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第2部
2038年5月6日(木) 7
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ゆっくりと瞼を上げた。長いまつ毛の隙間から白一面と煌く光源が見えた。徐々に輪郭が明瞭になってくる。正方形に縁取られた升目が並ぶ白い天井、豪華なシャンデリア。
涼しい。エアコンがよく効いている。額の上には冷たい物が乗せられていた。濡れたタオルだった。自分は横に寝かされている。そう自覚した春木陽香は、その体勢のまま視線だけを動かした。
細い窓枠が丁寧に取り付けられた出窓が見える。その窓から柴の広場と自分が上ってきた坂道の終点、林の木々が見えている。広場の前には池があり、その周囲では薔薇が美しい花を咲かせていた。出窓の手前には重厚で豪華な木彫りの飾りが施された両袖の大きな書斎机があった。それが相当に高級な机であることは、その時の春木にも一目で分かった。書斎机の向こうには、出窓を背にして誰かが座っていた。春木陽香は目を凝らした。山野が座っているようなハイバックのパーソナルチェアーに洒落たスーツ姿の痩せた白髪の老女が腰掛けている。その老女は机の上に本物の書籍を広げ、凛とした姿勢でそれを読んでいた。
視線に気づいた老女は、老眼鏡と額の間からこちらを覗くと、すぐにその眼鏡を外して言った。
「あら、お目覚めのようね」
春木陽香は体を起こした。彼女はブロケード張りの豪華なカウチに寝かされていた。
「あの……」
落ちたタオルを拾うのも忘れて、カウチに足を放り出して座ったまま、春木陽香は周囲を見回した。壁一面を本が埋めている。どうやら、ここは書斎のようだ。視線を部屋の奥に向ける。三人掛けの厚みのあるソファーが左右の壁の本棚をそれぞれ背にして向かい合わせに置かれていた。突き当りの壁には水墨で描かれた雉の大きな絵が掛けられている。
本棚に目を戻すと、その下の方は人の腰くらいの高さで少しせり出していて、その棚の上に小さな額に飾られた写真が幾つか立てられていた。その一つには白いドレスの美しい女性が花束を持って写っている。フラッシュに眩しそうに目を細め、笑顔はない。その隣に立てられた写真には、その髪の長い女性と白髪の女性が一緒に笑顔で写っていた。その二人はよく似ていて、上品であった。
他人の家でキョロキョロとするのは非礼であるとの祖母の教えを思い出し、春木陽香はその広い部屋の中を見回すのをやめた。
春木陽香はカウチから両足を降ろして床に着いた。足の裏に心地よい柔らかな感触を覚える。彼女が下を見ると、足からは靴が脱がされていて、カウチの横に揃えて置かれていた。春木陽香は思わずまた自分の足下から部屋全体の床を見回し、そこに敷かれた毛並みの良い絨毯を観察した。広い書斎の床全体に合わせて仕立ててある一枚のペルシャ絨毯のようであった。彼女の拙い見立てによっても、その絨毯は最高級品に違いなかった。
自分が居る場所に気付いた春木陽香は、急いで靴を履いた。慌てている彼女に、書斎机の向うから老女が穏やかな声で言った。
「軽い脱水症状だそうよ。気分はどう?」
春木陽香は髪を整えながら答えた。
「えっと、あの……すみませんでした。ご迷惑をお掛けしました」
春木陽香は平身低頭した。
老女は本を閉じて言う。
「今、執事が冷たい飲み物を運んでくるわ。少しお待ちなさい」
「あ、いえ、そんな……」
春木陽香は視界の隅に映った物に目を遣った。カウチの横の小さなテーブルには水滴をつけたガラス製のコップが銀製の盆の上に置かれている。その中には半分溶けた氷と少し溜まった水が残っており、ストローが差されていた。
春木陽香は微かな記憶を辿った。白髪の老紳士に担がれてここに運ばれてきた後、白と黒に点滅しながら回転する天井を見ながら、口に当てられたストローから冷水を吸い上げてとにかく必死に飲んだことまでは何となく覚えていた。
春木陽香が自分の鞄を探して辺りを見回していると、老女が部屋の奥を指差した。鞄は応接ソファーの上に置かれていた。春木陽香はカウチから立ち上がり、それを取りに行った。その途中、本棚に飾れたポートレートに再び目がいった。白いドレスを着た美しい女性。その女性の若い頃の写真も並んでいた。年齢は今の自分と同じくらいの頃だろうか。だが、自分とは何かが違う。この女性には貴賓があり、高い知性も感じられる。そして、その目を細めた顔は、どこか寂しげにも感じられた。
春木陽香は、その写真の女性が、自分が探している女性であると直感的に悟った。
ソファーの横で立ったまま背を丸めた春木陽香は、鞄の中を漁り、名刺入れを探した。突っ込んだ両手をゴソゴソと動かしながら、彼女は頭の中で事態を整理した。
春木陽香は、田爪健三の妻・瑠香の行方を知ろうと、彼女の実家を訪ねてみることにした。田爪瑠香はストンスロプ社グループの会長・光絵由里子の養女である。ストンスロプ社は日本が世界に誇るグローバル企業で、配下の研究開発会社GIESCOを中心に数々の技術革新を行ってきた巨大企業である。その進出分野は、自動車、ロボット、宇宙開発、建築、医療、軍事など多岐に渡っていた。日本経済を影で支える大企業体であるこのグループが国内で大きな権力を握っていることは周知の事実である。春木陽香はそのストンスロプ社グループのトップの自宅を訪ねようとしたのだった。
