オルゴールを鳴らして

みちまさ

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オルゴールを鳴らして

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毎朝妻が起こしてくれる。
「おはよう、よっちゃん」
着替えて朝食を食べ、仕事に向かう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
毎朝の光景。

僕たちは子どもに恵まれなかった。恵まれなかったというより、最後のチャンスだと言われた妊活期に僕が遊び回っていたから、出来ようもなかった。
僕も妻も四十代になり、自然と子どもは諦めよう、という話になった頃、僕は女遊びをやめた。
今思えば、親になる自信が無かった。父は母に暴力ばかり振るい、小さな僕はずっと怯えていた。また自分が父のようになりそれを繰り返す事を心底恐れていたのだ。
そう、僕の人生は逃げばかりだった。
美大に行ったのに、今は何の興味も無い営業の仕事に就いて、社用車の軽を転がしている。
大学は映画専攻だったと言った僕に、
「ここに集まってる人達、みんな個性が強いから、ドキュメンタリー映画とか撮れば楽しそうなのに」
とソウルバーのカウンターで君は言った。
そんな事を、しがない小さな会社の営業になった僕に言ってくれたのは、君だけだった。


何で、こんな事を思い出したんだろう。彼女と初めて会ったのは、もう……
「干支が一回りしてるな……」
会社の壁に貼ってある古風なカレンダーに干支が書いてあった。干支なんて確認しなくても、僕が大好きだったアーティストが死んで何年経ったか数えたらわかる。
今年でちょうど、十二年だ。

十二年前、僕はそのアーティストの追悼オフ会、みたいなのを主宰した。
その時にネットを通じてやって来たのが彼女だった。
ショートのクルクルのパーマヘア。この子俺の一個下って言ってたよな?二十代に見えるぞ……?童顔のその子は、涙目でこう言った。
「めちゃくちゃファンて訳じゃなかったのに、訃報を聞いて落ち込んで、知らないうちに心の支えになってたんだなって思って……」
「ほーん……」
なんだ、ニワカファンか。
そう高をくくっていたけれど、全く知らない訳じゃなく、彼女は音楽を聴くのが好きな子だった。代表作は当たり前に知っていたし、そのアーティストの偉大さは充分に理解していた。
「私、この曲が好きなんだ」
「マニアックなのが好きだな」
「プロデューサーの職人芸が光ってるじゃん!すごい名曲だよ~」
バーのカウンターに並んで、僕の好きなアーティストの曲が流れた時、シングルカットされた曲ではなくアルバムの中の曲を好きだという彼女を、もうその時はニワカだと揶揄する事は無かった。


ネット上で知り合ったせいか、お互いを本名で呼び合う事はなかった。明らかに適当につけているネット上の名前で呼ぶ。
「あ、トニーさんいた!」
「おう、久しぶり、マリア」
アホみたいだが、その方が気楽で良かった。お互い既婚者だったし、そこでしか会わないし、僕の隣にはその時々で違う女の子がいたから。
彼女は音楽の趣味仲間だから、夜仲良くする女の子とは別枠だった。
友達なら終わりが無いから。
今なら、そういう言い訳をして彼女とずっと繋がっていたかったんだとわかる。もう何年も連絡はおろか、会ってもいないけれど。

すぐ隣で何度も飲んだし、夜中に二人きりになることも何回もあった。
けれど、彼女の手や肩にすら触れた事はなかった。どうでもいい女の子を触るのは平気だったのに。
「まーた女の子取っ替え引っ替えしてる~」
「してないよ、ちゃんと終わらせて次だから」
「サイクル早いね~!PDCA回し過ぎじゃない?仕事じゃないんだから」
「うるせぇよ」
連れの女の子がトイレに立っている間、笑いながら冷やかされた事もあった。
今思えば、怖かったんだ。君を永遠に失う事が。
今だって、どこかで会っても、ああ久しぶりって言えるだろ?
顔見知り。昔の知り合い。少し仲良かった女友達。
けれど一切、恋の相談はしなかった。二人の関係に誰かを挟むなんてしたくなかった。


