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第1部
2038年4月25日(日)
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山野との打ち合わせの翌日、神作真哉と永山哲也は司時空庁長官の津田幹雄に単独インタビューを仕掛けた。しかし、事態の真相は浮き彫りとはならず、結局、四月二十三日金曜日にタイムマシンの発射は実施された。
その日は週刊新日風潮特別号の発刊日でもあったため、春木陽香と山野紀子は仕事に追われた。午前中の予定時刻までに無事に特別号の発刊は了したものの、春木陽香は、入社して初の大仕事の完遂を素直に喜べなかった。タイムマシンの発射を止められなかったことを彼女は深く悔やんでいた。編集室長の山野紀子も同じで、その後も明るく仕事に取り組むことはできなかった。ただ、彼女の場合は、自分がタイムマシンの問題解明の仕事よりも、特別号の発刊の仕事よりも、娘の担任の家庭訪問を優先させたことをひどく反省していた。山野の娘は高校受験を控えている。親の仕事の都合で担任の教師に無理を言って日程を変えてもらう訳にはいかなかった。それで、激務の最中に時間休を取り、一時帰宅して担任教師と面談し、娘の進路についての話をした。実際のところは、半ば上の空で担任教師の説明を聞いていたのだが……。
春木陽香と山野紀子は、次の日の土曜日も出勤した。本来は週休二日の職場であるが、雑誌社の現場職員が休みを取れることなど滅多にない。実際、山野紀子は毎週のように休日を潰していたし、春木陽香も入社以来、休日を返上し続けていた。そんな中、今回の土日は特別号発刊の直後ということもあり、ようやく休める予定であった。しかし、二人は出勤した。そうしていなければ落ち着かなかった。
誰も居ない編集室内で会話を交わすことなく、二人は仕事に取り組んだ。休日を返上して出勤したところで何の贖罪にもならないことを二人は自覚していた。それでも黙って働いた。急な連絡が入ったのは、その日の夕方に二人が帰宅しようとしていた時だった。翌日の重要事を聞いた二人は、慌てて帰宅した。
そして、今日の日曜日を迎えていた。
ジーンズにジャケット姿の春木陽香がリボン付きの小箱を持ってエスカレーターを駆け上がっていく。
上り終えた所でアナウンスが響いていた。
『足下にお気をつけ下さい。ここから、新首都総合空港内三階フロアです。足下にお気をつけ……』
春木陽香は人の往来が激しい広いフロアの中で上を見回し、必死になって案内表示を探した。探していた案内の矢印を見つけた彼女は、その通りに人ごみを縫って走り出した。
ここは、国内線と国際線の全航空路線の発着が集中する「新首都総合空港」である。世界一の広さを誇るこの巨大空港は、新首都南部の那珂世湾沿いに位置し、東西を大きな川の河口に挟まれている土地一帯を占めている。東の蛭川の対岸には司時空庁のタイムマシン発射施設があり、西の縞紀和川の向こうには新那珂世港が広がっている。最新の管制システムを導入し、日本が世界に誇るコンピュータ制御システム「SAI五KTシステム」と統合しているこの新首都総合空港は、「世界一安全な空港」としても知られていた。それ故に利用者数も航空便の数も桁外れに多い。
様々な人種の人で溢れた中央ホールに出た春木陽香は、その中心にあるエスカレーターを駆け上がった。上の階に出て、広い廊下を走り、角を曲がると、人にぶつかった。彼女は転ばなかったが、相手は転がって床に倒れていた。その小柄な人物は麻のフード付きのマントを身にまとい、手には緑色に光る棒を持っていた。その蛍光棒は「く」の字に折れている。春木の横には、全身黒ずくめの衣装に黒い仮面とヘルメットを被った、黒マントの小柄な人が立っていた。その人も赤い蛍光棒を持っている。
春木陽香は倒れた麻のマント姿の人に駆け寄り、声をかけた。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
その人は体を起こすと、頭からフードを外した。そこには、左右にお下げ髪を垂らした幼い顔があった。子供だった。その子は春木の胸元に折れた蛍光棒を突きつけると、大声で怒鳴ってきた。
「コルァ、大人! ワレ、どこに目を付けとんじゃ!」
春木陽香は、その女児が怪我をしていないことを確認すると、その子に言った。
「ああ、ごめんね。だけど、こんな所で遊んでちゃ駄目だよ。空港の人に怒られるよ」
その小柄な子はムッとした顔で返した。
「小学生に言うみたいなことを言うな。こっちは中学生じゃ!」
それにしては背が低かった。体も小柄で、細い。
春木陽香は目をパチクリとさせて言った。
「え、中学……とにかく、ごめんね。お姉ちゃん、急いでるから」
その場を立ち去ろうとした春木陽香の前を、緑に光る「く」の字の蛍光棒が遮った。その麻のマントの中学生は左右の三つ編みのお下げを振り回しながら言った。
「知るか! ライト・セイバーが曲がったやんけ。どないしてくれるんじゃ、おお!」
すると、黒尽くめの子がやって来て、自分の赤い蛍光棒の先をお下げ髪の子の前に突き出すと、諭すように言った。
「シュコー。シュコー。落ち着くのじゃ、アサ・ワン。そのオバちゃんは悪くないぞよ。死角の歩行者に気付かなかった、そちの修行が足りんのじゃ。フォースじゃ。フォースの力が足りん。私のフォースを食らえ」
その黒尽くめの子は、麻のマントの子に向かって突き出した蛍光棒を細かく振った。
春木陽香には、それが何の儀式なのか分からなかった。キョトンとしていると、突然、麻のマントの女の子が苦しみ出した。
「うわああ……おのれ……ユーキ・ベイダーめ。こっちのフォースも、食らえー」
お下げ髪の子は左右の手で握った麻のマントを大の字に広げて振り、何やら訳の分からぬ擬音を口から発していた。