会長の邸宅が建っているのは薫区の中の菊永町である。薫区は新首都圏でも群を抜いた高級住宅が建ち並ぶ地区で、その中の菊永町は国内有数の資産家と権力者たちが豪邸を構えている町である。その町の面積の三分の一は新首都圏の北と西に広がっている下寿達山の峰々の麓の一画にあたる小さな山で占められていて、その小山の中腹から少し上の所に光絵邸は建っている。光絵邸の門は菊永町の高級住宅街を抜けた先の林の奥に建てられており、その門から山の上の邸宅までは舗装された私道を何キロも登らなければならなかった。つまり、その小山そのものが光絵邸の敷地なのである。通常の人間は門から車で上に進み、巨大な邸宅の前の広い庭を回って、正面玄関前のロータリーまで車で移動した。「通常の人間」と言っても、それは自分で車のハンドルを握ることなどは無い人々で、国家元首クラスかそれに相当する要人たちである。実際のところ国内でこの私邸を訪れることができるのは、現職の内閣総理大臣・辛島勇蔵くらいのものであろう。その彼でさえも、光絵会長と面会する時は最大限の礼を尽くし、事前の予約とスケジュール調整を必要とするはずだった。それは巨大企業「ストンスロプ社」の会長・光絵由里子が女傑として知られ、それ程に恐れられている証である。巨大企業の頭首としてグループを統率する彼女は、その才知と胆力、そして冷徹さを広く知られていた。だから、彼女の家に事前の許可も無く足を踏み入れる人間など誰もいない。一介の週刊誌記者に過ぎない春木陽香が光絵邸に何の事前連絡も入れずに訪れても、光絵会長との面会が許されるはずが無いし、仮に事前の連絡をしても、面会の申し入れの時点で断られて当然であった。春木自身もそのことは十分に分かっていた。だが、彼女は何かに突き動かされるように新日風潮の編集室から飛び出して、光絵邸に向かったのだった。
春木陽香は都営バスに乗り、南北幹線道路を北へと進んだ。バスは東西幹線道路との合流点である「大交差点」を左折し、そのまま西へ進むと、薫区に入った。区内の循環バスに乗り換えた春木陽香は薫区の西の菊永町の入り口でバスを降り、そこから光絵邸の門まで歩いた。菊永町の住人は運転手付の高級車で移動している人物がほとんどであるから、町の中にバス停は無い。町に建っている一軒一軒の邸宅の敷地も広く、文化財のような立派な塀がどこまでも続いた。彼女はその塀の横をひたすら歩いた。
春木陽香が三軒目の塀を通り過ぎた時点で既に一キロ以上は歩いていた。彼女はヘトヘトになっていた。それでも炎天下を歩き続け、ようやく林の手前に辿り着いた。そこからまた数百メートル進むと、ついに光絵邸の門を見つけた。鉄製の大きな門扉は開いていた。巨大な門を通り、春木陽香はアスファルトで舗装された坂道を歩いて上り始めた。彼女は、少し登れば邸宅が見えてくるだろうと思い込んでいた。だが、どれだけ坂道を歩いても、いつまで経っても邸宅は見えてこなかった。邸宅どころか坂の終わりすら見えない。途中で引き返そうかとも考えたが、彼女は半ば意地になって坂道を登り続けた。午前十時前に会社を出た彼女であったが、腕時計を見ると、とっくに昼休み時間も過ぎていた。彼女は空腹と喉の渇きに耐えながら、滝のように流れる汗をハンカチで拭きつつ、照りつける五月の太陽の下をひたすら歩いた。少し寒くなるという天気予報を信じて着てきた厚手のジャケットがかえって熱を溜め、更に彼女の体を熱した。
熱気に意識が朦朧とする状態で春木陽香がようやく光絵邸を視界に入れることかできる所まで辿り着いた時、彼女を目眩が遅い、急に足の力が抜けた。彼女はその場で倒れ、そのまま意識を失ったのだった。
自分の無謀な行動を思い出した春木陽香は、赤面した顔を隠すように、ソファーの上に置かれた合皮の鞄の中を覗き込んで名刺入れを探した。よくやく名刺入れを見つけ出した彼女は、上半身を起こして上着の裾を整えると、バッグを肩に掛けて振り向いた。春木陽香は名刺入れから自分の名刺を取り出しながら書斎机の前まで歩いていった。机の前に立った彼女は足下に鞄を下ろすと、深々と頭を下げ、両手で持った名刺を机の向こうに座っている老女に丁寧に差し出した。
「本当に、ご迷惑をお掛けしました。私は、新日風潮社の春木陽香と申します。失礼をして、申し訳ございません」
老女は椅子に深く座ったまま右手で名刺を受け取ると、それを読みながら言った。
「誰でも自分の家の庭先で人が倒れていたら救護するわ。でも、今度取材に来る時は、下の門からは車で来ることね。もし、また歩いて来るつもりなら、登山の用意でもしていらっしゃい。水筒もちゃんと持って」
「はい……すみませんでした。門から思った以上に遠くて。こんなに広いとは思わなかったものですから……」
光絵由里子は口角を上げて微笑んだ。
重厚な木彫りのドアが外からノックされた。光絵由里子は低い声で返事をする。
「はい。どうぞ」
「失礼致します」
ドアが静かに開けられ、綺麗に整えられた白髪に白い口髭を蓄えた老紳士が、白い手袋をした手でワゴンを押しながら入ってきた。彼は皺の無いスーツに新たに余計な皺を作るのを避けているかのように、姿勢よく丁寧な動きであった。彼が押していたワゴンの上には、ガラス製の大皿に盛られたカットフルーツと美しい模様の金縁の小皿、畳まれた白いナプキンの上に逆さに伏せられたコップ、水滴を付けた銀製の小さなポットなどが並べられていた。
「お目覚めでございましたか」
そう言って机の少し手前でワゴンを止めた白髪の老紳士は、一度、春木の顔色を確認すると、机の向うに座っている光絵会長の方を向いて言った。
「お飲み物とフルーツをお持ちしました」
「そう。向うのテーブルに置いてちょうだい」
「かしこまりました」
老紳士は、書斎の奥の応接ソファーの方にワゴンを押していった。
机の上の本を引き出しに仕舞った光絵由里子は、横に立て掛けてあった杖の銀細工の握りの部分を掴んだ。そして、杖に体重をかけて椅子から腰を上げながら春木に言った。
「ハーブティーだけと、よかったかしら。それから、果物でも食べて少し体を冷やすといいわ」
春木陽香は慌てた様子で老女に言った。
「そんな。どうぞお気遣い無く。助けて頂いたうえに、もう、これ以上は……」
光絵由里子は杖を突きながらも真っ直ぐとした姿勢で、ゆっくりと歩き出す。彼女は春木の前を歩きながら言った。
