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第1部
2038年4月13日(火) 3
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新日ネット新聞ビルの上層階にある社会部フロアの一番奥には、質素な次長室がある。隣の部長室は四方をしっかりとした壁で囲まれているが、この次長室は直角にビルの角を作る二面の窓壁と部長室との境の壁に囲まれた空間に寸足らずのパーテーションで蓋をして記者フロアから区切られているだけである。そのことを部屋の主である上野秀則はいつも不満に思っていた。彼はせめて室内の雰囲気だけは次長室らしくしようと、斬新なデザインのソファーや大きな観葉植物を置いたり、本棚に重厚な雰囲気の気取ったオブジェを飾ったりして、それらしい雰囲気を繕っている。しかし、その統一感の無いアンバランスな組み合わせが却って室内を雑多な空間にしてしまっていた。
その次長室に、大き過ぎて座り心地の悪いハイバックの椅子に嵌め込まれたようにして座っている小柄な上野秀則デスクと、彼の机の前に立つ筋肉質な永山哲也記者、車座に置かれた四脚の流線形のソファーの一つを反対に向けて、それに難儀そうに腰を下ろしている長身の神作真哉キャップが居る。
上野秀則が椅子から身を乗り出して言った。
「ドクターTの正体を調べる?」
ソファーに不安定な感じで腰掛けたまま、神作真哉が答えた。
「ああ。あの時吉ジュニアがここを訪れたのも、単に交換条件の提示のためだけじゃないと思うんだ。それなら直接、下の風潮の方に行ったはずだろ。あいつがここに来て、わざわざ俺たちに文書の一部を立体再生までして見せたのは、何か理由があるからに違いない。たぶん奴も、この件が何か大事だと感じているんだよ」
上野秀則は平坦な顔に困惑を浮かべる。
「いや、だがな、ストンスロプ社とアキナガ・メガネ社の特許争いの記事はどうするんだよ。時吉弁護士は、その件を突っ込んで来たんじゃないか。放り出す訳にはいかんぞ」
神作真哉は落ち着いた様子で答えた。
「分かってる。だが、それは裁判が始まってからでもいいんじゃないか。それに、経済部の連中にでも回せば、向こうが株価情報欄で特集するかもしれんぞ」
「経済部かあ。奴らでちゃんと追えるかね。特許内容の概説に終始しそうだが……」
上野秀則はしかめて頭を掻いた。
永山哲也が上野に進言する。
「あの物理論文の内容が何かによりますが、司時空庁が何かを隠蔽していることは確かだと思います。しかも、相当にディープなネタじゃないかと。だからあの論文の筆者は、わざわざ『ドクターT』なんていうペンネームで投稿したんですよ」
「匿名での投稿くらいで、どうしてディープなネタだと言えるんだ」
上野の問いに神作真哉が答えた。
「実名を明かせば、命を狙われる可能性があるってことかもな。それほど、やばいネタだってことさ」
「投稿者の方に実名を明かせない事情があるのかもしれんじゃないか」
「だから、それを探るんだよ」
「くだらん理由かもしれんぞ。若い学者が他人の論文を盗用して、自分の売り込みのために司時空庁に送ったとか、自信が無かったから匿名で送ってみたとか。ただのイタズラかもしれんし」
神作真哉はソファーに座ったまま、上野に説明した。
「売り込みのためなら実名で書くだろう。自信が無ければ、いきなり司時空庁になんか送りはしないさ。あそこは文部科学省や新理研もびっくりの最先端科学を扱っている特殊官庁だ。博士号を持った専門の技官が揃っている。いい加減な論文なんかを提出しても、すぐにバレて相手にされないということは、俺たち科学の素人にも分かるじゃないか」
「まあな。確かに、新聞記者の俺たちには全くの専門外だよな。じゃあ、その俺たちがどうやって論文内容の真偽を判別するんだよ。詳しい内容も掴めずに記事は……そうだ、ウチの科学部の方で見てもらったら。あそこなら、理系の大学院出の奴が揃ってるから」
上野秀則がそう提案すると、神作真哉は首を横に振りながら立ち上がった。
「いや、それはマズイ。あいつらに回したら、すぐにどこかの大学の研究室に持ち込むに決まっている。権威ある専門の教授たちに読ませて、その意見を集めてくるはずだ。そうなると、この筆者が匿名で提出した意味がなくなるぞ。科学者連中なら、作者が誰か特定してしまうだろうからな。そしたら、その作者の身に危険が及ぶかもしれん」
「そうか……そうなれば、ウチの責任だな。記事は載せられなくなるな」
永山哲也が付け足した。
「それに、仮に学者からの意見を集めたとしても、それをどこまで信用できるか分かりません。司時空庁が教授たちに手を回すことは十分に考えられますから」
神作真哉は深刻な顔で上野に言った。
「司時空庁はタイムトラベルに関する国内の研究を全て管理している。その司時空庁の長官は、あの津田幹雄。野心の固まりだ。今期で長官職を終えたら、次は政界に進出すると専ら噂されている男だぞ。政治部の連中が言っていたが、辛島総理の次の政権での閣僚入りも噂されているらしい。その次の総理の椅子まで狙っているとか。もしこの論文の内容が奴にとって都合の悪い情報なら、こんな時にそんな情報が外に漏れることは何としても防ごうとするはずだ。科学者連中の口を封じたり曲げたり、何をするか分からんぞ」