やはり春木陽香にはそれが何なのか理解できなかったが、背後では黒尽くめの子が「うをおお……」と声を出して苦しんでいた。
春木陽香は、タイミングを見計らって二人に尋ねた。
「――あの……出国ロビーはどっちかな。知らない?」
「ん」
二人は同時に同じ方向を指差す。
春木陽香は二人に礼を言うと、その方角に走っていった。
春木陽香が角を曲がると、そこには人々でごった返す出国ロビーが広がっていた。彼女は周囲をを見回しながら移動した。季節はずれのオレンジ色のダウンジャケットを着て、スキー板を担いだ老人。カートに沢山の荷物を乗せ、サーフィン・ボードを立てているアロハシャツ姿の長髪の男性。御めかしした団体客。売店で週刊新日風潮を立ち読みしているグレーのスーツの男。買って読んでよと思いつつ、その男の後ろを通り、春木陽香は待合椅子が並んでいる空間の後ろに立った。スーツ姿のビジネスマンたちや、軽装の若者、民族衣装をまとった外国人などが座っている。
待合椅子の上の後姿を一人ずつ丁寧に確認していった春木陽香は、今度は、その向こうの窓際に立つ人々に目を向けていった。
出国ゲートの少し横の窓際に背の高い男と体格のよいスポーツマン風の男が立っていた。神作真哉と永山哲也だった。その手前の椅子では、山野紀子が隣の席に座っている女性と親しげに話し込んでいる。その女は落ち着いた感じだったが、面識のないその女性から視線を窓際に戻した春木陽香は、そちらへと走っていった。
出国ゲートの横の大きな窓ガラスを背にした神作真哉が、ジーンズにワイシャツ姿の永山哲也に言った。
「とにかく、司時空庁長官の津田幹雄が俺たちの取材に対して、あれだけ強く言い張ったんだ。奴の言うとおり金曜日に送られた五人は無事だと信じるしかないだろう」
永山哲也は両肩を上げて言った。
「キャップらしくないですよ。あの五人の、いや、これまでタイムマシンに搭乗した百十六人の無事が確認できるまで、取材は続けるべきです。それに、あの論文が添付された上申書は絶対に津田長官も読んでいるはずです。読んでいるにもかかわらず、事業の安全性を確認するための検討作業すら行われていない。検証さえも。これはどうも、おかしいですよ」
神作真哉は眉間に皺を寄せて言った。
「だが、だからって何もおまえが南米に飛ぶ必要はないだろう。わざわざ危険な戦闘区域にまで足を運ぶことは……」
永山哲也は笑顔で応えた。
「いえ。これは記者としての責任です。最後まで真相を見際め、真実を国民に伝える。それが記者の仕事だって、キャップも言ってたじゃないですか」
「まあ、そうだが……」
神作真哉は頭を掻いた。そして、溜め息を吐いてから、永山に言った。
「やっぱり、止めても無駄か。どうしても行くんだな」
永山哲也は力強く一度頷いた。
「はい。会社の方には、キャップからよろしくお願いします」
「ああ、分かったよ。何とか正規の出張扱いに出来るように掛け合ってみる。とにかく、現地に着いたら報告しろよ。報告、連絡、相談だ。いいな」
「はい。それから……」
永山哲也は待合椅子の方に顔を向けた。神作真哉が言った。
「分かってる。心配するな。それに、紀子もいるし、シゲさんや、うえにょもいる。みんな知ってる人間だから、大丈夫だ」
永山哲也は神作に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
神作真哉は話題を変える。
「それより、持参する機材は確認したのか」
「はい。ダイレクト通信機能付きのデジタル・ハンディーカムにレーザー・カメラ。予備のデジタル・ムービーとデジカメ、それにビュー・キャッチ。バッチリです。ああ、それから、これも」
永山哲也は薄い板状の物を胸のポケットから取り出した。それは掌サイズの薄型録音機だった。
神作真哉は片頬を右手の人差し指で掻きながら言った。
「いや、もう少し上等の物でも渡してやれればよかったんだが、高くてな。そんなモノしか買えなかった。すまん。正直、朝美の養育費の支払いで、キツくてな」
「いえ、これで十分です。O2電池内蔵のICレコーダーなら、持ちはいいですし、それにこれ、リアルタイム送信機能も付いていますから、いざという時にはイヴフォンと同期させて、ほとんど生放送に近い状態で、僕の最後のレポートをキャップのパソコンに遅れます」
「おいおい、縁起でもないことを言うな。向こうで、おまえが記事を書く時に便利だろうと思って買っただけだ。口頭でメモを取るのには、そっちの方が便利だろうからな」
「分かっています。ありがとうございます」
永山哲也は笑いながら、それを胸のポケットに仕舞おうとした。すると、そのICレコーダーの背面に貼られた、奇妙なポーズをとっているジャージ姿の中年男の絵柄のシールを見つけて、神作真哉が言った。
「貼られたのか」
手を止めた永山哲也は、神作が指差しているICレコーダーを再び出すと、そのシールのキャラクターを見て苦笑いしながら言った。
「ええ、やられました。学校で流行の『開運キャラクター』らしいですよ。中学生はみんな筆箱とかタブレット型立体パソコンとかに貼っているそうです。何て言ったかな」
「イノウエ君だろ」
神作真哉は自分のウェアフォンをズボンのポケットから取り出すと、その裏に貼られた同じ絵柄のシールを永山に見せた。そして、ウェアフォンを裏返し、そのシールのキャラクターの顔をまじまじと観察しながら小声で言った。
「幸運を祈ってくれるのはいいが、誰なんだ、この『イノウエ君』って。上の歯茎が出てるじゃねえか。気色悪い」
すると神作の背後から声がした。
「娘が貼ってくれた開運シールにケチ付けるもんじゃないわよ。ねえ、哲ちゃん」
山野紀子だった。
振り向いた神作真哉は、山野に言った。
