ。……御名部みなべの叔母さまも、長屋のお兄さまも、鈴鹿すずかさまも」
 吉備は座り込んだまま、しきりに肩を震わせる。慰めの言葉をかけようとする氷高も、どうしていいのかと惑う様子だ。
 しきりと泣きじゃくる吉備の横に、紫野はしゃがみ込んだ。
「吉備さま、お泣きにならないで」
「だって……」
 しゃくり上げる吉備の背を撫でながら、紫野は目の前に立つふたりを見上げた。吉備を慰めるいい方法はないか、と問うつもりだった。そして、そこに見たものにはっとする。
 ただただ叔父の死を悼む吉備の純粋な涙の前に、それはあまりにも似付かわしくないものように思えた。阿閇と氷高、ふたりは顔を見合わせ、そっと言葉を交わしている。
 その様子は、仕事盛りのさなか、突如命を奪われた高市への同情でもなければ、夫に先立たれた御名部を気の毒というふうでもない。そして父という後ろ盾を失った長屋やほかの子供たちへの憐れみを示しているというふうでもないと感じられた。
 ふたりは互いにうなずきあい、目で合図をしあった。そこに紫野が嗅ぎ取ったのは、死への哀悼ではない。死によってもたらされるもの。
 恐らくこのふたりは、高市の死んだわけを知っている。そしてそれは素直に死と向き合い泣きじゃくる吉備には、言ってはならないものなのだと。
「紫野」
 氷高の、変わらぬ優しい声が響いた。しかし紫野は、押し殺されているとはいえそこに潜むある色に気づかないわけにはいかなかった。
「吉備を頼んだわよ」
「わたくしも行くわ!」
 吉備はぱっと顔を上げ、泣き濡れた真っ赤な顔でそう叫んだ。
「お慰めしたいの。御名部の叔母さまも、長屋のお兄さまも」
 しかし、阿閇はゆっくりと首を横に振った。
「吉備は、お留守番をしていてちょうだい。また、使いを寄越すわ」
「でも、わたくし……!」
「今は、あちらもきっと慌ただしいわ。子供が行っても、お邪魔になるばかりよ」
 ぴしりとした口調で阿閇に言われ、吉備は肩をすくめた。
「……そうね……」
「夜が明ければ、いらっしゃい。叔母さまたちをお慰めしてあげてちょうだいね」
「……ええ」
「宮へお戻り。夜明けまではまだまだあるわ。朝までおやすみ」
「わかり、ました……」
 氷高が吉備の肩に手を置き、にこりと微笑んだ。
「いい子ね、吉備」
「……あ、の……」
 吉備の消え入りそうな言葉は、しゃくり上げる声に紛れて氷高には届かなかったようだ。氷高が首をかしげると、柔らかく結い上げられた艶やかな黒髪がさらりと揺れた。
「参りましょう、氷高」
「ええ」
 ふたりは、吉備と紫野の前を去った。侍女たちが、慌ただしくそれに従う。その場を去った母と姉を視線で見送りながら、吉備は小さく口を開いた。
「やはり、お姉さまの方が頼りになるかしら」
「え?」
 紫野が首をかしげると、吉備はぱっと振り返った。
「わたくしではなく、お姉さまを、なのね……」
「なにをおっしゃいますの!」
 思わず紫野は声をあげた。
「氷高さまの方がずっとずっと、お年嵩じゃありませんか。それは仕方のないことですわ」
「そうかしら?」
「軽さまは王宮の方においでですし、そうとなれば、阿閇さまがまずは氷高さま、とお考えなのは、当たり前だとわたくしは思いますわ」
「……そう?」
「ええ」
 吉備の目は、紫野の見たことのない色をしていた。その理由に思い至ることが出来ずに、紫野は困惑する。吉備は、紫野から顔を逸らせた。そして自分の宮に向かって先を行く。その後ろ姿を、紫野は慌てて追いかけた。
「もちろんですわ。だってこのようなときに、阿閇さまが氷高さまより先に、吉備さまをお呼びになるようなことがあれば、そちらの方がおかしいじゃありませんか」
「それは、そうだけど……」
「このような夜中に、吉備さままでをお起こしするのは忍びない、とお考えなんですわ」
「高市の叔父さまがお亡くなりになったというのに、わたくしだけ暢気に寝ていられるとでもお思いなのかしら?」
「……吉備さま?」
 紫野は、首をひねる。吉備らしくない、と思った。吉備がそのようなことを言うとは、想像がつかなかった。ただ、ともに宮殿へ上がれないことを不満に拗ねているだけだと思ったのに。
 吉備は、ぱっと振り返った。どきり、と紫野の胸が跳ねる。そこに、自分の知らない吉備がいればどうしよう、と。しかし目の前には見慣れた吉備の笑顔があって、紫野はほっと息をついた。
「ごめんなさいね、わたくし、紫野を困らせたわね」
「いえ、そのようなことはまったく!」
 先ほどの言葉。自分の知っている吉備ではないような言葉に不安をかき立てられていた紫野は、吉備の笑顔を失いたくないと慌てて首を横に振った。
「拗ねるつもりはなかったのよ。ごめんなさい」
「そんな、吉備さま……」
 そんな紫野に応えるように、吉備は濡れたままの目でにっこりと微笑む。
「朝になったら、わたくしも御名部の叔母さまのお屋敷に行くわ。長屋のお兄さまも鈴鹿さまも、さぞお気を落としでしょうに」
「そうでございますわね……」
「お祖母さまも。太政大臣を失われてどのようにお思いか……」
 紫野は、吉備の横顔をじっと見ていた。宮に戻ると吉備に促されるまで、紫野は吉備の横顔を見つめていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖

笹目いく子
歴史・時代
旧題:調べ、かき鳴らせ 第8回歴史·時代小説大賞、大賞受賞作品。本所松坂町の三味線師匠である岡安久弥は、三味線名手として名を馳せる一方で、一刀流の使い手でもある謎めいた浪人だった。 文政の己丑火事の最中、とある大名家の内紛の助太刀を頼まれた久弥は、神田で焼け出された少年を拾う。 出自に秘密を抱え、孤独に生きてきた久弥は、青馬と名付けた少年を育てはじめ、やがて彼に天賦の三味線の才能があることに気付く。 青馬に三味線を教え、密かに思いを寄せる柳橋芸者の真澄や、友人の医師橋倉らと青馬の成長を見守りながら、久弥は幸福な日々を過ごすのだが…… ある日その平穏な生活は暗転する。生家に政変が生じ、久弥は青馬や真澄から引き離され、後嗣争いの渦へと巻き込まれていく。彼は愛する人々の元へ戻れるのだろうか?(性描写はありませんが、暴力場面あり)

女の首を所望いたす

陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。 その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。 「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」 若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!

北海帝国の秘密

尾瀬 有得
歴史・時代
 十一世紀初頭。  幼い頃の記憶を失っているデンマークの農場の女ヴァナは、突如としてやってきた身体が動かないほどに年老いた戦士トルケルの側仕えとなった。  ある日の朝、ヴァナは暇つぶしにと彼が考えたという話を聞かされることになる。  それは現イングランド・デンマークの王クヌートは偽物で、本当は彼の息子であるという荒唐無稽な話だった。  本物のクヌートはどうしたのか?  なぜトルケルの子が身代わりとなったのか?  そして、引退したトルケルはなぜ農場へやってきたのか?  トルケルが与太話と嘯きつつ語る自分の半生と、クヌートの秘密。  それは決して他言のできない歴史の裏側。

天の白鳥

ginsui
歴史・時代
中臣鎌足と有馬皇子の物語。

首切り女とぼんくら男

hiro75
歴史・時代
 ―― 江戸時代  由比は、岩沼領の剣術指南役である佐伯家の一人娘、容姿端麗でありながら、剣術の腕も男を圧倒する程。  そんな彼女に、他の道場で腕前一と称させる男との縁談話が持ち上がったのだが、彼女が選んだのは、「ぼんくら男」と噂される槇田仁左衛門だった………………  領内の派閥争いに巻き込まれる女と男の、儚くも、美しい恋模様………………

処理中です...