サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月10日(月) 1

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「くしゅん。ああ……」
 新日風潮編集室の会議室に春木陽香のくしゃみが響いた。
 編集室の一画にほぼ無理矢理に設置された会議室の中には、楕円形の机が置かれている。窓を背にした上座にあたる位置の席を空けて、その左右に春木陽香と別府博が座っていた。
 鼻を啜った春木陽香を見ながら、別府博が呆れ顔で言う。
「まだ治ってないのかよ」
 ティッシュを顔に当てて大きく鼻をかんだ春木陽香は、それを隅に置かれた小さなゴミ箱に放りながら答えた。
「――もう大丈夫です。まだ少し、くしゃみが出るだけで」
 別府博は先輩らしく春木に忠告した。
「ま、高校出の新人なら五月病も解るけど、ハルハルは大学に行ってリターンしてきた訳だろ。五月病はマズイんじゃないの。自分の体調はちゃんと管理しないと、編集長にドヤされるぞ」
「はあ……」
 山野紀子は春木の自宅まで来てくれたことを別府には言っていないようだった。
 丁度その時、ドアが開き、山野紀子が入ってきた。
「ういーす。おはよ。そろってる?」
「おはようございます」
 椅子から腰を上げて頭を下げた春木の向かいで、別府博は椅子に座ったまま山野に言った。
「そろってるって、今日は三人じゃないですか。何で僕とハルハルだけなんですか?」
 怪訝な顔をしている別府の背後を通って会議テーブルの上座の指定席に向かいながら、山野紀子は言った。
「文句言わなーい。あ、ハルハル、どう? 治った?」
「ええ。お蔭様で。自然薯で精が付きました」
「でしょ。ていうか、間違えて買ってきたんだけど」
 二人の顔を交互に見ながら、別府博は言った。
「なん? 何ですか、ジネンジョって」
 上座の椅子に腰を降ろした山野紀子は、ニヤニヤしながら答えた。
「女同士の秘密よ。ねえ、ハルハル」
 春木陽香も頷いて答えた。
「はい。女三人だけの秘密です」
「三人? どゆこと?」
 首を傾げている別府博を無視して、山野紀子は一度大きく手を叩くと、言った。
「はい、じゃあ、朝の編集会議を始めるわよ」
「あの、編集長」
 挙手をして、別府博はもう一度尋ねた。
「どうして、僕とハルハルだけなんですか」
 目を瞑って腕組みをした山野紀子は、落ち着いた様子で答えた。
「いや、もう一人来る」
「もう一人? 誰で……」
 別府の質問をかき消すように、大きな歌声が響いてきた。
「エンダアアアアー!」
 両手の人差し指で両耳を塞ぎながら、山野紀子はまた落ち着いた様子で答えた。
「ほら、来た。その『もう一人』よ」
 歌声が更に徐々に大きくなってくる。ドアが開き、会議室に男が入っていた。
「アアー、ウィルオールウェイズ、ラブ、ユーウーウウー。おはよお、エビバディ! あなたのことを影で見守る愛の男、勇一松頼斗よ」
 今日の彼は黒いタキシード姿だった。黒い蝶ネクタイもしている。ただ、なぜかその蝶ネクタイを斜めにして少し緩めていた。タキシードの上着も中の白いワイシャツも少し汚れている。と言うよりも、わざと汚しているようだ。よく見ると、ワイシャツの胸のあたりに小さな穴が開いていた。その穴の周りをマジックで書いたであろうギザギザが囲んでいる。彼はその奇妙な格好でも相変わらず、愛用の大きなレンズのカメラを首にぶら提げていた。
 春木陽香は、そのカメラを指差しながら思わず言った。
「今日はパパラッチですか」
「違うわよ。失礼ね。あんなゲスな連中と一緒にしないでよ。私はアーティストなのよ、アーティスト。フォートグラフィック・アーティスト。お分かり?」