上野秀則は机の上に手を乗せると、重心を掛けて立ち上がりながら言った。
「まいったなあ……じゃ、どうすりゃいいんだ。こっちは科学の素人じゃねえか」
神作真哉は自分の足下を指差しながら言った。
「下の『風潮』が手に入れたメールの添付データを全て俺たちに渡してくれれば、それを俺の知り合いに見てもらおうと思う。そうすれば、論文の内容が単なる冷やかしや悪戯のレベルかどうかが分かるだろ」
「知り合い? 誰だ」
上野秀則は怪訝な顔で尋ねた。
神作真哉は、今度は北の方角を軽く指差して言う。
「楼森町の科警研、あそこに俺の同級生が勤めているんだ。幼馴染でな。大学は別だったが、たしか専攻は物理。しかも、量子力学だったはずだ。そいつに読んでもらえば、信憑性のある論文かどうか分かると思う。ついでに、正確な内容も聞ける」
永山哲也が尋ねた。
「岩崎さんですか」
神作真哉は黙って頷いた。
上野秀則は、永山の顔を見て尋ねた。
「なんだ、永山も知ってる学者か」
永山哲也は首を横に振る。
「いいえ、直接お会いしたことはありません。ですが、信用は置けますよ。あの警察庁の科学捜査研究所の中で一番優秀な技官だって、僕がサツ回りをしていた頃から有名でしたから」
上野秀則は短い腕を組んで、眉間に皺を寄せた。
「でも、いくら優秀だからって学生時代に量子力学を専攻していたくらいじゃ、タイムトラベルに関しては素人なんじゃないのか。司時空庁に送りつけられたってことは、論文の中身はそっちの方面のことだろう。その技官の専門外じゃないのかよ。警察の捜査でそんな技術は使わないだろうし」
神作真哉が少し声を落として言った。
「確かにそうだが、ただ、こいつは、あの田爪健三博士と同じ大学の出身なんだ」
上野秀則は驚いた顔で言った。
「タイムマシンを作った科学者の一人の田爪健三か。たしか彼も、もともとの専門は量子力学だったな。そうか……」
「いけるんじゃないですかね」
永山の発言に背中を押されて、上野秀則は言った。
「うーん。そうだなあ。司時空庁も科警研にまでは手は回せないだろうからなあ。――よし、いっちょ、やってみるか」
上野秀則は丸くした小さな目の上で眉を上げて、神作の顔を見た。
神作真哉は上野に頷いて返すと、続いて彼に言った。
「とにかく、うえにょから下の『風潮』に、急いでその論文データを渡すように言ってくれないか。俺からじゃ、ほら、例の調子で駄目だから」
上野秀則は椅子に腰を下ろしながら言った。
「ま、別れた元女房が相手じゃ、お前も……ていうか、うえにょって言うな。『上野デスク』だろうが!」
永山哲也も上野に頼んだ。
「あと、僕たちをこの件の専属に当ててもらえませんか。うえにょデスク」
「専属? お前らをか。ていうか、『上野デスク』だ!」
上野秀則は机を叩く。
神作真哉は天上との間に隙間を開けたパーテーションの壁に目を遣りながら言った。
「ああ。本当はシゲさんと千佳ちゃんも欲しいところだが、二人には必要な時に手伝ってもらうとして、とりあえず今は、俺と永山で追ってみるよ」
上野秀則は神作を指差した。
「当たり前だろうが。シゲさんと永峯まで付けたら、おまえらのチーム丸々じゃねえか。そしたら、社会面のトップ記事は誰が書くんだよ」
神作真哉は上野の机の上に右手をついて前屈みになると、椅子に座っている上野に顔を近づけて言った。
「久しぶりに記者の腕が鳴るんじゃないか」
上野秀則は横を向いて口角を上げると、照れくさそう手を振った。
「おいおい、ふざけんなよ。俺に記事を書けって言うのかよ。まあ、書いてもいいが、急に記事のレベルが上がると、読者も戸惑う……おい、コラ、待て!」
神作真哉と永山哲也は黙って上野の部屋から出て行く。ドアを閉めた神作真哉は永山に言った。
「さて。あの論文の方は岩崎に読んでもらうとして、その返事をただ待ってる訳にはいかねえな」
「ですね。とりあえず僕は下の資料室で、タイムトラベルに関する研究をしている他の学者をリストアップしてみます」
「分かった。俺は、科学部の連中から、それとなく、タイムトラベルにも詳しい他の分野の学者たちの名前を聞き出してみるわ」
そう言いながら席についた神作に重成直人が尋ねた。
「どうだった、神作ちゃん。デスクは聞き入れてくれたかい」
「ええ、何とか。理解のあるデスクですから。あ、そうだ。シゲさん、ウチの社内でタイムトラベルに詳しい奴、誰か知りませんか」
重成直人は胡麻塩頭を撫でながら言った。
「タイムトラベルねえ。科学部なら、前に特集記事を年間で組んでいたから、皆詳しいと思うがね。前原デスクが一番詳しいかもな。ああ、経済部の小川君とか、司時空庁設立のゴタゴタを追った政治部の永池君、彼らも詳しいかもな」
「そうですか、ありがとうございます。小川と永池は……この時間じゃ、居ねえよなあ」
壁の時計を見ながら神作真哉が肩を落とした。記事データをサーバーに送信する時限まではまだ二時間以上あり、大抵の記者たちは手払っている時間帯だった。実際、社会部の編集フロアの中も、ほとんどの記者が出かけていて、人は疎らだった。
