オルゴールを鳴らして

みちまさ

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あなたはオルゴールを鳴らして -3

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私は、考えた末に、婦人科で緊急避妊薬をもらうことをやめた。
よっちゃんに対する罪悪感よりも、子供が持てるかもしれない嬉しさの方が勝った。それに……この年齢で妊娠する方が稀だ。
ネットで調べたら、私の年齢での自然妊娠は三割にも満たない。妊娠しても半数は流産をする。もうそういう年齢なのだ。
たった一晩で、そうなるわけがない。
無理矢理抱かれたとは思っていない。私はちゃんと合意して孝志に抱かれた。大人になっても、小さい時から繋いでいた、懐かしい手の感触は変わらなくて温かかった。
そういえば、私はよっちゃんといる時に、いつもどこか緊張している気がする。
身体を重ねる時もそうだった。
孝志には、恥ずかしかったけど緊張なんてしなかったのに。
いつまでも待ってくれる人がいる。家族のように育ってきた孝志が、いつでも帰ってこいと言ってくれていることが、今の私の唯一の救いになった。



よっちゃんは、私が実家に帰っている間に、何かあったのだろうか。
私の様子も意に介さず、始終ボンヤリすることが増えた。
「よっちゃん、大丈夫?」
「ん?ああ、大丈夫。ちょっと疲れてるだけでさ」
優しく笑うよっちゃんは、私の知らない人みたいだった。
毎日あの香水が部屋に香る。ミントグリーンの蓋の、100mlの大きなスプレーボトルがよっちゃんのブリーフケースに入っていた。
多分よっちゃんは、この香りから片時も離れたくないんだ、きっと。

最近は、オルゴールをいつも鳴らしている。珍しいから買った、という美しい青い箱から流れるメロディーは、よっちゃんが好きなアーティストの好きな曲だった。
あなたはオルゴールを鳴らして、誰を思い出してるの?


同窓会から戻って来てから、私はたまに孝志とメッセージのやり取りをするようになった。内容は他愛無いもので、友達同士の会話だったけれど、やっぱり孝志との関係は何かが変わってしまった気がした。良くも悪くも。
良かったのは、孝志との気の置けない関係が変わらなったこと。悪かったのは、私の気持ちが、完全によっちゃんから離れてしまいそうなこと。
孝志に抱かれて一番変わったのは、よっちゃんのことを好きだと思っていたけれど、本当にそうなのか分からなくなってしまったことだった。もう二十年以上一緒にいる人なのに、何を考えているのか未だに分からない。孝志の考えていることはあんなに分かるのに。そしてもう、よっちゃんは私の方を向いていないという間違いのない事実。


”生理は来た?”
私にそんなことを訊くのは孝志しかいない。よっちゃんですらそんなことは訊かない。高校生の時、生理痛がひどくて、”お腹が痛くて遊びに行けない”、と言った時に、”生理?無理せずに寝とけよ”、と直球で言ってくるような人だった。
でも、今回は意味が違う。妊娠したかどうかを訊いているのだ。
生理は、予定日から二週間以上過ぎているけど来ていない。ひどく眠たくて、よっちゃんの香水が香ると、胸がムカムカしてくることにも気付いていた。
”私の年齢なら、半数は流産するんだって”
そう書いて送ったら、すぐに孝志から電話が掛かった。
「茉優。おめでとう」
私は一言も妊娠したなんて言ってないのに。どうしてすぐ感づくんだろう。
「まだ、調べてないからわかんないよ……」
「茉優は子供が欲しいんだろ?俺も茉優との子供なら大切に育てる。そっちでこそこそ病院に行くぐらいなら、もう帰ってこい。電話に出たってことは、この時間にもお前の旦那は帰ってきてないだろう?」
時計は夜の十時を回ろうとしていた。
「仕事だよ、管理職だもの。忙しい仕事、だから……」
それでも私は泣きながらよっちゃんを庇った。レスになった最初のきっかけは私だから。
「……茉優、お前と旦那との間で何があったとしても、お前が泣いてるってこと自体が、もうダメなんだよ俺からしたら。茉優、明日家にいるか?」
「うん……」
「迎えに行く。待ってろ」
「ダメ!それに流産するかもなのに!」
「茉優、わかってないな。俺はどうなってもお前を引き受けるつもりだけど。旦那がいるなら俺が話をする。明日旦那は?」
「仕事……」
「じゃあ朝十時に車で行くから。荷物できるだけまとめとけよ」
「ダメよたっちゃん!」
「……旦那は一緒に育ててくれないだろ?俺の子供だし、俺がちゃんと話をつける。じゃあまた明日な」
「たっちゃん!」
電話は一方的に切れた。地元から車でここに朝十時って、いったい何時に出れば間に合うんだろう。
呆然としていると、よっちゃんが帰って来た。
「ただいま」
「……おかえり……」
また香水の香りがする。グリーンティーの爽やかな香りも、今の私には悪阻の種でしかない。
「よっちゃん、お風呂湧いてるよ。入って入って!」
「ああ、そうする」
私は気付いた。私が妻であることでよっちゃんを縛っている。そして私もよっちゃんに縛られているんだ。もうお互い……あの頃みたいにお互いを見つめていないのに。
孝志に抱かれた日に、拒まなかったのは、本当は心のどこかで、もうこの暮らしから抜け出したいと思っていたからなんだ。この先何十年もなんて無理。
私、行かなきゃ。もうここにはいられない。