「フォぉぉト、グラふぃック・アぁぁティストですか」
「違うわよ。フォォートゥ、グルァフィッック・アーティスト。フィが駄目ね、フィが。下唇をしっかり噛んで、息を隙間からフィっと、こう強く……」
 山野紀子は呆れたような顔で勇一松に言った。
「いいから、はい、座って」
 勇一松頼斗が不承不承と春木の隣に座ると、山野紀子が口を開いた。
「いい。今日から、このメンバーで、独立の取材チームを構成します。ネタは……」
「まさか、例の『ドクターT』じゃないでしょうね」
「正解。冴えてるわねえ、ライト」
 勇一松を指差した山野に別府博が尋ねた。
「ってことは、取材対象は司時空庁ですか」
 それを聞いた勇一松頼斗が声を裏返して言った。
「冗談じゃないわよ。あそこ、ビルの中もタイムマシンの発射施設も、ほとんど撮影禁止じゃない。私の出る幕ないじゃないのよ。まさか、インタビュー対象者の雁首写真ばかり拾えって言うんじゃないでしょうね。私、嫌よ。そんな面白くない仕事。もっと、こう、スリリングな撮影じゃないと」
 記者業界では首から上を正面から撮影した顔写真のことを「雁首写真」とか単に「雁首」などと呼んでいる。それは、フォートグラフィック・アーティストの勇一松頼斗が最も嫌うアングルの写真だった。
 山野紀子はそのことを知った上で、彼に言った。
「出る幕、大有りよ。撮影禁止だから、あんたを呼んだの。意味、解る?」
 するとまた、別府博が挙手をして山野に尋ねた。
「でも、編集長。それ、ハルハルと編集長が既にやってるんですよね。上の新聞の方と協力して」
「うん。だけど、新聞はロック掛けられちゃったみたいだから」
「ロック? また外部からの圧力ですか」
 山野紀子は別府の質問にあっさりと答えた。
「そ。それで、動ける私たちがメインになったってわけ。大ネタを独り占めして花道を歩けるチャンスなのよ。やるしかないじゃない。しかも、取材はかなりシビア。どう、ライト、スリリングでしょ」
「うーん……面白そうだけど、危ないのは嫌よ。スリルとデンジャーは、ディッファレントだからね」
 勇一松に続いて別府博も言った。
「僕だって、家族が居ますからね。ヤバイ取材は御免ですよ。億乃目組とか、勘弁ですからね」
 山野紀子は首を横に振る。
「それは無い。大丈夫。――でも、新人のハルハルが一人で中裏地区に行ったのよ。先輩の別府君がそれじゃあねえ……」
 別府に冷ややかな視線を送る山野に勇一松頼斗が尋ねた。
「週刊号はどうするのよ」
 山野紀子は背もたれに身を投げて言った。
「それからは一時的に外れてもらう。ま、進行状況は私から毎週説明するから。本誌に復帰する際の心配は、しなくていい」
 春木陽香は目を輝かせて言った。
「じゃあ、完全に、この件に専属で取り掛かれるんですね」
 山野紀子は大きく頷いてから言った。
「そ。と言う訳で、早速、取材分担を割り振るわね。まず、ハルハルは、従来どおり田爪瑠香の行方を追ってちょうだい。別府君は、総理府」
 別府博は目を丸くして聞き返す。
「そ、総理府? 先週まで堤シノブのヌードとか、若奥様の秘密のアルバイトの記事を書いていた僕が、総理府?」
 山野紀子は面倒くさそうに別府を指差しながら言った。
「こういう時は、ノーマークな人材がベストなのよ」
「どういう意味ですか、それ……」
 口を尖らせてそう言った別府に、山野紀子はさらに指示を出した。
「それと、司時空庁から、過去にタイムマシンに乗った人のリストを手に入れてちょうだい」
「司時空庁から? 無理ですよ、そんな。最高機密の極秘情報じゃないですかあ。どうして僕だけ……」
「いいから、言われたら、やる! ぶつくさ言うな、バカタレ」
 山野紀子は別府に怒鳴りつけると、勇一松の方に顔を向けた。