重成直人が神作に言った。
「俺が聞いといてやろうか」
神作真哉は手を振って答える。
「ああ、いや。自分で電話してみます。それより、シゲさん。司時空庁の中に誰か親しい人は居ませんかね。つまり、その……」
「リク元かい」
小声で返した重成に、神作真哉は細かく頷いて答えた。「リク元」とは情報を外部にリークする人間である。大抵の古い記者たちは官庁内に信頼する、あるいは弱みを握っている「リク元」を情報源として抱えている。当然、そういった情報源の類となる人物は古参の重成が社内では誰よりも多く知っていて、いつもならすぐに誰某の氏名があがるはずだが、今回は彼もしばらく記憶を探る必要があった。腕組みをして「うーん」と唸った後、彼は言った。
「司時空庁ねえ……いや、あそこは国のタイムトラベル事業の開始に合わせて設立された新しい官庁だからなあ、まだ出来て十年ってところだろ。ちょっと、居ないねえ」
「そうですか。シゲさんで居ないとなると、ウチの社内で、あそこの内部に情報源を持っている奴は居ないですね。困ったな……」
「何を探るんだい」
二人の間に座っている永山哲也が小声で答えた。
「例の論文ですよ。どこから送られてきたのか。発信元を知りたいんです」
「発信元って、じゃあ、偽装されたメールだったんですか」
重成の向いの席から永峰千佳が尋ねたが、永山も神作も答えなかった。答えられなかったのだ。彼らの様子を見て、重成直人が再び尋ねる。
「なんだ。メールじゃないのかい。ってことは、今時、郵送?」
永山哲也は首を傾げる。
「さあ。時吉ジュニアがウチに持ってきたのは、津田長官からのメールに添付されたデータ形式でしたけど、その津田長官の所にどういった方法で届いたのかは分からないんです。送られてきた紙文書をスーパーPDFとかでデータ化して取り込んだものかもしれませんし、もともとデータ形式でメールに添付されて司時空庁に送りつけられたのかもしれません。オリジナルがどういう形状だったのかは、さっぱり」
重成直人は更に尋ねた。
「直接に持参したという線は?」
神作真哉が手を振った。
「いや、そりゃ、無いですね。司時空庁ビルのセキュリティーは異常なくらい徹底していますから。国防省並みです。実際、国防軍から出向している兵士たちで構成されたSTS(Space Time Security)とかいう連中が完全武装で常駐していますし、防犯カメラも多角レンズで撮影していて死角がない。論文を出した人物も、それくらいのことは知っているはずですよ。なあ、永山」
永山哲也は頷いた。
「ですね。それに、勝手に侵入して論文を置いていった人物がいれば、まず捕まっているでしょうしね。仮に掴まらなかったとしても、防犯カメラの映像で面が割れるはずです。ところが、司時空庁のビル内で不審者が捕まったとか、後日不法侵入者が逮捕されたという類の話は聞いたことが無いですからね。提出方法は郵送又は宅配、あるいはメールだと思います」
重成直人は立ち上がると、上着を腕に掛けて言った。
「じゃあ、郵便の方は俺が訊いといてやるよ。伝があるから」
神作真哉はベテランの先輩記者に頭を下げる。
「助かります。宅配業者は俺が当たってみます。メールの線は……」
神作からの視線を察知した永峰千佳が、自分の顔を指差しながら言った。
「え、私ですか。またですか」
永山哲也が期待を込めて言った。
「何か方法を考えてよ。千佳ちゃんなりに」
「そ。千佳ちゃんなりに」
そう言った神作と永山を指差しながら、永峰千佳は言った。
「キャップも永山さんも、その、いかにもハッキングしろっていう目、やめてもらえませんか。司時空庁相手に不正アクセスなんて、やりませんよ。自殺行為じゃないですか」
永山哲也は首を横に振りながら言った。
「いや、ウチの社員がハッキングは不味いでしょ」
永峰千佳は口を尖らせて言う。
「前は、やらせたじゃないですか」
「あの時は、ほら、緊急事態だったし。それより、ウチの社員じゃなければ、問題はないよね、千佳ちゃん」
永山哲也は、含みを込めてそう言った。
神作真哉が眉間を摘まみながら下を向き、わざと永峰に聞こえるように言う。
「お友達の、ああ、何て言ったかな、あの天才ハッカー。ええと……」
永峰千佳がその名前を出した。
「アクアKですか」
神作真哉は額を叩いてから、大袈裟な素振りで言った。
「そう。そのアクアK。謎の天才ハッカー『アクアK様』。ペンタゴンとかインターポールのサーバーにも侵入した凄い奴、アクアK。いやあ、そうだった、そうだった」
永峰千佳は流し目で神作を見て言った。
「わざとらしい。知りませんよ。それに私は友達じゃありません。あの人、犯罪者じゃないですか」
「でも、世界中の国の諜報機関が探している、あの『アクアK様』を見つけて直接通信したの、千佳ちゃんぐらいしか居ないじゃないか」
そう言った永山の方を見て、永峰千佳は少しむきになって答えた。
「あれは、たまたまです。私は彼の呼子じゃありません!」
「そう言うなよ。暇な時に、ちょっと頼んでくれるだけでいいから」
神作真哉は永峰に向けて顔の前で手を合わせて懇願してみせた。永山哲也が腕組みをして天井を見上げる。