「別にケチは付けてねえが、もっとさあ、Tシャツ着ているウサギとか、リボンを付けたネコとか、手袋した特大のネズミとか、飛び跳ねる梨とか、何かあるだろ。どうして赤いジャージを着たオッサンなんだよ。七三分けの。朝美の奴、大丈夫なのか。おまえみたいな母親を毎日見ているから……ムグッ」
山野紀子は神作の顔を手で押し退けて、永山に言った。
「哲ちゃん。現地のゲリラ兵たちは、きっと殺気立っているからね。気をつけるのよ。彼らの敵である協働部隊に兵力を投入している国の人間だって知られたら、人質にされるか、殺されるかもしれないからね」
永山哲也は笑顔で言った。
「大丈夫です。南米連邦政府や協働部隊の支配地域と、非戦闘区域に指定されている区域や周辺のスラムからは、なるべく出ないようにしますから」
山野紀子の後ろから顔を出した春木陽香が永山に言った。
「あの……非戦闘区域やスラムにいる戦争難民たちの多くは、ゲリラ兵たちの家族だそうです。出来たら、そこには近寄らないで下さい」
春木の登場に少し驚いた顔をした永山哲也は、そのまま説明を続けた。
「大丈夫だよ、ハルハル。南米連邦政府とゲリラ軍の間で両者の仲介役として非戦闘区域創設の協定をまとめたのは、日本の真明教団だ。スラム街でも、政府側兵士とゲリラ兵士の家族を分け隔てなく支援して保護しているらしい。だから現地での信頼も厚い。ゲリラ軍の連中も、その家族も、きっと日本人には危害を加えないよ」
「でも……」
春木陽香は憂いに満ちた顔で永山を見つめた。
山野紀子も心配そうな顔で永山に言う。
「現地の言葉の方は大丈夫なの」
永山哲也は片笑みながら答えた。
「まあ、何とかなるでしょ」
神作真哉が不安を隠しながら、無理に同じように片笑んで言う。
「サッカー好きが功を奏したな」
永山哲也は両眉を上げて返事をした。
山野紀子が、彼女の後ろでモジモジとしている春木を永山の前に押し出した。
「ほら、ハルハル。渡す物があるんでしょ」
春木陽香は背中に隠して持っていた赤いリボン付きの箱を、腰を曲げて御辞儀しながら永山の前に差し出した。
「ああ……永山先輩、あの……これ……。よかったら、使って下さい」
山野紀子が顔を前に出して言った。
「後輩女子が初給料で頑張って買ってくれたのよ。仕事服を買うの我慢して。感謝しなさいよ、この、色男」
彼女は肘で永山の横腹を軽く突く。
永山哲也は手を細かく振って春木に答えた。
「いや、そんな……初給料なら、君のご両親に何か買って差し上げなきゃ……」
春木陽香はプレゼントを差し出したまま、下げた頭を横に振った。
「高校出て新聞社に勤めた時の最初の給料で父と母にはプレゼントを買いましたから、大丈夫です。気にしないで下さい。先輩には新聞社時代にいろいろとお世話になりましたから、その、せめてもの感謝の気持ちです」
神作真哉が呆れ顔で永山に言った。
「危険地帯に取材に行く先輩のことが心配なんだと。貰ってやれよ」
春木陽香は腰を折ったまま顔を赤くしていた。
永山哲也は横に視線を何度か送り、困惑した顔を見せる。それを見て、神作真哉と山野紀子は顔を逸らして笑いを堪えていた。
永山哲也が観念したように言った。
「いいの? じゃあ、ありが……」
「とう!」
横から人影が飛び込んできて、春木の手から永山の手に移ろうとしていたプレゼントを奪った。麻のマントを羽ばたかせて着地した少女は、背中を見せたまま素早くリボンを外し、包み紙と箱を後ろに次々と放り投げると、春木から永山へのプレゼントの品を高々と持ち上げて言った。
「おお! 高そうな腕時計ではないか。我が国の国防軍兵士も使用している、いざと言う時も安心、スーパーGPS機能付の防水耐衝撃型の腕時計! こんな高価なモノを送るとは、あやしいぞ。これは、昼ドラの臭いがする……痛っ」
山野から強烈な拳骨を食らった麻のマントの少女は、頭を抱えてうずくまった。
山野紀子の怒声が飛ぶ。
「コルァ、朝美い! あんた、他人《ひと》様のプレゼントを、なに勝手に開けてるのよ!」
山野紀子は娘の山野朝美の右の三つ編みを掴み上げた。
「イタタタ。ママ、ごめんなさい。でも、このオバちゃん、私の大事なライト・セーバーを『く』の字に……」
山野紀子は朝美の三つ編みを引き上げながら言った。
「うるさい。お姉ちゃんでしょ。ハルハルがオバちゃんなら、私はどうなるのよ! お婆ちゃんか、コラッ!」
「痛い、痛い。髪を引っ張ら……はい、どうぞ」
朝美から腕時計を手渡された永山哲也は、言った。
「ああ、どうも……いや、どうも、ありがとう、ハルハル」
両手を差し出したまま、箱を渡した体勢で固まっていた春木陽香は、目に涙を溜めて何度も瞬きしていた。
永山哲也は焦ったように早口で春木に言った。
「いや、あの、これ、使わせてもらうよ。大事にする。ホントに、ありがとう」
その時、飛行機の出発準備のアナウンスが鳴った。永山が乗る予定の便だった。
永山哲也は溜め息を吐くと、皆の方を向いて言った。
「じゃあ、そろそろ行きます。わざわざ見送りに来ていただいて、ありがとうございました。とにかく、向こうで動けるだけ動いてみます」
永山哲也は皆に深々と一礼した。
神作真哉が永山と握手しながら言った。
「おう。こっちも何か分かったら連絡する。とにかく、ヤバかったら、すぐに帰って来るんだぞ。いいな」
神作に肩を叩かれた永山哲也は、はっきりとした声で言った。
「はい。では、皆さん、行ってきます」
神作たちに再度一礼した永山哲也は、出国ゲートの危険物探知機の中を通り抜け、奥に歩いていった。
春木陽香は彼の背中をじっと見つめ、記憶に焼き付けようとしていた。神作たちは永山の姿が見える位置に移動した。永山哲也は搭乗者たちの列の中から、こちらに向けて大きく手を振った。搭乗エリアを区切る強化アクリル製の透明な壁の前に移動して永山を見送っていた春木たちは、それぞれに大きく手を振って返した。永山哲也も途中で何度も振り返り、春木たちの方に手を振った。