「そう。なら、帰りなさい。ただ、私は頂くわ。三時のティータイムですから。自宅で記者と話しをしたことなんて無かったから、楽しみでしたけど、仕方ありませんね。ま、今後も記者の取材に応じることは、まず無いでしょうから、残念だわ」
「あ、ええと……」
春木陽香が何かを言おうとした時、彼女の鳩尾の下から音が鳴り、彼女の本音を晒してしまった。それに気付いた白髪の執事が振り向いて、口角と共に白い口髭を少し上げた。春木陽香は一層に顔を赤らめた。そして、素早く深く腰を折った。
「し、失礼しました」
彼女は自分の腹部を押さえたまま、光絵会長に対して下げた頭を暫らく上げなかった。
白い口髭の老紳士に支えられながらソファーに腰を下ろした光絵会長は、手招きしながら言った。
「せっかく小杉が準備してくれたのだから、早く来て、お座りなさい」
少し顔を上げた春木陽香は、もう一度だけ頭を深く下げると、ソファーの所まで遠慮気味に移動し、執事の小杉に促されてようやくソファーに座った。彼女の前には白いクロスが掛けられた応接テーブルと、その上に置かれたカットフルーツが盛られた大皿、綺麗な模様の取り皿と銀製のフォーク、ソーサーに乗せられたガラス製のティーカップ、ジュースが注がれたコップ、そして、その向こうに座る白髪の老婦人の姿があった。
執事の小杉は、まず春木の前のティーカップにハーブティーを注いだ。春木の鼻の前をミントの澄んだ香が流れる。小杉はテーブルを回り、光絵会長の前のティーカップにも丁寧にハーブティーを注いだ。
テーブルの向うのソファーに姿勢よく座りながら、カップを口元に運んで香を楽しんでいた光絵由里子は、春木に目を向けずに言った。
「どうしたの。飲まないの。香が消えてしまうわよ」
「すみません……。では、いただきます」
春木陽香はカップに手を伸ばした。カップを手に取って口元まで近づけると、ミントの他に仄かに桃の甘い香がした。それまでの緊張が幾分か解れた気がする。カップに口を付けると、中のハーブティーは熱過ぎもせず、ぬる過ぎでもなく、人肌のような心地よい温度であった。口の中に広がったハーブの香は彼女に安らぎと幸福感を与えた。目を閉じて、花畑の中央で大の字に寝転び、そよ風に吹かれる自分を思い浮かべながら、春木陽香は溜まった疲れを吐き捨てるように、音を立てて息を吐いた。そして、ゆっくりと目を開ける。そこにはティーカップを口に当てたまま、目線のみをこちらに向けている光絵会長の姿があった。
我に帰った春木陽香は、また慌ててカップをテーブルの上のソーサーに戻し、頭を下げて言った。
「すみません。失礼しました」
光絵会長は笑いながらカップをテーブルの上に置くと、軽く右手を上げて小杉に合図を送った。
白髪の老執事は深く一礼をすると、ドアの方に姿勢よく歩いていき、再度一礼してから退室してドアを閉めた。
光絵由里子は背筋を正して春木を真っ直ぐに見据えると、彼女に尋ねた。
「それで、何を訊きに来たのかしら」
光絵由里子は七十六歳という年齢に似合わない攻撃的で威圧的な空気を漂わせた。
春木陽香は椅子の上で少し姿勢を整えながら、考えて答えた。
「実は、娘さんの瑠香さんについて、ご連絡先をお教え願えないかと……」
「娘の何をお調べなのかしら」
「いえ、別に何かを調べているという訳ではなくて、その……よくある『あの人は今』的な企画でして、ご本人の承諾が取れれば、瑠香さんの今のご様子を記事に……」
春木陽香は鋭い目でじっとこちらを見つめている光絵会長に気付いて、嘘をつくのをやめた。彼女は頭を下げると、正直に言った。
「すみません。実は、ある人物の特定をしています。そのために、可能性のある人に全てお会いして、お一人ずつ確認しているところです」
「命を助けてあげた恩人に嘘をつくのは良くないわね」
「ごめんなさい……」
春木陽香は悛として頭を下げた。
光絵由里子は姿勢を正したまま春木に言った。
「要は、消去法で絞りを掛けている、そういうことね。それで、その『ある人物』とは、何をした人なの」
「それは……言えません。ネタ元が判明してしまいますから……。すみません」
春木陽香は申し訳無さそうに、再度頭を下げた。
光絵由里子は言った。
「いいわ。大目に見てあげましょう。でも、娘が関与しているということは、タイムマシンの実験のことかしら。だとすると、あなた方が探しているのは、田爪健三か、高橋諒一博士。違う?」
「あ、えっと……その可能性も……」
春木陽香は図星を指され、動揺した。
光絵由里子はティーカップに手を伸ばしながら言った。
「それなら、ここへ来たのは間違いね。私は娘の行方を知らないわ。もう十年以上、会っていないから」
「十年以上……ですか」
春木陽香は光絵の背後のポートレートに目を遣った。春木の顔が曇る。
光絵由里子は春木の顔を見ながらハーブティーを一口だけ啜ると、視線を落として言った。
「そうよ。あの子が田爪健三と結婚して以来ね」
光絵由里子はティーカップをソーサーごと膝の上に置いて、奥の壁の雉の水墨画に顔を向けた。そして、春木に質問を投げ掛けた。
「あなた、『雉の頓使』という言葉は、ご存知かしら」
春木陽香も光絵の視線を追ってその水墨画に顔を向け、それを見つめながら答えた。
「ええと、たしか、行ったきりで戻ってこない使者のことですよね」
光絵由里子はティーカップを持ち上げた手を止めて春木を見た。その顔は少し驚いたような表情をしていた。光絵由里子はカップに口を付けず、そのままソーサーを添えてテーブルの上に戻すと、春木に言った。
「驚いたわ。あなた、よく勉強しているのね。大学での専攻は何を学んでいたの?」
「基礎法学とジャーナリズム論です。でも、こんなに本は読んでいませんけど……」