「ああ、キャップがこんなに頼んでるのになあ」
そして、上を向いたまま涙を拭く素振りを見せる。
永峰千佳はそんな二人の下手な芝居を交互に見ると、溜め息を吐いて観念した。
「もう。――じゃあ、一回だけですよ。返事が来るかどうか、分かりませんからね」
神作真哉は顔の前で数回拍手をして言った。
「サンキュウ! ああ、シゲさんも、この件は仕事の合間でいいですからね。専属は俺と永山だけらしいですから」
「あいよ」
そう返事をした重成直人は、出口の方に向かって歩いていった。それを見て、永山哲也も椅子から腰を上げる。
「じゃあ、さっそく僕も、下の資料室に行ってきます」
「おう、頼んだぞ」
神作真哉はワイシャツの胸のポケットから取り出したウェアフォンをいじりながら返事をした。
永山哲也は忘れ物がないか確認すると、腕まくりしたワイシャツの胸ポケットに資料室の入室パスカードを入れながら、社会部フロアの出口ゲートへと歩いていった。
神作真哉はウェアフォンを耳の下に当て、永峰千佳はヘッドマウント・ディスプレイを顔に装着し、それぞれの仕事に取り掛かる。
フロアのゲートを通ってエレベーター・ホールに出た永山哲也は端のエレベーターの前に立っていた重成に声を掛けようとした。すると、目の前のエレベーターの扉が開き、中から山野紀子が出てきた。彼女は挨拶をしようとした永山と重成の前を無言で通り過ぎると、ヒールの音を鳴らしながらゲートを通っていった。そのまま壁際の本棚沿いに、肩を上げてフロアの奥まで歩いていく。
永山哲也と重成直人は顔を見合わせた。
フロアの奥の「島」までやって来た山野紀子は、永峰の後ろを通り、永山の向かいの散らかった机の前に立った。その机の上を強く叩いた彼女は、神作に怒鳴る。
「ちょっと、データ渡せって、どういうことよ。渡さないって言ったでしょ!」
ウェアフォンを顎から離した神作真哉は、首を反らして上野の個室の方を覗いた。上野秀則が半開きのドアの隙間から申し訳なさそうな顔を出して神作に両手を合わせている。
溜め息を吐いて項垂れた神作真哉は、ワイシャツの胸ポケットにウェアフォンを仕舞いながら、山野の方を向いた。
机の上に手をついたまま、反対の手を腰に当てた山野紀子は、顔を傾けて言う。
「あのね、私たち、この件で緊急特集を組むことにしたのよ。上層部とも話をつけてきた。だから、その記事がウチの雑誌に載った後なら、あのデータはそっちに回してあげてもいいわ。でも、今は渡せないわよ。時吉弁護士に情報を渡したのは、ウチなんですからね。分かった?」
神作真哉は、両手をポケットに入れて椅子にふんぞり返ったまま、言った。
「あのさ、おまえ、もう少し落ち着いて話せないのかよ」
「うるっさい! 父親らしいこともしない元夫の顔を見てると、余計に腹立つのよ! とにかく、時吉弁護士に渡した情報はウチで調べた情報ですから、それと交換で貰ったデータを新聞の方に渡す訳にはいきません。じゃ、そういうことで」
山野紀子はくるりと踵を返すと、そのまま帰ろうとした。
「ちょっと待て!」
今度は神作真哉の怒鳴り声が響いた。
首を窄めて立ち止まった山野紀子は、少し驚いた顔で振り返る。
神作真哉は落ち着いた口調で、山野に諭すように言った。
「いいか、紀子。司時空庁は単身搭乗用のタイムマシンで、これまでに百人以上の人間を『過去』へと送っている。今月からは家族搭乗用の四人乗りマシンも飛ばし始める予定だそうだ。これからは、毎月、一人と一家族が司時空庁のタイムマシンで『過去』へと送られていくんだぞ。最多で五人だ。五人の命が毎月、司時空庁に託されることになる。その司時空庁に謎の物理論文が送り付けられてきた。そんなネタを掴んだ以上、真相をはっきりさせる義務が俺たちにはあるんじゃないか」
「だからって、どうしてそっちに……」
「分からんのか。場合によっては、あの論文の内容はタイムトラベルの安全性にかかわるものかもしれんだろ。新聞だの週刊誌だのと言っている場合か。人の命が懸かっているんだぞ。データはコピーでいいから、こっちにも渡せ。新聞部門の方が情報網は広いし、早い。現実問題として、表層的な情報の収集は俺たちの方がそっちより早いんだよ。今月の発射日まであと十日しかない。それまでに真相をはっきりさせる必要がある。お互い、くだらんことで意地になっている場合じゃないだろう。こっちで調べた情報は全てそっちにも回す。だから、データをすぐに渡せ。今すぐだ。いいな」
山野紀子は少し動揺した。さっき自分が春木たちに言ったこととほぼ同じ内容が、神作の口から発せられたからである。
山野紀子は口を尖らせて言った。
「な、なによ。分かってるわよ、そんなこと。仕方ないわね。渡すわよ。但し、コピーだからね。真ちゃんのパソコンに送ればいいんでしょ」
「ああ。頼む」
神作真哉は自分のパソコンに顔を向けたまま、無愛想にそう答えた。
再び神作に背を向けた山野紀子は、ブツブツと独り言を発しながらゲートの方に歩いていく。
「何なのよ、あの態度。ちょっと、まともなことを言ったからって、カッコつけて。元夫だからって、調子に乗るんじゃないわよ。送ってあげるわよ。送ればいいんでしょ。言っておきますけどね、ウチの情報網だって、あんたたちの広く浅い情報網とは違うんですからね。ずーと深いんですから。週刊誌を馬鹿にしないでよね」