目に涙を浮かべながら手を振っていた春木陽香は精一杯の笑顔で永山を見送った。永山の姿が他の旅行客たちの奥に小さくなっていく。春木陽香は背伸びをして手を振りながら、透明の壁越しに永山に向かって声を発した。
「永山せんぱーい。くれぐれも気をつけてくださーい」
透明の強化アクリルの隔壁の外の音は、集音マイクに拾われて、隔壁の向こう側に設置されたスピーカーから搭乗エリア内に向けて発せられる。
向こうの方に歩いて行っていた永山哲也は、立ち止まって振り返り、春木の方に手を振った。春木陽香は隔壁の向うの人ごみの奥に小さく見えている永山に懸命に手を振って返した。
彼女の横から山野紀子が叫んだ。
「ちゃんと電話しなさいよお。立体電話よお」
春木陽香は溢れそうな涙を堪えて叫んだ。
「そうですよお。電話する時は、立体通話でかけて下さいよお」
山野の隣で朝美と一緒に手を振っていた神作が両手を口の左右に添えて叫んだ。
「シュラスコを食い過ぎて太ったら、すぐバレるからなあ。気をつけろお」
永山は苦笑いしながら手を振って答えていた。
少し笑った春木陽香は、その弾みで目から零れ落ちた涙を慌てて拭うと、それを誤魔化すように必死に笑顔を作って見せた。そして、手を振りながら反対の手を口の横に添えてまた大声で叫んだ。
「そうですよお。太った先輩は見たくないですからねえ。筋トレは続けて下さいよお」
永山哲也は、こちらに向けて親指を立てた拳を突き出すと、笑顔で再び手を振った。一同に向けて軽く頭を下げた彼は、背を向けて奥に歩いていった。
春木陽香は彼の姿が見える限り手を振り続けた。すると、彼女の背後から声が飛んだ。
「蚊にも気をつけてよお、あなたあ。蚊よけ薬は忘れずに飲むのよお」
春木陽香は次々に頬を伝う涙を指先で拭きながら、頑張って叫んだ。
「そうですよお。ちゃんと飲んで下さいよお。蚊よけ薬は……あなた?」
一瞬だけ彼女の耳に入った単語に驚いた春木陽香が少しだけ振り向くと、彼女の斜め後ろで、さっき待合椅子で山野と話していた綺麗な女が透明のアクリル壁の向こう側に懸命に手を振っていた。春木陽香はすぐに隔壁の向うの永山の方を見た。立ち止まって再度振り返った彼は、こちらに向かって力強く手を振っている。すると、隔壁と春木の間にさっきの黒いマントの中学生が割って入り、手に持ったヘルメットと赤色の長い蛍光棒を左右に大きく振りながら、張りのある大きな声で叫んだ。
「気をつけてねえ。絶対にい、無事に帰ってきてねえ」
咄嗟に、春木陽香も共に叫んだ。
「そうですよお。帰ってきて下さいよお」
「お守りシールも剥がしちゃ駄目だよお」
「そうですよお。よく分かりませんけど、お守りは大切ですからねえ。大事にして下さいよお」
「頑張ってねえ。お父さーん」
「そうですよお。頑張ってくださーい。お父さ……お父さん?」
春木陽香は、その黒マントの中学生と背後の年上の女を交互に何度も見た。少し涙目になっているその女の肩に手を添えて、山野紀子が言っている。
「大丈夫よ、祥子さん。ご主人は無事に帰ってくるわよ」
廊下の奥の人ごみの中に姿を消した永山を見届けた神作真哉も、永山祥子に言った。
「そう。永山は柔な男じゃない。どんなことが起きても、ご主人は絶対に生きて帰ってきますよ。そう信じてください。絶対に大丈夫です」
春木陽香は永山祥子の左右に立つ山野と神作の方を交互に指差しながら、反対の手を口に当てて、何かを言おうとしていた。
「ご、ごしゅ、ごしゅ、ごしゅ……」
山野紀子は、透明の隔壁の前で肩を落としている黒マント姿の少女に言った。
「さ、由紀ちゃん。上の展望デッキに行きましょうか。みんなで、お父さんが乗っている飛行機を見送るわよ。ほら、元気出して。笑顔、笑顔。飛行機の中から由紀ちゃんが悲しんでいる顔を見たら、お父さんは心配して、飛行機から飛び降りて来ちゃうかもよ」
振り向いた永山由紀は、少し鼻を啜ると、目から零れ落ちた大粒の涙を友人の朝美に隠すように、素早く黒いヘルメットを被った。そして、赤色の蛍光棒を勢いよく天に向けて突き立てると、屋上の展望デッキへと昇るエレベーターに向かって元気良く駆け出していった。彼女について行くように、ハンカチで目元を押さえている永山祥子も、その隣に寄り添っている山野紀子も、ポケットに両手を入れたまま何度も上を向いては鼻を啜っていた神作真哉も、エレベーターに向けて歩き出した。
春木陽香は、一人固まったまま、その場に立ち尽くしていた。
「ご、ご主人って……永山先輩、結婚してたの? しかも、中学生の子供まで。し、知らなかった……」
両膝を床に突いて崩れ落ちた春木陽香に、フードを被った山野朝美が近づいてきて、耳元で囁く。
「前に四年も一緒に働いていたのに、知らなかったの? くくく、うける。くくくく」
山野朝美は腹を押さえて笑いながら、エレベーターの方へと歩いていった。
春木陽香は床のカーペットを叩きながら叫んだ。
「馬鹿、馬鹿、ハルハルの馬鹿。憧れの先輩が結婚しているかってことくらい、どうして確認しなかったのよお。ていうか、なんで気付かなかったのよお。思いっきり既婚者じゃないのよ。腕時計まで贈って、何やってるのよお。――ああ、今月のお給料、半分以上も使っちゃった……。もう、私の馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿あ!」
突如に襲ってきた失恋の事実と自らの愚行に、春木陽香は泣き崩れた。
ゆっくりと閉まるエレベーターのドアの中では、涙を拭いている永山祥子の後ろで、山野紀子と神作真哉が春木の姿を見ながら必死に笑いを堪えていた。
「週刊新日風潮」を立ち読みするふりをしながら、売店の隅で春木の姿を観察していたグレーの背広の男が、ギョロリトした大きな目で待合椅子の方に合図を送った。待合椅子に座っていたスーツ姿の男たちが一斉に立ち上がり、エレベーターの方へと歩いていく。