春木陽香は光絵の背後の本棚に目を遣った。そこには、理化学の専門書や法律書、哲学書、歴史書などが並べられていた。理化学の書籍は、物理学、特に量子力学の書籍が多く並んでいた。その他にも電気工学や機械工学、生物学の本が並び、その下の段には、会社法、特許法、民法、憲法の分厚い本が並んでいた。歴史書も多く、近代史の研究にも熱心なようであった。哲学は宗教哲学の本が多く、中でも仏教に関する書籍が多かった。そして、どの本も古く、その背表紙の痛み具合から、それらが相当に読み込まれた物であることが分かった。それは光絵由里子の博識と、彼女が勉強熱心である事実を物語っていた。
本棚の書籍を熱心に見回している春木に光絵由里子は言った。
「天照大御神から地上に派遣されたにもかかわらず、八年経っても復命しない天若日子の所に問責使として遣わされたのが、雉の鳴女。ところが天若日子は天照神から賜った弓矢でその雉を射殺してしまう。たしか、そういう話だったかしら」
光絵由里子は春木の顔をじっと見ていた。
春木陽香はそれに気付かないまま、部屋の奥の雉の水墨画に視線を戻し、すこし記憶を辿ってから、そのまま答えた。
「はあ……。たぶん、そうだったと思います。それで、帰ってこない使者のことを『雉の頓使』って言うのですよね。でも、その言葉がどうかされたのですか」
今度は春木陽香が光絵の顔を見た。
光絵由里子は視線をテーブルの上に落として、取り皿に手を伸ばしながら言った。
「瑠香も同じだということよ」
「瑠香さんも?」
春木陽香は聞き返したが、光絵由里子は黙っている。春木陽香は考えながら老女の答えを待った。しかし、光絵由里子は、ただ静かに、大皿の上に綺麗に飾られたマンゴーの欠片を、スプーンとフォークを器用に使って小皿の上に移しているだけだった。
マンゴーを移し終えた光絵由里子は、その小皿を膝の上に置くと、向かいの春木に言った。
「果物は食べないの。お腹が空いているんでしょ」
「――あ……それじゃ、遠慮なく。いただきます」
緊張していた春木陽香は、すこし手間取りながら、桃を一切れだけ小皿に乗せ、その小皿を膝の上に置くと、フォークを刺して口に運んだ。
その様子を見ていた光絵由里子が言った。
「美味しい?」
「もぐ……はい。とっても、美味しいです」
光絵由里子は目を細めて言った。
「よかったわ。あの子も桃が好きだから」
「あの……」
桃を飲み込んだ春木陽香は光絵に尋ねようとした。
光絵由里子は先にマンゴーが刺さったフォークを小皿の上に留めたまま言った。
「何かしら」
「さっきの『雉の頓使』の話ですけど、それで、この絵を飾っておられるのですか」
光絵由里子は黄色い果肉を一切れ上品に口元に運ぶと、それを食べた。そして、小皿の上にフォークを置いてテーブルの上に戻すと、再び奥の水墨画を見ながら言った。
「雉はね、この国の国鳥に指定されているわ。だから、飾っているの。それだけよ。いろいろと忘れないように」
「国鳥だから……ですか……」
光絵由里子は、水墨画の方に向けていた顔を春木の方に戻して尋ねた。
「あなたは、この絵を見て、どう思うの」
「はあ、いい絵だと思いますけど……」
「浮かんだ言葉は?」
その問いに、春木陽香は咄嗟に答えた。
「桃太朗の鬼退治……ですかね」
「吉備団子の? フフフ。面白い子ね。他には?」
春木陽香は少し考えた。
「ええと……雉焼豆腐とか、雉飯、雉鍋……」
光絵由里子は笑みを浮かべて言った。
「食べ物ばかりね」
「すみません……」
恥ずかしそうに頭を下げた春木に、光絵由里子は言った。
「『雉の隠れ』という言葉は」
「雉の隠れ……」
「頭隠して尻隠さず、という意味よ」
「へえ……。『雉の隠れ』って言うんですか。勉強になりました」
春木陽香は口を尖らせてコクコクと何度も頷いた。
光絵由里子はティーカップを口に近づけながら、目線だけを春木に向けて言った。
「記者さんなのだから、言葉は勉強しないといけないわね」
「あ……はい。――すみません」
春木陽香は座り直して、また謝った。
その後、二人は暫らく黙ってフルーツを食べた。食べながら記憶を辿っていた春木陽香は、ふとある事を思い出し、膝の上で小皿を持ったまま再び雉の水墨画に顔を向けた。春木陽香は口を開いた。
「あの……」
光絵由里子はナプキンで口を拭きながら、春木を見つめた。
春木陽香は言った。
「たしか、『雉の頓使』の神話には、続きがありますよね。雉を貫いた矢は別の神様の所に飛んでいって、その神様がその矢に呪文を唱えて投げ返したら、天若日子の胸に当たって、天若日子は死んでしまったのですよね」
春木陽香は前を向いて光絵由里子の顔を見た。
光絵由里子は視線を膝元に落として微笑んでいた。そして、春木に言った。
「そうね。高木神だったかしらね。届いた矢が邪神を貫いたものなら天若日子に当たるな、天若日子が邪心を抱いているなら天若日子に当たれ、そう唱えて投げ返したのよ」
春木陽香には、どう考えても天若日子に当たる確率が高いように思えたが、その点は指摘せずに老女に尋ねた。
「それも関係がありますか」
光絵由里子はハーブティーを一口啜ってから答えた。
「――どうかしらね。ただ、覚えておきなさい。雉に関する言葉には、こういうものもあるわ」
光絵由里子は春木の目を見て、低い声で言った。
「雉も鳴かずば打たれまい」
一瞬固まった春木陽香は、すぐに光絵から視線を外すと、膝の上の小皿をテーブルの上に戻した。
もう一口ハーブティーを飲んだ光絵由里子は、ゆっくりとした口調で春木に言った。
「あなたも、無用なことを書いたり言ったりしなければ、禍を招かなくて済むわ」
春木陽香は座り直しながら答えた。
「はあ……でも、記者ですから、一応……」
「危険を承知の上ならいいけど」
そう言ってティーカップをテーブルの上に戻した光絵由里子は、少し声を大きくして続けた。
「だけど、よく覚えておきなさい。世の中には、自分が思っている以上に広く複雑な世界があるの。思いもよらない危険や困難が待ち受けていることもあるわ。でも、大抵の人間はそれを事前に察知しないまま先に進む。あなたが下の門からここまでの距離を考え違いしたようにね。それはとても危険なことよ。それだけは忘れないようにしなさい。いいですね」