ゲートの前で立ち止まった彼女は、また振り返り、フロアの奥の神作に叫んだ。
「下からすぐに送るからね。ちゃんと確認しなさいよ。いいわね」
神作真哉は黙って手を上げて応える。
山野紀子はプイと前を向くと、ゲートを通り、エレベーターの方へと歩いていった。
その次長室に、大き過ぎて座り心地の悪いハイバックの椅子に嵌め込まれたようにして座っている小柄な上野秀則デスクと、彼の机の前に立つ筋肉質な永山哲也記者、車座に置かれた四脚の流線形のソファーの一つを反対に向けて、それに難儀そうに腰を下ろしている長身の神作真哉キャップが居る。
上野秀則が椅子から身を乗り出して言った。
「ドクターTの正体を調べる?」
ソファーに不安定な感じで腰掛けたまま、神作真哉が答えた。
「ああ。あの時吉ジュニアがここを訪れたのも、単に交換条件の提示のためだけじゃないと思うんだ。それなら直接、下の風潮の方に行ったはずだろ。あいつがここに来て、わざわざ俺たちに文書の一部を立体再生までして見せたのは、何か理由があるからに違いない。たぶん奴も、この件が何か大事だと感じているんだよ」
上野秀則は平坦な顔に困惑を浮かべる。
「いや、だがな、ストンスロプ社とアキナガ・メガネ社の特許争いの記事はどうするんだよ。時吉弁護士は、その件を突っ込んで来たんじゃないか。放り出す訳にはいかんぞ」
神作真哉は落ち着いた様子で答えた。
「分かってる。だが、それは裁判が始まってからでもいいんじゃないか。それに、経済部の連中にでも回せば、向こうが株価情報欄で特集するかもしれんぞ」
「経済部かあ。奴らでちゃんと追えるかね。特許内容の概説に終始しそうだが……」
上野秀則はしかめて頭を掻いた。
永山哲也が上野に進言する。
「あの物理論文の内容が何かによりますが、司時空庁が何かを隠蔽していることは確かだと思います。しかも、相当にディープなネタじゃないかと。だからあの論文の筆者は、わざわざ『ドクターT』なんていうペンネームで投稿したんですよ」
「匿名での投稿くらいで、どうしてディープなネタだと言えるんだ」
上野の問いに神作真哉が答えた。
「実名を明かせば、命を狙われる可能性があるってことかもな。それほど、やばいネタだってことさ」
「投稿者の方に実名を明かせない事情があるのかもしれんじゃないか」
「だから、それを探るんだよ」
「くだらん理由かもしれんぞ。若い学者が他人の論文を盗用して、自分の売り込みのために司時空庁に送ったとか、自信が無かったから匿名で送ってみたとか。ただのイタズラかもしれんし」
神作真哉はソファーに座ったまま、上野に説明した。
「売り込みのためなら実名で書くだろう。自信が無ければ、いきなり司時空庁になんか送りはしないさ。あそこは文部科学省や新理研もびっくりの最先端科学を扱っている特殊官庁だ。博士号を持った専門の技官が揃っている。いい加減な論文なんかを提出しても、すぐにバレて相手にされないということは、俺たち科学の素人にも分かるじゃないか」
「まあな。確かに、新聞記者の俺たちには全くの専門外だよな。じゃあ、その俺たちがどうやって論文内容の真偽を判別するんだよ。詳しい内容も掴めずに記事は……そうだ、ウチの科学部の方で見てもらったら。あそこなら、理系の大学院出の奴が揃ってるから」
上野秀則がそう提案すると、神作真哉は首を横に振りながら立ち上がった。
「いや、それはマズイ。あいつらに回したら、すぐにどこかの大学の研究室に持ち込むに決まっている。権威ある専門の教授たちに読ませて、その意見を集めてくるはずだ。そうなると、この筆者が匿名で提出した意味がなくなるぞ。科学者連中なら、作者が誰か特定してしまうだろうからな。そしたら、その作者の身に危険が及ぶかもしれん」
「そうか……そうなれば、ウチの責任だな。記事は載せられなくなるな」
永山哲也が付け足した。
「それに、仮に学者からの意見を集めたとしても、それをどこまで信用できるか分かりません。司時空庁が教授たちに手を回すことは十分に考えられますから」
神作真哉は深刻な顔で上野に言った。
「司時空庁はタイムトラベルに関する国内の研究を全て管理している。その司時空庁の長官は、あの津田幹雄。野心の固まりだ。今期で長官職を終えたら、次は政界に進出すると専ら噂されている男だぞ。政治部の連中が言っていたが、辛島総理の次の政権での閣僚入りも噂されているらしい。その次の総理の椅子まで狙っているとか。もしこの論文の内容が奴にとって都合の悪い情報なら、こんな時にそんな情報が外に漏れることは何としても防ごうとするはずだ。科学者連中の口を封じたり曲げたり、何をするか分からんぞ」
上野秀則は机の上に手を乗せると、重心を掛けて立ち上がりながら言った。
「まいったなあ……じゃ、どうすりゃいいんだ。こっちは科学の素人じゃねえか」
神作真哉は自分の足下を指差しながら言った。
「下の『風潮』が手に入れたメールの添付データを全て俺たちに渡してくれれば、それを俺の知り合いに見てもらおうと思う。そうすれば、論文の内容が単なる冷やかしや悪戯のレベルかどうかが分かるだろ」