その耳の大きなグレーのスーツの男は、手に持っていた週刊新日風潮を品台の上に放り投げると、床にうずくまって泣いている春木陽香の姿をそのままずっと見ていた。
出国ロビーには永山が乗る飛行機の出発アナウンスが響いていた。
その日は週刊新日風潮特別号の発刊日でもあったため、春木陽香と山野紀子は仕事に追われた。午前中の予定時刻までに無事に特別号の発刊は了したものの、春木陽香は、入社して初の大仕事の完遂を素直に喜べなかった。タイムマシンの発射を止められなかったことを彼女は深く悔やんでいた。編集室長の山野紀子も同じで、その後も明るく仕事に取り組むことはできなかった。ただ、彼女の場合は、自分がタイムマシンの問題解明の仕事よりも、特別号の発刊の仕事よりも、娘の担任の家庭訪問を優先させたことをひどく反省していた。山野の娘は高校受験を控えている。親の仕事の都合で担任の教師に無理を言って日程を変えてもらう訳にはいかなかった。それで、激務の最中に時間休を取り、一時帰宅して担任教師と面談し、娘の進路についての話をした。実際のところは、半ば上の空で担任教師の説明を聞いていたのだが……。
春木陽香と山野紀子は、次の日の土曜日も出勤した。本来は週休二日の職場であるが、雑誌社の現場職員が休みを取れることなど滅多にない。実際、山野紀子は毎週のように休日を潰していたし、春木陽香も入社以来、休日を返上し続けていた。そんな中、今回の土日は特別号発刊の直後ということもあり、ようやく休める予定であった。しかし、二人は出勤した。そうしていなければ落ち着かなかった。
誰も居ない編集室内で会話を交わすことなく、二人は仕事に取り組んだ。休日を返上して出勤したところで何の贖罪にもならないことを二人は自覚していた。それでも黙って働いた。急な連絡が入ったのは、その日の夕方に二人が帰宅しようとしていた時だった。翌日の重要事を聞いた二人は、慌てて帰宅した。
そして、今日の日曜日を迎えていた。
ジーンズにジャケット姿の春木陽香がリボン付きの小箱を持ってエスカレーターを駆け上がっていく。
上り終えた所でアナウンスが響いていた。
『足下にお気をつけ下さい。ここから、新首都総合空港内三階フロアです。足下にお気をつけ……』
春木陽香は人の往来が激しい広いフロアの中で上を見回し、必死になって案内表示を探した。探していた案内の矢印を見つけた彼女は、その通りに人ごみを縫って走り出した。
ここは、国内線と国際線の全航空路線の発着が集中する「新首都総合空港」である。世界一の広さを誇るこの巨大空港は、新首都南部の那珂世湾沿いに位置し、東西を大きな川の河口に挟まれている土地一帯を占めている。東の蛭川の対岸には司時空庁のタイムマシン発射施設があり、西の縞紀和川の向こうには新那珂世港が広がっている。最新の管制システムを導入し、日本が世界に誇るコンピュータ制御システム「SAI五KTシステム」と統合しているこの新首都総合空港は、「世界一安全な空港」としても知られていた。それ故に利用者数も航空便の数も桁外れに多い。
様々な人種の人で溢れた中央ホールに出た春木陽香は、その中心にあるエスカレーターを駆け上がった。上の階に出て、広い廊下を走り、角を曲がると、人にぶつかった。彼女は転ばなかったが、相手は転がって床に倒れていた。その小柄な人物は麻のフード付きのマントを身にまとい、手には緑色に光る棒を持っていた。その蛍光棒は「く」の字に折れている。春木の横には、全身黒ずくめの衣装に黒い仮面とヘルメットを被った、黒マントの小柄な人が立っていた。その人も赤い蛍光棒を持っている。
春木陽香は倒れた麻のマント姿の人に駆け寄り、声をかけた。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
その人は体を起こすと、頭からフードを外した。そこには、左右にお下げ髪を垂らした幼い顔があった。子供だった。その子は春木の胸元に折れた蛍光棒を突きつけると、大声で怒鳴ってきた。
「コルァ、大人! ワレ、どこに目を付けとんじゃ!」
春木陽香は、その女児が怪我をしていないことを確認すると、その子に言った。
「ああ、ごめんね。だけど、こんな所で遊んでちゃ駄目だよ。空港の人に怒られるよ」
その小柄な子はムッとした顔で返した。
「小学生に言うみたいなことを言うな。こっちは中学生じゃ!」
それにしては背が低かった。体も小柄で、細い。
春木陽香は目をパチクリとさせて言った。
「え、中学……とにかく、ごめんね。お姉ちゃん、急いでるから」
その場を立ち去ろうとした春木陽香の前を、緑に光る「く」の字の蛍光棒が遮った。その麻のマントの中学生は左右の三つ編みのお下げを振り回しながら言った。
「知るか! ライト・セイバーが曲がったやんけ。どないしてくれるんじゃ、おお!」
すると、黒尽くめの子がやって来て、自分の赤い蛍光棒の先をお下げ髪の子の前に突き出すと、諭すように言った。
「シュコー。シュコー。落ち着くのじゃ、アサ・ワン。そのオバちゃんは悪くないぞよ。死角の歩行者に気付かなかった、そちの修行が足りんのじゃ。フォースじゃ。フォースの力が足りん。私のフォースを食らえ」
その黒尽くめの子は、麻のマントの子に向かって突き出した蛍光棒を細かく振った。
春木陽香には、それが何の儀式なのか分からなかった。キョトンとしていると、突然、麻のマントの女の子が苦しみ出した。
「うわああ……おのれ……ユーキ・ベイダーめ。こっちのフォースも、食らえー」
お下げ髪の子は左右の手で握った麻のマントを大の字に広げて振り、何やら訳の分からぬ擬音を口から発していた。
やはり春木陽香にはそれが何なのか理解できなかったが、背後では黒尽くめの子が「うをおお……」と声を出して苦しんでいた。
春木陽香は、タイミングを見計らって二人に尋ねた。
「――あの……出国ロビーはどっちかな。知らない?」
「ん」
二人は同時に同じ方向を指差す。