「ライトは、別府君とハルハルのバックアップ」
「ちょっと、私がバックアップって何よ。私ね、伊達や酔狂で週刊誌のカメラマンをやってるんじゃないのよ。ちゃんと調査だって出来るんだからね。もっと、ちゃんと使いなさいよ」
「じゃあ、田爪博士と高橋博士の写真、それと、別府君がタイムマシンの搭乗者リストを手に入れたら、そのリストにある人物たちの写真を集めて。雁首でね」
 勇一松頼斗は下唇を出して返事をした。
「へえへえ。やっぱり雁首なのね。――それで」
 ふてくされ顔の勇一松に対して、山野紀子は更に指示を重ねた。
「あとは、その人たちから辿って、周辺人物の写真を集めて欲しいの。こっちは、雑誌に掲載出来そうなアングルでね。搭乗者たちの生活事情なんかが一発で読者に伝わるやつをお願い」
 勇一松頼斗は指を鳴らして答えた。
「イヤァ! それよ、それ。そういうのを待ってたのよ」
 その隣で春木陽香が言った。
「編集長は?」
「真ちゃんが例の論文の判読を依頼した科警研の技官にハッパ掛けてくるわ。今月の発射にも間に合わなかったら、大変でしょ。さっさと読めって」
 春木陽香は不思議そうな顔で尋ねた。
「私が行かなくていいんですか。神作キャップは私にって……」
 山野紀子は首を横に振った。
「いいわ。私が行く。どんな美人か知らないけど、この件には人の命が懸かってるってことを認識させてやるわ。論文データのホログラフィーじゃなくて、コンパクトの鏡なんかを覗いていたら、一発くらわしてやる。はあああ……」
 拳に息を吹きかけている山野を横目で見ながら、頭の後ろで手を組んだ別府博がボソリと言った。
「ですよね。給料日の度に憂鬱になるのも、嫌ですもんね」
 山野紀子は少し驚いたような顔で別府を指差した。
「お、別府君も、ようやく記者らしくなってきたわね。その調子で総理府も頼むわね」
 別府博はそのままの姿勢で山野に言った。
「いや、頼まれるのはいいんですけどね、総理府で何を掴めばいいんです? 例の投書が総理府に届いているのは、重成さんが調べたんですよね」
 山野紀子は答えた。
「それなのに、どうして官邸は動かないのか、不思議でしょ。その理由を知りたいのよ。どこかで情報が遮断されているのか、それとも、他に何か事情があるのか、あるとしたら、その事情はどんなものか」
 別府博は手を解いて言った。
「はあ? それ、僕だけハードルが高過ぎじゃないですか?」
 山野紀子は口の横に手を添えて、耳打ちする仕草で言った。
「これ取れたら、この前の旅行の費用、家族分も出してもらえるかもよ」
「え、あ、マジですか。よっしゃ、久々に本気出すか」
 別府博はしきりに肩を回しながらそう言った。
 山野紀子は両手で軽くテーブルを叩くと、話を仕切った。
「よし。じゃあ、そういうことで。短いけど、特別チームの編集会議は、これで終わりっと。別府君、通常の編集会議を開くから、みんなに集まるように言って」
 山野紀子は、そのまま反対に顔を向けた。
「それから、ハルハル。あんた、今日はどうするのよ」
「ええと、とりあえず、第二実験前に田爪夫妻が住んでいた家を訪ねてみます。そこから足取りを追うしか、今のところ方法が無いので。その後で、瑠香さんの母校の大学に行ってみようかと」
「都内だっけ」
「いえ、東京です」
「そう……じゃあ、ライト、あんたハルハルに付いていきなさい」
「え、東京まで?」
 椅子から腰を浮かせて固まっている勇一松を指差しながら、山野紀子は言った。
「そうよ。ホディーガードよ、ボディーガード」
 山野紀子はニヤリと笑う。
 勇一松頼斗は自分の恰好を見てしきりに瞬きをしていた。

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