「知り合い? 誰だ」
上野秀則は怪訝な顔で尋ねた。
神作真哉は、今度は北の方角を軽く指差して言う。
「楼森町の科警研、あそこに俺の同級生が勤めているんだ。幼馴染でな。大学は別だったが、たしか専攻は物理。しかも、量子力学だったはずだ。そいつに読んでもらえば、信憑性のある論文かどうか分かると思う。ついでに、正確な内容も聞ける」
永山哲也が尋ねた。
「岩崎さんですか」
神作真哉は黙って頷いた。
上野秀則は、永山の顔を見て尋ねた。
「なんだ、永山も知ってる学者か」
永山哲也は首を横に振る。
「いいえ、直接お会いしたことはありません。ですが、信用は置けますよ。あの警察庁の科学捜査研究所の中で一番優秀な技官だって、僕がサツ回りをしていた頃から有名でしたから」
上野秀則は短い腕を組んで、眉間に皺を寄せた。
「でも、いくら優秀だからって学生時代に量子力学を専攻していたくらいじゃ、タイムトラベルに関しては素人なんじゃないのか。司時空庁に送りつけられたってことは、論文の中身はそっちの方面のことだろう。その技官の専門外じゃないのかよ。警察の捜査でそんな技術は使わないだろうし」
神作真哉が少し声を落として言った。
「確かにそうだが、ただ、こいつは、あの田爪健三博士と同じ大学の出身なんだ」
上野秀則は驚いた顔で言った。
「タイムマシンを作った科学者の一人の田爪健三か。たしか彼も、もともとの専門は量子力学だったな。そうか……」
「いけるんじゃないですかね」
永山の発言に背中を押されて、上野秀則は言った。
「うーん。そうだなあ。司時空庁も科警研にまでは手は回せないだろうからなあ。――よし、いっちょ、やってみるか」
上野秀則は丸くした小さな目の上で眉を上げて、神作の顔を見た。
神作真哉は上野に頷いて返すと、続いて彼に言った。
「とにかく、うえにょから下の『風潮』に、急いでその論文データを渡すように言ってくれないか。俺からじゃ、ほら、例の調子で駄目だから」
上野秀則は椅子に腰を下ろしながら言った。
「ま、別れた元女房が相手じゃ、お前も……ていうか、うえにょって言うな。『上野デスク』だろうが!」
永山哲也も上野に頼んだ。
「あと、僕たちをこの件の専属に当ててもらえませんか。うえにょデスク」
「専属? お前らをか。ていうか、『上野デスク』だ!」
上野秀則は机を叩く。
神作真哉は天上との間に隙間を開けたパーテーションの壁に目を遣りながら言った。
「ああ。本当はシゲさんと千佳ちゃんも欲しいところだが、二人には必要な時に手伝ってもらうとして、とりあえず今は、俺と永山で追ってみるよ」
上野秀則は神作を指差した。
「当たり前だろうが。シゲさんと永峯まで付けたら、おまえらのチーム丸々じゃねえか。そしたら、社会面のトップ記事は誰が書くんだよ」
神作真哉は上野の机の上に右手をついて前屈みになると、椅子に座っている上野に顔を近づけて言った。
「久しぶりに記者の腕が鳴るんじゃないか」
上野秀則は横を向いて口角を上げると、照れくさそう手を振った。
「おいおい、ふざけんなよ。俺に記事を書けって言うのかよ。まあ、書いてもいいが、急に記事のレベルが上がると、読者も戸惑う……おい、コラ、待て!」
神作真哉と永山哲也は黙って上野の部屋から出て行く。ドアを閉めた神作真哉は永山に言った。
「さて。あの論文の方は岩崎に読んでもらうとして、その返事をただ待ってる訳にはいかねえな」
「ですね。とりあえず僕は下の資料室で、タイムトラベルに関する研究をしている他の学者をリストアップしてみます」
「分かった。俺は、科学部の連中から、それとなく、タイムトラベルにも詳しい他の分野の学者たちの名前を聞き出してみるわ」
そう言いながら席についた神作に重成直人が尋ねた。
「どうだった、神作ちゃん。デスクは聞き入れてくれたかい」
「ええ、何とか。理解のあるデスクですから。あ、そうだ。シゲさん、ウチの社内でタイムトラベルに詳しい奴、誰か知りませんか」
重成直人は胡麻塩頭を撫でながら言った。
「タイムトラベルねえ。科学部なら、前に特集記事を年間で組んでいたから、皆詳しいと思うがね。前原デスクが一番詳しいかもな。ああ、経済部の小川君とか、司時空庁設立のゴタゴタを追った政治部の永池君、彼らも詳しいかもな」
「そうですか、ありがとうございます。小川と永池は……この時間じゃ、居ねえよなあ」
壁の時計を見ながら神作真哉が肩を落とした。記事データをサーバーに送信する時限まではまだ二時間以上あり、大抵の記者たちは手払っている時間帯だった。実際、社会部の編集フロアの中も、ほとんどの記者が出かけていて、人は疎らだった。
重成直人が神作に言った。
「俺が聞いといてやろうか」
神作真哉は手を振って答える。
「ああ、いや。自分で電話してみます。それより、シゲさん。司時空庁の中に誰か親しい人は居ませんかね。つまり、その……」
「リク元かい」
小声で返した重成に、神作真哉は細かく頷いて答えた。「リク元」とは情報を外部にリークする人間である。大抵の古い記者たちは官庁内に信頼する、あるいは弱みを握っている「リク元」を情報源として抱えている。当然、そういった情報源の類となる人物は古参の重成が社内では誰よりも多く知っていて、いつもならすぐに誰某の氏名があがるはずだが、今回は彼もしばらく記憶を探る必要があった。腕組みをして「うーん」と唸った後、彼は言った。