「はい……」
春木陽香は目線を落として小さく頷いた。
部屋の中には、壁に掛けられた大きな時計の秒針の音だけが聞こえていた。
涼しい。エアコンがよく効いている。額の上には冷たい物が乗せられていた。濡れたタオルだった。自分は横に寝かされている。そう自覚した春木陽香は、その体勢のまま視線だけを動かした。
細い窓枠が丁寧に取り付けられた出窓が見える。その窓から柴の広場と自分が上ってきた坂道の終点、林の木々が見えている。広場の前には池があり、その周囲では薔薇が美しい花を咲かせていた。出窓の手前には重厚で豪華な木彫りの飾りが施された両袖の大きな書斎机があった。それが相当に高級な机であることは、その時の春木にも一目で分かった。書斎机の向こうには、出窓を背にして誰かが座っていた。春木陽香は目を凝らした。山野が座っているようなハイバックのパーソナルチェアーに洒落たスーツ姿の痩せた白髪の老女が腰掛けている。その老女は机の上に本物の書籍を広げ、凛とした姿勢でそれを読んでいた。
視線に気づいた老女は、老眼鏡と額の間からこちらを覗くと、すぐにその眼鏡を外して言った。
「あら、お目覚めのようね」
春木陽香は体を起こした。彼女はブロケード張りの豪華なカウチに寝かされていた。
「あの……」
落ちたタオルを拾うのも忘れて、カウチに足を放り出して座ったまま、春木陽香は周囲を見回した。壁一面を本が埋めている。どうやら、ここは書斎のようだ。視線を部屋の奥に向ける。三人掛けの厚みのあるソファーが左右の壁の本棚をそれぞれ背にして向かい合わせに置かれていた。突き当りの壁には水墨で描かれた雉の大きな絵が掛けられている。
本棚に目を戻すと、その下の方は人の腰くらいの高さで少しせり出していて、その棚の上に小さな額に飾られた写真が幾つか立てられていた。その一つには白いドレスの美しい女性が花束を持って写っている。フラッシュに眩しそうに目を細め、笑顔はない。その隣に立てられた写真には、その髪の長い女性と白髪の女性が一緒に笑顔で写っていた。その二人はよく似ていて、上品であった。
他人の家でキョロキョロとするのは非礼であるとの祖母の教えを思い出し、春木陽香はその広い部屋の中を見回すのをやめた。
春木陽香はカウチから両足を降ろして床に着いた。足の裏に心地よい柔らかな感触を覚える。彼女が下を見ると、足からは靴が脱がされていて、カウチの横に揃えて置かれていた。春木陽香は思わずまた自分の足下から部屋全体の床を見回し、そこに敷かれた毛並みの良い絨毯を観察した。広い書斎の床全体に合わせて仕立ててある一枚のペルシャ絨毯のようであった。彼女の拙い見立てによっても、その絨毯は最高級品に違いなかった。
自分が居る場所に気付いた春木陽香は、急いで靴を履いた。慌てている彼女に、書斎机の向うから老女が穏やかな声で言った。
「軽い脱水症状だそうよ。気分はどう?」
春木陽香は髪を整えながら答えた。
「えっと、あの……すみませんでした。ご迷惑をお掛けしました」
春木陽香は平身低頭した。
老女は本を閉じて言う。
「今、執事が冷たい飲み物を運んでくるわ。少しお待ちなさい」
「あ、いえ、そんな……」
春木陽香は視界の隅に映った物に目を遣った。カウチの横の小さなテーブルには水滴をつけたガラス製のコップが銀製の盆の上に置かれている。その中には半分溶けた氷と少し溜まった水が残っており、ストローが差されていた。
春木陽香は微かな記憶を辿った。白髪の老紳士に担がれてここに運ばれてきた後、白と黒に点滅しながら回転する天井を見ながら、口に当てられたストローから冷水を吸い上げてとにかく必死に飲んだことまでは何となく覚えていた。
春木陽香が自分の鞄を探して辺りを見回していると、老女が部屋の奥を指差した。鞄は応接ソファーの上に置かれていた。春木陽香はカウチから立ち上がり、それを取りに行った。その途中、本棚に飾れたポートレートに再び目がいった。白いドレスを着た美しい女性。その女性の若い頃の写真も並んでいた。年齢は今の自分と同じくらいの頃だろうか。だが、自分とは何かが違う。この女性には貴賓があり、高い知性も感じられる。そして、その目を細めた顔は、どこか寂しげにも感じられた。
春木陽香は、その写真の女性が、自分が探している女性であると直感的に悟った。
ソファーの横で立ったまま背を丸めた春木陽香は、鞄の中を漁り、名刺入れを探した。突っ込んだ両手をゴソゴソと動かしながら、彼女は頭の中で事態を整理した。
春木陽香は、田爪健三の妻・瑠香の行方を知ろうと、彼女の実家を訪ねてみることにした。田爪瑠香はストンスロプ社グループの会長・光絵由里子の養女である。ストンスロプ社は日本が世界に誇るグローバル企業で、配下の研究開発会社GIESCOを中心に数々の技術革新を行ってきた巨大企業である。その進出分野は、自動車、ロボット、宇宙開発、建築、医療、軍事など多岐に渡っていた。日本経済を影で支える大企業体であるこのグループが国内で大きな権力を握っていることは周知の事実である。春木陽香はそのストンスロプ社グループのトップの自宅を訪ねようとしたのだった。