朝、よっちゃんを送り出した後、私は急いで荷造りをした。
毛糸と綿と編み棒と作り方の本以外、必要だと思うものはあまりなかった。
午前十時過ぎ、インターフォンが鳴った。
「たっちゃん!」
玄関ドアを開けると、孝志が少し疲れた顔で立っている。
「たっちゃん……」
抱きついて見上げると驚いた顔をした孝志が、私の背中を擦りながら、
「小学校以来だな、こんな風にお前が抱きつくの」
と言って微笑んだ。

「茉優、本当に荷物これだけなのか?もうここには帰ってこないぞ?まだ積めるから運ぶもの言えよ」
「うん。いいの。あと、このダンボールは途中で発送していいかな」
依頼されたあみぐるみを知り合いに送るために箱に詰めていた。
「わかった。じゃあ、行こう」
私はよっちゃんに手紙を書いた。ごめんなさい、私は子供が欲しくて幼馴染に抱かれました、と正直に書いた。だから離婚してください、よっちゃんも好きな人の所に行ってください、と。
私が置いた手紙の横に、孝志がジャケットの内ポケットから封筒を出して置いた。
封筒には、”長束頼和 様”と、よっちゃんのフルネームが書かれていた。
「きっちりお前の旦那と話をするから」
「うん。私もちゃんと話すよ」
孝志の大きな手が私の背中を押した。
玄関を出て、鍵を閉め、私は小さな封筒に鍵を入れると、新聞受けによっちゃんと暮らした部屋の鍵を落とした。



地元に帰る車の中で孝志は言った。
「俺は子供が欲しいからお前を抱いたんじゃない。お前が好きだからそうした。だから、お腹の子がもし産むのが難しかったとしても、もう帰るな。俺のとこにいろ」
「うん……そのつもり。もう帰らないよ。よっちゃん、多分、好きな人がいるんだ……」
車のハンドルを握る孝志の顔色が変わったのがわかった。
「……いつから気付いてた?」
「ここ三……四か月くらいかな。昔の人を思い出すみたいな顔してるから、多分だけどね」
「……そうか……茉優、少なくとも俺はそれはないから心配するな」
孝志はニコッと口を四角くして笑った。その顔は、彼が中学生の時によくしていた笑顔だった。
田舎の口さがない人たちから出戻りと言われても、石女うまずめと言われたとしても、よっちゃんとの暮らしを続けるよりはいいと思ったのは、孝志が絶対に味方だとわかっているからだ。
私は、この”絶対”が欲しかった。何があっても私の味方でいてくれる人がいる、安心感。いつしかよっちゃんにそれを求めることは難しくなっていた。
「休憩しよう。酔ってないか?」
パーキングエリアに車を止めて、孝志は私の体調を気遣ってくれた。
「うん、たっちゃん。大丈夫、ありがと」
「茉優、手。転んだら大変だから」
孝志は私の手を引いて歩いた。仲の良かった子供の頃と同じように。