「司時空庁ねえ……いや、あそこは国のタイムトラベル事業の開始に合わせて設立された新しい官庁だからなあ、まだ出来て十年ってところだろ。ちょっと、居ないねえ」
「そうですか。シゲさんで居ないとなると、ウチの社内で、あそこの内部に情報源を持っている奴は居ないですね。困ったな……」
「何を探るんだい」
二人の間に座っている永山哲也が小声で答えた。
「例の論文ですよ。どこから送られてきたのか。発信元を知りたいんです」
「発信元って、じゃあ、偽装されたメールだったんですか」
重成の向いの席から永峰千佳が尋ねたが、永山も神作も答えなかった。答えられなかったのだ。彼らの様子を見て、重成直人が再び尋ねる。
「なんだ。メールじゃないのかい。ってことは、今時、郵送?」
永山哲也は首を傾げる。
「さあ。時吉ジュニアがウチに持ってきたのは、津田長官からのメールに添付されたデータ形式でしたけど、その津田長官の所にどういった方法で届いたのかは分からないんです。送られてきた紙文書をスーパーPDFとかでデータ化して取り込んだものかもしれませんし、もともとデータ形式でメールに添付されて司時空庁に送りつけられたのかもしれません。オリジナルがどういう形状だったのかは、さっぱり」
重成直人は更に尋ねた。
「直接に持参したという線は?」
神作真哉が手を振った。
「いや、そりゃ、無いですね。司時空庁ビルのセキュリティーは異常なくらい徹底していますから。国防省並みです。実際、国防軍から出向している兵士たちで構成されたSTS(Space Time Security)とかいう連中が完全武装で常駐していますし、防犯カメラも多角レンズで撮影していて死角がない。論文を出した人物も、それくらいのことは知っているはずですよ。なあ、永山」
永山哲也は頷いた。
「ですね。それに、勝手に侵入して論文を置いていった人物がいれば、まず捕まっているでしょうしね。仮に掴まらなかったとしても、防犯カメラの映像で面が割れるはずです。ところが、司時空庁のビル内で不審者が捕まったとか、後日不法侵入者が逮捕されたという類の話は聞いたことが無いですからね。提出方法は郵送又は宅配、あるいはメールだと思います」
重成直人は立ち上がると、上着を腕に掛けて言った。
「じゃあ、郵便の方は俺が訊いといてやるよ。伝があるから」
神作真哉はベテランの先輩記者に頭を下げる。
「助かります。宅配業者は俺が当たってみます。メールの線は……」
神作からの視線を察知した永峰千佳が、自分の顔を指差しながら言った。
「え、私ですか。またですか」
永山哲也が期待を込めて言った。
「何か方法を考えてよ。千佳ちゃんなりに」
「そ。千佳ちゃんなりに」
そう言った神作と永山を指差しながら、永峰千佳は言った。
「キャップも永山さんも、その、いかにもハッキングしろっていう目、やめてもらえませんか。司時空庁相手に不正アクセスなんて、やりませんよ。自殺行為じゃないですか」
永山哲也は首を横に振りながら言った。
「いや、ウチの社員がハッキングは不味いでしょ」
永峰千佳は口を尖らせて言う。
「前は、やらせたじゃないですか」
「あの時は、ほら、緊急事態だったし。それより、ウチの社員じゃなければ、問題はないよね、千佳ちゃん」
永山哲也は、含みを込めてそう言った。
神作真哉が眉間を摘まみながら下を向き、わざと永峰に聞こえるように言う。
「お友達の、ああ、何て言ったかな、あの天才ハッカー。ええと……」
永峰千佳がその名前を出した。
「アクアKですか」
神作真哉は額を叩いてから、大袈裟な素振りで言った。
「そう。そのアクアK。謎の天才ハッカー『アクアK様』。ペンタゴンとかインターポールのサーバーにも侵入した凄い奴、アクアK。いやあ、そうだった、そうだった」
永峰千佳は流し目で神作を見て言った。
「わざとらしい。知りませんよ。それに私は友達じゃありません。あの人、犯罪者じゃないですか」
「でも、世界中の国の諜報機関が探している、あの『アクアK様』を見つけて直接通信したの、千佳ちゃんぐらいしか居ないじゃないか」
そう言った永山の方を見て、永峰千佳は少しむきになって答えた。
「あれは、たまたまです。私は彼の呼子じゃありません!」
「そう言うなよ。暇な時に、ちょっと頼んでくれるだけでいいから」
神作真哉は永峰に向けて顔の前で手を合わせて懇願してみせた。永山哲也が腕組みをして天井を見上げる。
「ああ、キャップがこんなに頼んでるのになあ」
そして、上を向いたまま涙を拭く素振りを見せる。
永峰千佳はそんな二人の下手な芝居を交互に見ると、溜め息を吐いて観念した。
「もう。――じゃあ、一回だけですよ。返事が来るかどうか、分かりませんからね」
神作真哉は顔の前で数回拍手をして言った。
「サンキュウ! ああ、シゲさんも、この件は仕事の合間でいいですからね。専属は俺と永山だけらしいですから」
「あいよ」
そう返事をした重成直人は、出口の方に向かって歩いていった。それを見て、永山哲也も椅子から腰を上げる。