会長の邸宅が建っているのは薫区の中の菊永町である。薫区は新首都圏でも群を抜いた高級住宅が建ち並ぶ地区で、その中の菊永町は国内有数の資産家と権力者たちが豪邸を構えている町である。その町の面積の三分の一は新首都圏の北と西に広がっている下寿達山の峰々の麓の一画にあたる小さな山で占められていて、その小山の中腹から少し上の所に光絵邸は建っている。光絵邸の門は菊永町の高級住宅街を抜けた先の林の奥に建てられており、その門から山の上の邸宅までは舗装された私道を何キロも登らなければならなかった。つまり、その小山そのものが光絵邸の敷地なのである。通常の人間は門から車で上に進み、巨大な邸宅の前の広い庭を回って、正面玄関前のロータリーまで車で移動した。「通常の人間」と言っても、それは自分で車のハンドルを握ることなどは無い人々で、国家元首クラスかそれに相当する要人たちである。実際のところ国内でこの私邸を訪れることができるのは、現職の内閣総理大臣・辛島勇蔵くらいのものであろう。その彼でさえも、光絵会長と面会する時は最大限の礼を尽くし、事前の予約とスケジュール調整を必要とするはずだった。それは巨大企業「ストンスロプ社」の会長・光絵由里子が女傑として知られ、それ程に恐れられている証である。巨大企業の頭首としてグループを統率する彼女は、その才知と胆力、そして冷徹さを広く知られていた。だから、彼女の家に事前の許可も無く足を踏み入れる人間など誰もいない。一介の週刊誌記者に過ぎない春木陽香が光絵邸に何の事前連絡も入れずに訪れても、光絵会長との面会が許されるはずが無いし、仮に事前の連絡をしても、面会の申し入れの時点で断られて当然であった。春木自身もそのことは十分に分かっていた。だが、彼女は何かに突き動かされるように新日風潮の編集室から飛び出して、光絵邸に向かったのだった。
春木陽香は都営バスに乗り、南北幹線道路を北へと進んだ。バスは東西幹線道路との合流点である「大交差点」を左折し、そのまま西へ進むと、薫区に入った。区内の循環バスに乗り換えた春木陽香は薫区の西の菊永町の入り口でバスを降り、そこから光絵邸の門まで歩いた。菊永町の住人は運転手付の高級車で移動している人物がほとんどであるから、町の中にバス停は無い。町に建っている一軒一軒の邸宅の敷地も広く、文化財のような立派な塀がどこまでも続いた。彼女はその塀の横をひたすら歩いた。
春木陽香が三軒目の塀を通り過ぎた時点で既に一キロ以上は歩いていた。彼女はヘトヘトになっていた。それでも炎天下を歩き続け、ようやく林の手前に辿り着いた。そこからまた数百メートル進むと、ついに光絵邸の門を見つけた。鉄製の大きな門扉は開いていた。巨大な門を通り、春木陽香はアスファルトで舗装された坂道を歩いて上り始めた。彼女は、少し登れば邸宅が見えてくるだろうと思い込んでいた。だが、どれだけ坂道を歩いても、いつまで経っても邸宅は見えてこなかった。邸宅どころか坂の終わりすら見えない。途中で引き返そうかとも考えたが、彼女は半ば意地になって坂道を登り続けた。午前十時前に会社を出た彼女であったが、腕時計を見ると、とっくに昼休み時間も過ぎていた。彼女は空腹と喉の渇きに耐えながら、滝のように流れる汗をハンカチで拭きつつ、照りつける五月の太陽の下をひたすら歩いた。少し寒くなるという天気予報を信じて着てきた厚手のジャケットがかえって熱を溜め、更に彼女の体を熱した。
熱気に意識が朦朧とする状態で春木陽香がようやく光絵邸を視界に入れることかできる所まで辿り着いた時、彼女を目眩が遅い、急に足の力が抜けた。彼女はその場で倒れ、そのまま意識を失ったのだった。
自分の無謀な行動を思い出した春木陽香は、赤面した顔を隠すように、ソファーの上に置かれた合皮の鞄の中を覗き込んで名刺入れを探した。よくやく名刺入れを見つけ出した彼女は、上半身を起こして上着の裾を整えると、バッグを肩に掛けて振り向いた。春木陽香は名刺入れから自分の名刺を取り出しながら書斎机の前まで歩いていった。机の前に立った彼女は足下に鞄を下ろすと、深々と頭を下げ、両手で持った名刺を机の向こうに座っている老女に丁寧に差し出した。
「本当に、ご迷惑をお掛けしました。私は、新日風潮社の春木陽香と申します。失礼をして、申し訳ございません」
老女は椅子に深く座ったまま右手で名刺を受け取ると、それを読みながら言った。
「誰でも自分の家の庭先で人が倒れていたら救護するわ。でも、今度取材に来る時は、下の門からは車で来ることね。もし、また歩いて来るつもりなら、登山の用意でもしていらっしゃい。水筒もちゃんと持って」
「はい……すみませんでした。門から思った以上に遠くて。こんなに広いとは思わなかったものですから……」
光絵由里子は口角を上げて微笑んだ。
重厚な木彫りのドアが外からノックされた。光絵由里子は低い声で返事をする。
「はい。どうぞ」
「失礼致します」
ドアが静かに開けられ、綺麗に整えられた白髪に白い口髭を蓄えた老紳士が、白い手袋をした手でワゴンを押しながら入ってきた。彼は皺の無いスーツに新たに余計な皺を作るのを避けているかのように、姿勢よく丁寧な動きであった。彼が押していたワゴンの上には、ガラス製の大皿に盛られたカットフルーツと美しい模様の金縁の小皿、畳まれた白いナプキンの上に逆さに伏せられたコップ、水滴を付けた銀製の小さなポットなどが並べられていた。
「お目覚めでございましたか」
そう言って机の少し手前でワゴンを止めた白髪の老紳士は、一度、春木の顔色を確認すると、机の向うに座っている光絵会長の方を向いて言った。
「お飲み物とフルーツをお持ちしました」
「そう。向うのテーブルに置いてちょうだい」
「かしこまりました」
老紳士は、書斎の奥の応接ソファーの方にワゴンを押していった。
机の上の本を引き出しに仕舞った光絵由里子は、横に立て掛けてあった杖の銀細工の握りの部分を掴んだ。そして、杖に体重をかけて椅子から腰を上げながら春木に言った。
「ハーブティーだけと、よかったかしら。それから、果物でも食べて少し体を冷やすといいわ」
春木陽香は慌てた様子で老女に言った。
「そんな。どうぞお気遣い無く。助けて頂いたうえに、もう、これ以上は……」
光絵由里子は杖を突きながらも真っ直ぐとした姿勢で、ゆっくりと歩き出す。彼女は春木の前を歩きながら言った。
「そう。なら、帰りなさい。ただ、私は頂くわ。三時のティータイムですから。自宅で記者と話しをしたことなんて無かったから、楽しみでしたけど、仕方ありませんね。ま、今後も記者の取材に応じることは、まず無いでしょうから、残念だわ」
「あ、ええと……」