母さんは、孝志と一緒に帰って来た私を見て、何も言わず私を抱きしめた。
「病院には行ったの?」
「ううん。まだ」
「孝志さん、茉優を祭坂にある産婦人科に連れて行ってくれる?あそこは評判がいいから」
「わかりました。じゃあ、茉優は少し休んでろ。荷物下すから」
「でも!」
「いいから。寒いから中に入りなさい」
母さんは私をリビングに連れて行った。こたつに入る。
「実家なんだからごろ寝しなさいよ?」
「うん……」
こたつが暖かい。私は疲れたのか眠ってしまっていた。

夕方、私は産婦人科を受診し、妊娠二か月だということがわかった。
「一旦帰るけど、また夜来る。旦那から電話がかかるだろ?何時くらいに帰って来る?」
「早ければ、夜の八時、遅かったら午前様かな」
「わかった。じゃあ八時過ぎには来る。またな」
孝志は抱きしめた私の背中をぽんぽんとして、仕事に戻った。


その日の夜中、よっちゃんから電話が掛かって来た。
「茉優、ごめんな。俺はいい夫じゃなかった。……妊娠は、してるのか?」
「うん。妊娠二か月だって」
「無事に、元気な赤ちゃん産めよ。本当に、すまなかった」
よっちゃんは、私を責めることもなく、謝ってばかりだった。私も、もう浮気の数々を責めることはしなかった。最後に一言だけ言った。
「長い間ありがとう。よっちゃんも好きな人と幸せになってね。ずっと好きな人がいたでしょう?」
「茉優……ごめんな……」
よっちゃんは大きく息を吸うと、電話口の向こうで泣き出した。結婚して二十年一緒にいたけど、一度も聞いたことのない、奥歯を噛んで必死に堪えている嗚咽だった。
よっちゃんの好きな人は手が届かない人なのかな。でももう私にはしてあげられることは何もない。
嗚咽をこらえてよっちゃんは言った。
「明日記入した離婚届を送る。そっちで出してもらってもいいし、送り返してくれたら、俺が出すよ」
「わかった。じゃあね、よっちゃん元気でね……」
孝志が、肩を叩いた。俺に替われ、と言っている。
「よっちゃん、あの……」
「岬さんだろ。替わってくれ」
私は孝志にスマホを渡した。私はとても話を訊くことなんてできなくてその場を離れたから、男同士でどんな話をしたのかは知らない。ただ、孝志は電話を切った後に、
「茉優、何も心配するな、後は書類さえ出せばいいし、後は俺が連絡取るから」
と言って私を抱きしめた。

私は、速達で来た離婚届に自分の名前を書いて印鑑を押した。
同封されていた便せんには、”茉優と一緒になって良かった、長い間ありがとう”と癖のあるよっちゃんの字で書かれていた。



赤ちゃんは無事に生まれ、子供に関する籍の諸々の問題を解決してから、私は孝志と結婚した。
それから六年。小学生になった私たちの娘はすくすく育っている。
「ママー!ねんがじょうね、おいものはんこでつくりたい!」
懐かしい芋はんを彫りながら、娘と一緒に年賀状を書いた。よっちゃんにも欠かさず毎年送った。もう、親戚のようなものだから。

元日の朝。
「どのくらいねんがじょうきてるかな?」
「真衣、上着着てから玄関出ないと寒いよ!」
子供と一緒にポストを見る。
「たっくさんきてるねえ」
孝志は旅館の経営者だから、山のように年賀状が来る。これでも減った、と言っていた。
「これが、パパ、パパ、まい、ママ、パパ、パパ……」
仕分けの作業は真衣の担当だ。
孝志に送られた年賀状を、今度は仕事関係のものと私的なものに私が分けていく。
「あ、よっちゃんだ……」
よっちゃんからの年賀状は、”岬 孝志様、茉優様、真衣ちゃん” と家族全員に宛てられており、よっちゃんの名前の横には、知らない女性の名前があった。

”長束 頼和・晶(旧姓:林田)”

裏に返すと、年賀状からあの爽やかな香水の香りが、ふわっと漂った。



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