「じゃあ、さっそく僕も、下の資料室に行ってきます」
「おう、頼んだぞ」
神作真哉はワイシャツの胸のポケットから取り出したウェアフォンをいじりながら返事をした。
永山哲也は忘れ物がないか確認すると、腕まくりしたワイシャツの胸ポケットに資料室の入室パスカードを入れながら、社会部フロアの出口ゲートへと歩いていった。
神作真哉はウェアフォンを耳の下に当て、永峰千佳はヘッドマウント・ディスプレイを顔に装着し、それぞれの仕事に取り掛かる。
フロアのゲートを通ってエレベーター・ホールに出た永山哲也は端のエレベーターの前に立っていた重成に声を掛けようとした。すると、目の前のエレベーターの扉が開き、中から山野紀子が出てきた。彼女は挨拶をしようとした永山と重成の前を無言で通り過ぎると、ヒールの音を鳴らしながらゲートを通っていった。そのまま壁際の本棚沿いに、肩を上げてフロアの奥まで歩いていく。
永山哲也と重成直人は顔を見合わせた。
フロアの奥の「島」までやって来た山野紀子は、永峰の後ろを通り、永山の向かいの散らかった机の前に立った。その机の上を強く叩いた彼女は、神作に怒鳴る。
「ちょっと、データ渡せって、どういうことよ。渡さないって言ったでしょ!」
ウェアフォンを顎から離した神作真哉は、首を反らして上野の個室の方を覗いた。上野秀則が半開きのドアの隙間から申し訳なさそうな顔を出して神作に両手を合わせている。
溜め息を吐いて項垂れた神作真哉は、ワイシャツの胸ポケットにウェアフォンを仕舞いながら、山野の方を向いた。
机の上に手をついたまま、反対の手を腰に当てた山野紀子は、顔を傾けて言う。
「あのね、私たち、この件で緊急特集を組むことにしたのよ。上層部とも話をつけてきた。だから、その記事がウチの雑誌に載った後なら、あのデータはそっちに回してあげてもいいわ。でも、今は渡せないわよ。時吉弁護士に情報を渡したのは、ウチなんですからね。分かった?」
神作真哉は、両手をポケットに入れて椅子にふんぞり返ったまま、言った。
「あのさ、おまえ、もう少し落ち着いて話せないのかよ」
「うるっさい! 父親らしいこともしない元夫の顔を見てると、余計に腹立つのよ! とにかく、時吉弁護士に渡した情報はウチで調べた情報ですから、それと交換で貰ったデータを新聞の方に渡す訳にはいきません。じゃ、そういうことで」
山野紀子はくるりと踵を返すと、そのまま帰ろうとした。
「ちょっと待て!」
今度は神作真哉の怒鳴り声が響いた。
首を窄めて立ち止まった山野紀子は、少し驚いた顔で振り返る。
神作真哉は落ち着いた口調で、山野に諭すように言った。
「いいか、紀子。司時空庁は単身搭乗用のタイムマシンで、これまでに百人以上の人間を『過去』へと送っている。今月からは家族搭乗用の四人乗りマシンも飛ばし始める予定だそうだ。これからは、毎月、一人と一家族が司時空庁のタイムマシンで『過去』へと送られていくんだぞ。最多で五人だ。五人の命が毎月、司時空庁に託されることになる。その司時空庁に謎の物理論文が送り付けられてきた。そんなネタを掴んだ以上、真相をはっきりさせる義務が俺たちにはあるんじゃないか」
「だからって、どうしてそっちに……」
「分からんのか。場合によっては、あの論文の内容はタイムトラベルの安全性にかかわるものかもしれんだろ。新聞だの週刊誌だのと言っている場合か。人の命が懸かっているんだぞ。データはコピーでいいから、こっちにも渡せ。新聞部門の方が情報網は広いし、早い。現実問題として、表層的な情報の収集は俺たちの方がそっちより早いんだよ。今月の発射日まであと十日しかない。それまでに真相をはっきりさせる必要がある。お互い、くだらんことで意地になっている場合じゃないだろう。こっちで調べた情報は全てそっちにも回す。だから、データをすぐに渡せ。今すぐだ。いいな」
山野紀子は少し動揺した。さっき自分が春木たちに言ったこととほぼ同じ内容が、神作の口から発せられたからである。
山野紀子は口を尖らせて言った。
「な、なによ。分かってるわよ、そんなこと。仕方ないわね。渡すわよ。但し、コピーだからね。真ちゃんのパソコンに送ればいいんでしょ」
「ああ。頼む」
神作真哉は自分のパソコンに顔を向けたまま、無愛想にそう答えた。
再び神作に背を向けた山野紀子は、ブツブツと独り言を発しながらゲートの方に歩いていく。
「何なのよ、あの態度。ちょっと、まともなことを言ったからって、カッコつけて。元夫だからって、調子に乗るんじゃないわよ。送ってあげるわよ。送ればいいんでしょ。言っておきますけどね、ウチの情報網だって、あんたたちの広く浅い情報網とは違うんですからね。ずーと深いんですから。週刊誌を馬鹿にしないでよね」
ゲートの前で立ち止まった彼女は、また振り返り、フロアの奥の神作に叫んだ。
「下からすぐに送るからね。ちゃんと確認しなさいよ。いいわね」
神作真哉は黙って手を上げて応える。
山野紀子はプイと前を向くと、ゲートを通り、エレベーターの方へと歩いていった。
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