春木陽香は二人に礼を言うと、その方角に走っていった。
春木陽香が角を曲がると、そこには人々でごった返す出国ロビーが広がっていた。彼女は周囲をを見回しながら移動した。季節はずれのオレンジ色のダウンジャケットを着て、スキー板を担いだ老人。カートに沢山の荷物を乗せ、サーフィン・ボードを立てているアロハシャツ姿の長髪の男性。御めかしした団体客。売店で週刊新日風潮を立ち読みしているグレーのスーツの男。買って読んでよと思いつつ、その男の後ろを通り、春木陽香は待合椅子が並んでいる空間の後ろに立った。スーツ姿のビジネスマンたちや、軽装の若者、民族衣装をまとった外国人などが座っている。
待合椅子の上の後姿を一人ずつ丁寧に確認していった春木陽香は、今度は、その向こうの窓際に立つ人々に目を向けていった。
出国ゲートの少し横の窓際に背の高い男と体格のよいスポーツマン風の男が立っていた。神作真哉と永山哲也だった。その手前の椅子では、山野紀子が隣の席に座っている女性と親しげに話し込んでいる。その女は落ち着いた感じだったが、面識のないその女性から視線を窓際に戻した春木陽香は、そちらへと走っていった。
出国ゲートの横の大きな窓ガラスを背にした神作真哉が、ジーンズにワイシャツ姿の永山哲也に言った。
「とにかく、司時空庁長官の津田幹雄が俺たちの取材に対して、あれだけ強く言い張ったんだ。奴の言うとおり金曜日に送られた五人は無事だと信じるしかないだろう」
永山哲也は両肩を上げて言った。
「キャップらしくないですよ。あの五人の、いや、これまでタイムマシンに搭乗した百十六人の無事が確認できるまで、取材は続けるべきです。それに、あの論文が添付された上申書は絶対に津田長官も読んでいるはずです。読んでいるにもかかわらず、事業の安全性を確認するための検討作業すら行われていない。検証さえも。これはどうも、おかしいですよ」
神作真哉は眉間に皺を寄せて言った。
「だが、だからって何もおまえが南米に飛ぶ必要はないだろう。わざわざ危険な戦闘区域にまで足を運ぶことは……」
永山哲也は笑顔で応えた。
「いえ。これは記者としての責任です。最後まで真相を見際め、真実を国民に伝える。それが記者の仕事だって、キャップも言ってたじゃないですか」
「まあ、そうだが……」
神作真哉は頭を掻いた。そして、溜め息を吐いてから、永山に言った。
「やっぱり、止めても無駄か。どうしても行くんだな」
永山哲也は力強く一度頷いた。
「はい。会社の方には、キャップからよろしくお願いします」
「ああ、分かったよ。何とか正規の出張扱いに出来るように掛け合ってみる。とにかく、現地に着いたら報告しろよ。報告、連絡、相談だ。いいな」
「はい。それから……」
永山哲也は待合椅子の方に顔を向けた。神作真哉が言った。
「分かってる。心配するな。それに、紀子もいるし、シゲさんや、うえにょもいる。みんな知ってる人間だから、大丈夫だ」
永山哲也は神作に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
神作真哉は話題を変える。
「それより、持参する機材は確認したのか」
「はい。ダイレクト通信機能付きのデジタル・ハンディーカムにレーザー・カメラ。予備のデジタル・ムービーとデジカメ、それにビュー・キャッチ。バッチリです。ああ、それから、これも」
永山哲也は薄い板状の物を胸のポケットから取り出した。それは掌サイズの薄型録音機だった。
神作真哉は片頬を右手の人差し指で掻きながら言った。
「いや、もう少し上等の物でも渡してやれればよかったんだが、高くてな。そんなモノしか買えなかった。すまん。正直、朝美の養育費の支払いで、キツくてな」
「いえ、これで十分です。O2電池内蔵のICレコーダーなら、持ちはいいですし、それにこれ、リアルタイム送信機能も付いていますから、いざという時にはイヴフォンと同期させて、ほとんど生放送に近い状態で、僕の最後のレポートをキャップのパソコンに遅れます」
「おいおい、縁起でもないことを言うな。向こうで、おまえが記事を書く時に便利だろうと思って買っただけだ。口頭でメモを取るのには、そっちの方が便利だろうからな」
「分かっています。ありがとうございます」
永山哲也は笑いながら、それを胸のポケットに仕舞おうとした。すると、そのICレコーダーの背面に貼られた、奇妙なポーズをとっているジャージ姿の中年男の絵柄のシールを見つけて、神作真哉が言った。
「貼られたのか」
手を止めた永山哲也は、神作が指差しているICレコーダーを再び出すと、そのシールのキャラクターを見て苦笑いしながら言った。
「ええ、やられました。学校で流行の『開運キャラクター』らしいですよ。中学生はみんな筆箱とかタブレット型立体パソコンとかに貼っているそうです。何て言ったかな」
「イノウエ君だろ」
神作真哉は自分のウェアフォンをズボンのポケットから取り出すと、その裏に貼られた同じ絵柄のシールを永山に見せた。そして、ウェアフォンを裏返し、そのシールのキャラクターの顔をまじまじと観察しながら小声で言った。
「幸運を祈ってくれるのはいいが、誰なんだ、この『イノウエ君』って。上の歯茎が出てるじゃねえか。気色悪い」
すると神作の背後から声がした。
「娘が貼ってくれた開運シールにケチ付けるもんじゃないわよ。ねえ、哲ちゃん」
山野紀子だった。
振り向いた神作真哉は、山野に言った。
「別にケチは付けてねえが、もっとさあ、Tシャツ着ているウサギとか、リボンを付けたネコとか、手袋した特大のネズミとか、飛び跳ねる梨とか、何かあるだろ。どうして赤いジャージを着たオッサンなんだよ。七三分けの。朝美の奴、大丈夫なのか。おまえみたいな母親を毎日見ているから……ムグッ」
山野紀子は神作の顔を手で押し退けて、永山に言った。