春木陽香が何かを言おうとした時、彼女の鳩尾の下から音が鳴り、彼女の本音を晒してしまった。それに気付いた白髪の執事が振り向いて、口角と共に白い口髭を少し上げた。春木陽香は一層に顔を赤らめた。そして、素早く深く腰を折った。
「し、失礼しました」
彼女は自分の腹部を押さえたまま、光絵会長に対して下げた頭を暫らく上げなかった。
白い口髭の老紳士に支えられながらソファーに腰を下ろした光絵会長は、手招きしながら言った。
「せっかく小杉が準備してくれたのだから、早く来て、お座りなさい」
少し顔を上げた春木陽香は、もう一度だけ頭を深く下げると、ソファーの所まで遠慮気味に移動し、執事の小杉に促されてようやくソファーに座った。彼女の前には白いクロスが掛けられた応接テーブルと、その上に置かれたカットフルーツが盛られた大皿、綺麗な模様の取り皿と銀製のフォーク、ソーサーに乗せられたガラス製のティーカップ、ジュースが注がれたコップ、そして、その向こうに座る白髪の老婦人の姿があった。
執事の小杉は、まず春木の前のティーカップにハーブティーを注いだ。春木の鼻の前をミントの澄んだ香が流れる。小杉はテーブルを回り、光絵会長の前のティーカップにも丁寧にハーブティーを注いだ。
テーブルの向うのソファーに姿勢よく座りながら、カップを口元に運んで香を楽しんでいた光絵由里子は、春木に目を向けずに言った。
「どうしたの。飲まないの。香が消えてしまうわよ」
「すみません……。では、いただきます」
春木陽香はカップに手を伸ばした。カップを手に取って口元まで近づけると、ミントの他に仄かに桃の甘い香がした。それまでの緊張が幾分か解れた気がする。カップに口を付けると、中のハーブティーは熱過ぎもせず、ぬる過ぎでもなく、人肌のような心地よい温度であった。口の中に広がったハーブの香は彼女に安らぎと幸福感を与えた。目を閉じて、花畑の中央で大の字に寝転び、そよ風に吹かれる自分を思い浮かべながら、春木陽香は溜まった疲れを吐き捨てるように、音を立てて息を吐いた。そして、ゆっくりと目を開ける。そこにはティーカップを口に当てたまま、目線のみをこちらに向けている光絵会長の姿があった。
我に帰った春木陽香は、また慌ててカップをテーブルの上のソーサーに戻し、頭を下げて言った。
「すみません。失礼しました」
光絵会長は笑いながらカップをテーブルの上に置くと、軽く右手を上げて小杉に合図を送った。
白髪の老執事は深く一礼をすると、ドアの方に姿勢よく歩いていき、再度一礼してから退室してドアを閉めた。
光絵由里子は背筋を正して春木を真っ直ぐに見据えると、彼女に尋ねた。
「それで、何を訊きに来たのかしら」
光絵由里子は七十六歳という年齢に似合わない攻撃的で威圧的な空気を漂わせた。
春木陽香は椅子の上で少し姿勢を整えながら、考えて答えた。
「実は、娘さんの瑠香さんについて、ご連絡先をお教え願えないかと……」
「娘の何をお調べなのかしら」
「いえ、別に何かを調べているという訳ではなくて、その……よくある『あの人は今』的な企画でして、ご本人の承諾が取れれば、瑠香さんの今のご様子を記事に……」
春木陽香は鋭い目でじっとこちらを見つめている光絵会長に気付いて、嘘をつくのをやめた。彼女は頭を下げると、正直に言った。
「すみません。実は、ある人物の特定をしています。そのために、可能性のある人に全てお会いして、お一人ずつ確認しているところです」
「命を助けてあげた恩人に嘘をつくのは良くないわね」
「ごめんなさい……」
春木陽香は悛として頭を下げた。
光絵由里子は姿勢を正したまま春木に言った。
「要は、消去法で絞りを掛けている、そういうことね。それで、その『ある人物』とは、何をした人なの」
「それは……言えません。ネタ元が判明してしまいますから……。すみません」
春木陽香は申し訳無さそうに、再度頭を下げた。
光絵由里子は言った。
「いいわ。大目に見てあげましょう。でも、娘が関与しているということは、タイムマシンの実験のことかしら。だとすると、あなた方が探しているのは、田爪健三か、高橋諒一博士。違う?」
「あ、えっと……その可能性も……」
春木陽香は図星を指され、動揺した。
光絵由里子はティーカップに手を伸ばしながら言った。
「それなら、ここへ来たのは間違いね。私は娘の行方を知らないわ。もう十年以上、会っていないから」
「十年以上……ですか」
春木陽香は光絵の背後のポートレートに目を遣った。春木の顔が曇る。
光絵由里子は春木の顔を見ながらハーブティーを一口だけ啜ると、視線を落として言った。
「そうよ。あの子が田爪健三と結婚して以来ね」
光絵由里子はティーカップをソーサーごと膝の上に置いて、奥の壁の雉の水墨画に顔を向けた。そして、春木に質問を投げ掛けた。
「あなた、『雉の頓使』という言葉は、ご存知かしら」
春木陽香も光絵の視線を追ってその水墨画に顔を向け、それを見つめながら答えた。
「ええと、たしか、行ったきりで戻ってこない使者のことですよね」
光絵由里子はティーカップを持ち上げた手を止めて春木を見た。その顔は少し驚いたような表情をしていた。光絵由里子はカップに口を付けず、そのままソーサーを添えてテーブルの上に戻すと、春木に言った。
「驚いたわ。あなた、よく勉強しているのね。大学での専攻は何を学んでいたの?」
「基礎法学とジャーナリズム論です。でも、こんなに本は読んでいませんけど……」
春木陽香は光絵の背後の本棚に目を遣った。そこには、理化学の専門書や法律書、哲学書、歴史書などが並べられていた。理化学の書籍は、物理学、特に量子力学の書籍が多く並んでいた。その他にも電気工学や機械工学、生物学の本が並び、その下の段には、会社法、特許法、民法、憲法の分厚い本が並んでいた。歴史書も多く、近代史の研究にも熱心なようであった。哲学は宗教哲学の本が多く、中でも仏教に関する書籍が多かった。そして、どの本も古く、その背表紙の痛み具合から、それらが相当に読み込まれた物であることが分かった。それは光絵由里子の博識と、彼女が勉強熱心である事実を物語っていた。
