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序章
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鈴が鳴る。
金色のしずくのように、それはちり、とこぼれ落ちた。小さな鳥がさえずるのにも似た、涼やかな音が響く。
「これは……長屋さまからの?」
吉備は、うなずいた。紫野は両手をそろえ、吉備の手から金色の小さい鈴を受け取った。自分の手が震えていることに気がついたのは、そのときだった。
「それが、わたくしの心です」
落ちついた、低い声で吉備は言った。いつもの通り、変わらない口調だった。
「そう、長屋さまにお伝えして」
「吉備さま……?」
震えているのは手だけではないということを、紫野自身の声が教えてくれた。見上げた紫野に、吉備はゆったりとした笑みを見せた。
「わたくしは、わたくしの決めた生き方を貫くことが出来たことに、誇りを感じています」
すっと伸びた背筋。心の底までを見透かすような、澄んだ視線。さぁ。そんな声とともに、吉備は紫野を促した。
すがるように紫野は、吉備を見つめた。しかし吉備は、穏やかさの中にも決して揺らぐことのない意志を秘めた強い瞳で言った。
「長屋さまのところに。わたくしたちは、あの方を煩らわせるようなことはいたしません、と。お心のまま、存分にお働き下さい、と」
紫野に新たな微笑みを投げ掛け、そして吉備は声をあげた。それに従うように姿を現したのは、三人の青年。最後に現れたもうひとりは、少し悲しそうな顔をして紫野を見やった。
「忘れないように、紫野。それを、長屋さまにお渡ししてね。必ず……そして、お姉さまのもとへ、行ってちょうだい」
「吉備さま!」
「決して、わたくしたちの後に続こう、などと思ってはいけません」
吉備の意志を翻させようというのか。そのようなことは無理だ、否、考えてもいない。吉備がその信念にしたがって決めた道、諦めさせる術などどこにあるというのか。
それでも、頭だけでは整理しきれない思いを、紫野は視線で吉備にぶつけた。澄んだ、真っ直ぐの瞳。絡まる眼差しからは、紫野のよく知っている、そうと決めれば決して翻すことのない吉備の意志が感じられた。そして諦めに、頭を垂れた。
「お言葉のままに……」
吉備は、紫野の言葉にうなずいた。そして四人の青年たちを、言葉を使わずにいざなった。重い扉。ぎぃ、と響く木の音。さやさやと流れる衣擦れの音。
必死に声をこらえた。叫び出しそうになるのを、胸を押さえて懸命に耐える。
それは、ゆっくりと閉じた扉の音とともに破られた。
「吉備さま、吉備さま!」
胸を裂く叫びだった。しかし扉は隙間なく閉まっており、声が届くはずもない。紫野の耳には、記憶の吉備の声だけが響く。
「お姉さまに、伝えてちょうだい」
お姉さま。その言葉を、吉備は噛み締めるように言った。
「伝えてちょうだい。わたくしの最期を……」
扉の前で、紫野は崩れるように座り込む。そしてうずくまった。手には、ちりちりと鳴る金の鈴を握ったまま。
部屋の奥からは、静かに行き交うひとの気配、調度が引きずられる音が聞こえてくる。がたん、と何かが倒れる音がいくつも続き、やがて部屋の中には再びの静寂が戻った。
「必ず……必ず。皇女さま……!」
恐ろしいほどしんと静まり返った、館のうち。
それは、あの日伯母と呼ぶ女性に手を引かれ、足を踏み入れた宮の中。広い居室に感じた恐ろしいまでの静寂と、よく似ていた。
金色のしずくのように、それはちり、とこぼれ落ちた。小さな鳥がさえずるのにも似た、涼やかな音が響く。
「これは……長屋さまからの?」
吉備は、うなずいた。紫野は両手をそろえ、吉備の手から金色の小さい鈴を受け取った。自分の手が震えていることに気がついたのは、そのときだった。
「それが、わたくしの心です」
落ちついた、低い声で吉備は言った。いつもの通り、変わらない口調だった。
「そう、長屋さまにお伝えして」
「吉備さま……?」
震えているのは手だけではないということを、紫野自身の声が教えてくれた。見上げた紫野に、吉備はゆったりとした笑みを見せた。
「わたくしは、わたくしの決めた生き方を貫くことが出来たことに、誇りを感じています」
すっと伸びた背筋。心の底までを見透かすような、澄んだ視線。さぁ。そんな声とともに、吉備は紫野を促した。
すがるように紫野は、吉備を見つめた。しかし吉備は、穏やかさの中にも決して揺らぐことのない意志を秘めた強い瞳で言った。
「長屋さまのところに。わたくしたちは、あの方を煩らわせるようなことはいたしません、と。お心のまま、存分にお働き下さい、と」
紫野に新たな微笑みを投げ掛け、そして吉備は声をあげた。それに従うように姿を現したのは、三人の青年。最後に現れたもうひとりは、少し悲しそうな顔をして紫野を見やった。
「忘れないように、紫野。それを、長屋さまにお渡ししてね。必ず……そして、お姉さまのもとへ、行ってちょうだい」
「吉備さま!」
「決して、わたくしたちの後に続こう、などと思ってはいけません」
吉備の意志を翻させようというのか。そのようなことは無理だ、否、考えてもいない。吉備がその信念にしたがって決めた道、諦めさせる術などどこにあるというのか。
それでも、頭だけでは整理しきれない思いを、紫野は視線で吉備にぶつけた。澄んだ、真っ直ぐの瞳。絡まる眼差しからは、紫野のよく知っている、そうと決めれば決して翻すことのない吉備の意志が感じられた。そして諦めに、頭を垂れた。
「お言葉のままに……」
吉備は、紫野の言葉にうなずいた。そして四人の青年たちを、言葉を使わずにいざなった。重い扉。ぎぃ、と響く木の音。さやさやと流れる衣擦れの音。
必死に声をこらえた。叫び出しそうになるのを、胸を押さえて懸命に耐える。
それは、ゆっくりと閉じた扉の音とともに破られた。
「吉備さま、吉備さま!」
胸を裂く叫びだった。しかし扉は隙間なく閉まっており、声が届くはずもない。紫野の耳には、記憶の吉備の声だけが響く。
「お姉さまに、伝えてちょうだい」
お姉さま。その言葉を、吉備は噛み締めるように言った。
「伝えてちょうだい。わたくしの最期を……」
扉の前で、紫野は崩れるように座り込む。そしてうずくまった。手には、ちりちりと鳴る金の鈴を握ったまま。
部屋の奥からは、静かに行き交うひとの気配、調度が引きずられる音が聞こえてくる。がたん、と何かが倒れる音がいくつも続き、やがて部屋の中には再びの静寂が戻った。
「必ず……必ず。皇女さま……!」
恐ろしいほどしんと静まり返った、館のうち。
それは、あの日伯母と呼ぶ女性に手を引かれ、足を踏み入れた宮の中。広い居室に感じた恐ろしいまでの静寂と、よく似ていた。
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