「哲ちゃん。現地のゲリラ兵たちは、きっと殺気立っているからね。気をつけるのよ。彼らの敵である協働部隊に兵力を投入している国の人間だって知られたら、人質にされるか、殺されるかもしれないからね」
永山哲也は笑顔で言った。
「大丈夫です。南米連邦政府や協働部隊の支配地域と、非戦闘区域に指定されている区域や周辺のスラムからは、なるべく出ないようにしますから」
山野紀子の後ろから顔を出した春木陽香が永山に言った。
「あの……非戦闘区域やスラムにいる戦争難民たちの多くは、ゲリラ兵たちの家族だそうです。出来たら、そこには近寄らないで下さい」
春木の登場に少し驚いた顔をした永山哲也は、そのまま説明を続けた。
「大丈夫だよ、ハルハル。南米連邦政府とゲリラ軍の間で両者の仲介役として非戦闘区域創設の協定をまとめたのは、日本の真明教団だ。スラム街でも、政府側兵士とゲリラ兵士の家族を分け隔てなく支援して保護しているらしい。だから現地での信頼も厚い。ゲリラ軍の連中も、その家族も、きっと日本人には危害を加えないよ」
「でも……」
春木陽香は憂いに満ちた顔で永山を見つめた。
山野紀子も心配そうな顔で永山に言う。
「現地の言葉の方は大丈夫なの」
永山哲也は片笑みながら答えた。
「まあ、何とかなるでしょ」
神作真哉が不安を隠しながら、無理に同じように片笑んで言う。
「サッカー好きが功を奏したな」
永山哲也は両眉を上げて返事をした。
山野紀子が、彼女の後ろでモジモジとしている春木を永山の前に押し出した。
「ほら、ハルハル。渡す物があるんでしょ」
春木陽香は背中に隠して持っていた赤いリボン付きの箱を、腰を曲げて御辞儀しながら永山の前に差し出した。
「ああ……永山先輩、あの……これ……。よかったら、使って下さい」
山野紀子が顔を前に出して言った。
「後輩女子が初給料で頑張って買ってくれたのよ。仕事服を買うの我慢して。感謝しなさいよ、この、色男」
彼女は肘で永山の横腹を軽く突く。
永山哲也は手を細かく振って春木に答えた。
「いや、そんな……初給料なら、君のご両親に何か買って差し上げなきゃ……」
春木陽香はプレゼントを差し出したまま、下げた頭を横に振った。
「高校出て新聞社に勤めた時の最初の給料で父と母にはプレゼントを買いましたから、大丈夫です。気にしないで下さい。先輩には新聞社時代にいろいろとお世話になりましたから、その、せめてもの感謝の気持ちです」
神作真哉が呆れ顔で永山に言った。
「危険地帯に取材に行く先輩のことが心配なんだと。貰ってやれよ」
春木陽香は腰を折ったまま顔を赤くしていた。
永山哲也は横に視線を何度か送り、困惑した顔を見せる。それを見て、神作真哉と山野紀子は顔を逸らして笑いを堪えていた。
永山哲也が観念したように言った。
「いいの? じゃあ、ありが……」
「とう!」
横から人影が飛び込んできて、春木の手から永山の手に移ろうとしていたプレゼントを奪った。麻のマントを羽ばたかせて着地した少女は、背中を見せたまま素早くリボンを外し、包み紙と箱を後ろに次々と放り投げると、春木から永山へのプレゼントの品を高々と持ち上げて言った。
「おお! 高そうな腕時計ではないか。我が国の国防軍兵士も使用している、いざと言う時も安心、スーパーGPS機能付の防水耐衝撃型の腕時計! こんな高価なモノを送るとは、あやしいぞ。これは、昼ドラの臭いがする……痛っ」
山野から強烈な拳骨を食らった麻のマントの少女は、頭を抱えてうずくまった。
山野紀子の怒声が飛ぶ。
「コルァ、朝美い! あんた、他人《ひと》様のプレゼントを、なに勝手に開けてるのよ!」
山野紀子は娘の山野朝美の右の三つ編みを掴み上げた。
「イタタタ。ママ、ごめんなさい。でも、このオバちゃん、私の大事なライト・セーバーを『く』の字に……」
山野紀子は朝美の三つ編みを引き上げながら言った。
「うるさい。お姉ちゃんでしょ。ハルハルがオバちゃんなら、私はどうなるのよ! お婆ちゃんか、コラッ!」
「痛い、痛い。髪を引っ張ら……はい、どうぞ」
朝美から腕時計を手渡された永山哲也は、言った。
「ああ、どうも……いや、どうも、ありがとう、ハルハル」
両手を差し出したまま、箱を渡した体勢で固まっていた春木陽香は、目に涙を溜めて何度も瞬きしていた。
永山哲也は焦ったように早口で春木に言った。
「いや、あの、これ、使わせてもらうよ。大事にする。ホントに、ありがとう」
その時、飛行機の出発準備のアナウンスが鳴った。永山が乗る予定の便だった。
永山哲也は溜め息を吐くと、皆の方を向いて言った。
「じゃあ、そろそろ行きます。わざわざ見送りに来ていただいて、ありがとうございました。とにかく、向こうで動けるだけ動いてみます」
永山哲也は皆に深々と一礼した。
神作真哉が永山と握手しながら言った。
「おう。こっちも何か分かったら連絡する。とにかく、ヤバかったら、すぐに帰って来るんだぞ。いいな」
神作に肩を叩かれた永山哲也は、はっきりとした声で言った。
「はい。では、皆さん、行ってきます」
神作たちに再度一礼した永山哲也は、出国ゲートの危険物探知機の中を通り抜け、奥に歩いていった。
春木陽香は彼の背中をじっと見つめ、記憶に焼き付けようとしていた。神作たちは永山の姿が見える位置に移動した。永山哲也は搭乗者たちの列の中から、こちらに向けて大きく手を振った。搭乗エリアを区切る強化アクリル製の透明な壁の前に移動して永山を見送っていた春木たちは、それぞれに大きく手を振って返した。永山哲也も途中で何度も振り返り、春木たちの方に手を振った。
目に涙を浮かべながら手を振っていた春木陽香は精一杯の笑顔で永山を見送った。永山の姿が他の旅行客たちの奥に小さくなっていく。春木陽香は背伸びをして手を振りながら、透明の壁越しに永山に向かって声を発した。
「永山せんぱーい。くれぐれも気をつけてくださーい」
透明の強化アクリルの隔壁の外の音は、集音マイクに拾われて、隔壁の向こう側に設置されたスピーカーから搭乗エリア内に向けて発せられる。