本棚の書籍を熱心に見回している春木に光絵由里子は言った。
「天照大御神から地上に派遣されたにもかかわらず、八年経っても復命しない天若日子の所に問責使として遣わされたのが、雉の鳴女。ところが天若日子は天照神から賜った弓矢でその雉を射殺してしまう。たしか、そういう話だったかしら」
光絵由里子は春木の顔をじっと見ていた。
春木陽香はそれに気付かないまま、部屋の奥の雉の水墨画に視線を戻し、すこし記憶を辿ってから、そのまま答えた。
「はあ……。たぶん、そうだったと思います。それで、帰ってこない使者のことを『雉の頓使』って言うのですよね。でも、その言葉がどうかされたのですか」
今度は春木陽香が光絵の顔を見た。
光絵由里子は視線をテーブルの上に落として、取り皿に手を伸ばしながら言った。
「瑠香も同じだということよ」
「瑠香さんも?」
春木陽香は聞き返したが、光絵由里子は黙っている。春木陽香は考えながら老女の答えを待った。しかし、光絵由里子は、ただ静かに、大皿の上に綺麗に飾られたマンゴーの欠片を、スプーンとフォークを器用に使って小皿の上に移しているだけだった。
マンゴーを移し終えた光絵由里子は、その小皿を膝の上に置くと、向かいの春木に言った。
「果物は食べないの。お腹が空いているんでしょ」
「――あ……それじゃ、遠慮なく。いただきます」
緊張していた春木陽香は、すこし手間取りながら、桃を一切れだけ小皿に乗せ、その小皿を膝の上に置くと、フォークを刺して口に運んだ。
その様子を見ていた光絵由里子が言った。
「美味しい?」
「もぐ……はい。とっても、美味しいです」
光絵由里子は目を細めて言った。
「よかったわ。あの子も桃が好きだから」
「あの……」
桃を飲み込んだ春木陽香は光絵に尋ねようとした。
光絵由里子は先にマンゴーが刺さったフォークを小皿の上に留めたまま言った。
「何かしら」
「さっきの『雉の頓使』の話ですけど、それで、この絵を飾っておられるのですか」
光絵由里子は黄色い果肉を一切れ上品に口元に運ぶと、それを食べた。そして、小皿の上にフォークを置いてテーブルの上に戻すと、再び奥の水墨画を見ながら言った。
「雉はね、この国の国鳥に指定されているわ。だから、飾っているの。それだけよ。いろいろと忘れないように」
「国鳥だから……ですか……」
光絵由里子は、水墨画の方に向けていた顔を春木の方に戻して尋ねた。
「あなたは、この絵を見て、どう思うの」
「はあ、いい絵だと思いますけど……」
「浮かんだ言葉は?」
その問いに、春木陽香は咄嗟に答えた。
「桃太朗の鬼退治……ですかね」
「吉備団子の? フフフ。面白い子ね。他には?」
春木陽香は少し考えた。
「ええと……雉焼豆腐とか、雉飯、雉鍋……」
光絵由里子は笑みを浮かべて言った。
「食べ物ばかりね」
「すみません……」
恥ずかしそうに頭を下げた春木に、光絵由里子は言った。
「『雉の隠れ』という言葉は」
「雉の隠れ……」
「頭隠して尻隠さず、という意味よ」
「へえ……。『雉の隠れ』って言うんですか。勉強になりました」
春木陽香は口を尖らせてコクコクと何度も頷いた。
光絵由里子はティーカップを口に近づけながら、目線だけを春木に向けて言った。
「記者さんなのだから、言葉は勉強しないといけないわね」
「あ……はい。――すみません」
春木陽香は座り直して、また謝った。
その後、二人は暫らく黙ってフルーツを食べた。食べながら記憶を辿っていた春木陽香は、ふとある事を思い出し、膝の上で小皿を持ったまま再び雉の水墨画に顔を向けた。春木陽香は口を開いた。
「あの……」
光絵由里子はナプキンで口を拭きながら、春木を見つめた。
春木陽香は言った。
「たしか、『雉の頓使』の神話には、続きがありますよね。雉を貫いた矢は別の神様の所に飛んでいって、その神様がその矢に呪文を唱えて投げ返したら、天若日子の胸に当たって、天若日子は死んでしまったのですよね」
春木陽香は前を向いて光絵由里子の顔を見た。
光絵由里子は視線を膝元に落として微笑んでいた。そして、春木に言った。
「そうね。高木神だったかしらね。届いた矢が邪神を貫いたものなら天若日子に当たるな、天若日子が邪心を抱いているなら天若日子に当たれ、そう唱えて投げ返したのよ」
春木陽香には、どう考えても天若日子に当たる確率が高いように思えたが、その点は指摘せずに老女に尋ねた。
「それも関係がありますか」
光絵由里子はハーブティーを一口啜ってから答えた。
「――どうかしらね。ただ、覚えておきなさい。雉に関する言葉には、こういうものもあるわ」
光絵由里子は春木の目を見て、低い声で言った。
「雉も鳴かずば打たれまい」
一瞬固まった春木陽香は、すぐに光絵から視線を外すと、膝の上の小皿をテーブルの上に戻した。
もう一口ハーブティーを飲んだ光絵由里子は、ゆっくりとした口調で春木に言った。
「あなたも、無用なことを書いたり言ったりしなければ、禍を招かなくて済むわ」
春木陽香は座り直しながら答えた。
「はあ……でも、記者ですから、一応……」
「危険を承知の上ならいいけど」
そう言ってティーカップをテーブルの上に戻した光絵由里子は、少し声を大きくして続けた。
「だけど、よく覚えておきなさい。世の中には、自分が思っている以上に広く複雑な世界があるの。思いもよらない危険や困難が待ち受けていることもあるわ。でも、大抵の人間はそれを事前に察知しないまま先に進む。あなたが下の門からここまでの距離を考え違いしたようにね。それはとても危険なことよ。それだけは忘れないようにしなさい。いいですね」
「はい……」
春木陽香は目線を落として小さく頷いた。
部屋の中には、壁に掛けられた大きな時計の秒針の音だけが聞こえていた。
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