向こうの方に歩いて行っていた永山哲也は、立ち止まって振り返り、春木の方に手を振った。春木陽香は隔壁の向うの人ごみの奥に小さく見えている永山に懸命に手を振って返した。
彼女の横から山野紀子が叫んだ。
「ちゃんと電話しなさいよお。立体電話よお」
春木陽香は溢れそうな涙を堪えて叫んだ。
「そうですよお。電話する時は、立体通話でかけて下さいよお」
山野の隣で朝美と一緒に手を振っていた神作が両手を口の左右に添えて叫んだ。
「シュラスコを食い過ぎて太ったら、すぐバレるからなあ。気をつけろお」
永山は苦笑いしながら手を振って答えていた。
少し笑った春木陽香は、その弾みで目から零れ落ちた涙を慌てて拭うと、それを誤魔化すように必死に笑顔を作って見せた。そして、手を振りながら反対の手を口の横に添えてまた大声で叫んだ。
「そうですよお。太った先輩は見たくないですからねえ。筋トレは続けて下さいよお」
永山哲也は、こちらに向けて親指を立てた拳を突き出すと、笑顔で再び手を振った。一同に向けて軽く頭を下げた彼は、背を向けて奥に歩いていった。
春木陽香は彼の姿が見える限り手を振り続けた。すると、彼女の背後から声が飛んだ。
「蚊にも気をつけてよお、あなたあ。蚊よけ薬は忘れずに飲むのよお」
春木陽香は次々に頬を伝う涙を指先で拭きながら、頑張って叫んだ。
「そうですよお。ちゃんと飲んで下さいよお。蚊よけ薬は……あなた?」
一瞬だけ彼女の耳に入った単語に驚いた春木陽香が少しだけ振り向くと、彼女の斜め後ろで、さっき待合椅子で山野と話していた綺麗な女が透明のアクリル壁の向こう側に懸命に手を振っていた。春木陽香はすぐに隔壁の向うの永山の方を見た。立ち止まって再度振り返った彼は、こちらに向かって力強く手を振っている。すると、隔壁と春木の間にさっきの黒いマントの中学生が割って入り、手に持ったヘルメットと赤色の長い蛍光棒を左右に大きく振りながら、張りのある大きな声で叫んだ。
「気をつけてねえ。絶対にい、無事に帰ってきてねえ」
咄嗟に、春木陽香も共に叫んだ。
「そうですよお。帰ってきて下さいよお」
「お守りシールも剥がしちゃ駄目だよお」
「そうですよお。よく分かりませんけど、お守りは大切ですからねえ。大事にして下さいよお」
「頑張ってねえ。お父さーん」
「そうですよお。頑張ってくださーい。お父さ……お父さん?」
春木陽香は、その黒マントの中学生と背後の年上の女を交互に何度も見た。少し涙目になっているその女の肩に手を添えて、山野紀子が言っている。
「大丈夫よ、祥子さん。ご主人は無事に帰ってくるわよ」
廊下の奥の人ごみの中に姿を消した永山を見届けた神作真哉も、永山祥子に言った。
「そう。永山は柔な男じゃない。どんなことが起きても、ご主人は絶対に生きて帰ってきますよ。そう信じてください。絶対に大丈夫です」
春木陽香は永山祥子の左右に立つ山野と神作の方を交互に指差しながら、反対の手を口に当てて、何かを言おうとしていた。
「ご、ごしゅ、ごしゅ、ごしゅ……」
山野紀子は、透明の隔壁の前で肩を落としている黒マント姿の少女に言った。
「さ、由紀ちゃん。上の展望デッキに行きましょうか。みんなで、お父さんが乗っている飛行機を見送るわよ。ほら、元気出して。笑顔、笑顔。飛行機の中から由紀ちゃんが悲しんでいる顔を見たら、お父さんは心配して、飛行機から飛び降りて来ちゃうかもよ」
振り向いた永山由紀は、少し鼻を啜ると、目から零れ落ちた大粒の涙を友人の朝美に隠すように、素早く黒いヘルメットを被った。そして、赤色の蛍光棒を勢いよく天に向けて突き立てると、屋上の展望デッキへと昇るエレベーターに向かって元気良く駆け出していった。彼女について行くように、ハンカチで目元を押さえている永山祥子も、その隣に寄り添っている山野紀子も、ポケットに両手を入れたまま何度も上を向いては鼻を啜っていた神作真哉も、エレベーターに向けて歩き出した。
春木陽香は、一人固まったまま、その場に立ち尽くしていた。
「ご、ご主人って……永山先輩、結婚してたの? しかも、中学生の子供まで。し、知らなかった……」
両膝を床に突いて崩れ落ちた春木陽香に、フードを被った山野朝美が近づいてきて、耳元で囁く。
「前に四年も一緒に働いていたのに、知らなかったの? くくく、うける。くくくく」
山野朝美は腹を押さえて笑いながら、エレベーターの方へと歩いていった。
春木陽香は床のカーペットを叩きながら叫んだ。
「馬鹿、馬鹿、ハルハルの馬鹿。憧れの先輩が結婚しているかってことくらい、どうして確認しなかったのよお。ていうか、なんで気付かなかったのよお。思いっきり既婚者じゃないのよ。腕時計まで贈って、何やってるのよお。――ああ、今月のお給料、半分以上も使っちゃった……。もう、私の馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿あ!」
突如に襲ってきた失恋の事実と自らの愚行に、春木陽香は泣き崩れた。
ゆっくりと閉まるエレベーターのドアの中では、涙を拭いている永山祥子の後ろで、山野紀子と神作真哉が春木の姿を見ながら必死に笑いを堪えていた。
「週刊新日風潮」を立ち読みするふりをしながら、売店の隅で春木の姿を観察していたグレーの背広の男が、ギョロリトした大きな目で待合椅子の方に合図を送った。待合椅子に座っていたスーツ姿の男たちが一斉に立ち上がり、エレベーターの方へと歩いていく。
その耳の大きなグレーのスーツの男は、手に持っていた週刊新日風潮を品台の上に放り投げると、床にうずくまって泣いている春木陽香の姿をそのままずっと見ていた。
出国ロビーには永山が乗る飛行機の出発アナウンスが響いていた。
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