「えー?ダブル不倫なの?」
「らしいよ!よくやるよね」
コソコソと話す声が音楽の隙間から聞こえて来た。
バーの常連客が噂をしている。
その頃、僕は幾分長く付き合っている女性がいた。年上で落ち着いた夫のいる女性。肩までのストレートの栗色の髪がとてもきれいな人。なのに一つも笑顔を見せなくて、笑顔になって僕に抱かれてほしくて、ずっと口説いていた。
「トニーさんには、前の若い子より、今の人が合ってるね。雰囲気いいもん」
「あー、前の子ってあのお魚顔の子だろ?」
バーのマスターが茶々を入れる。
「人の昔の女つかまえて魚とか、それ言い過ぎ!」
俺がおどけて言うとみんなで笑った。
マリアは不倫している僕を責めた事は一度もなかった。責めるほどの関係性ではないからか、彼女が様々な理解があるからなのかは分からなかったけど、多分後者だと思った。
マリアが笑っている表情が眩しい。
前の子もそういえば笑顔の無い子だったな、と思う。妻もあまり笑わない。付き合ってる時は笑顔も見せていたのに。
僕は……本当はマリアみたいに屈託なく笑う子が好きな筈なのに。


お互い、そのバーに配偶者を連れて来た事もあった。
妊活を妻が諦めた頃に、付き合っていた女性とも切れて、もう遊ぶのはいいかな、と思っていた時に、バーに連れて行ってみたのだ。
マリアはマスターからあの子トニーの奥さん、と言われ頷くと、僕にはその日話しかけて来なかった。
妻だけでなく、女連れの時も基本話しかけてくる事はなくて、それは当たり前の配慮の筈なのに、左に二席分離れたカウンターに座る彼女をひどく遠く感じた。
マリアは左隣に座った男と話している。しばらくして雰囲気でわかった。男が彼女を口説き始めている。オフショルダーの肩から首を舐めるように見ている男の視線。それをじっと見ていた僕と目が合った。
男は不可解そうな顔をしている。
"あんた、女連れだろ?俺に構うなよ"
そうだ、僕は今妻を連れて飲みに来ている。他の男女がどうだろうと、関係ない筈だ。
「……よっちゃん?」
妻が僕を呼んだ。
「あー、ごめん、あのプロジェクターの画面見てた。サッカーやってるから。一緒に見よう」
妻の腰に手を回して、マリアと男の向こうの壁に映し出された画面を見た。
マリアが席を立つ。
「マスター、ごちそうさまでした」
マリアが帰った後に、男は別の女性に話しかけていた。

"嫁ちゃん見たよ!可愛いじゃん!信じらんないね、わざわざ他に女の子作ろうと思うなんて!"
僕の妻を見た後に、メッセージが届いた。僕の妻はぽっちゃりだ。もちろんそれが好きで結婚した。マリアは子どもを産んだとは思えないスタイルだった。顔だって明らかにマリアの方が可愛いのに。女の子が言う可愛いがわからない。
"お団子ヘアがめっちゃキュートだった!大切にしなよ!"
"大切にしてるよ"
僕は平気で嘘をつく。浮気ばかりして、何年妻を騙してきただろう。
"なら良し!"
笑顔の絵文字が返ってきた。


「……へぇ、マリアの旦那、来たんだ」
二口飲んで、ビールのジョッキを置いた。バーのマスターが余計な話を振ってきた。いつだかに、マリアの夫がこのバーに少し来て帰っていったという。
「背が高くて、眼鏡かけたそこそこのイケメンだったぞ。おまけに育メンってすごいな」
そんな情報要らない。マリアはここにいる時、二人で会っている時だけの情報で充分だ。
自分が子どもを見て、妻を夜の街に行ってこいと言える器の大きな男。それだけで僕は負けた気分になっていた。
「ビールお代わり!」
マスターは今日はよく飲むな、暑いからビールも美味いよなぁ、とのんきに言った。

なのに僕は、次にマリアに会った時に、余計な事を訊いてしまった。
「マリアの旦那も来たんだろ?背の高いイケメン」
「えー?イケメンじゃないよ、普通、ふつう!」
マリアは夫の事を聞かれて恥ずかしそうにしている。そうだよな、身内の話って恥ずかしいものだ。当たり前の反応なのに、何故僕は寂しく思うのか。
「背も高いんだろ?」
「うーん、182って言ってたかな」
「仕事は?」
「えー?何でそんなこと訊くの……?公務員だけど」
身長も仕事も、きっと見た目も負けてる。僕は苦笑いするしかなかった。そんな夫がいるなら、他の男に見向きもしないのもわかる。
「おー、すげぇ。旦那ハイスペックじゃん」
自分の落胆を誤魔化すように、冷やかして言ってみせた。
僕をジッと見たマリアは、微笑みながらこう言った。
「でも、トニーさんみたいにカッコよくダンスは踊れないよ?」
「……そうなんだ」
「そう。全然」
僕は悔しいのに、嬉しくて、昔イベントでマリアがひっくり返した、甘いカシスオレンジを頼んだ。
ちょっとだけ踊れる僕は、イベントの時に少しだけ目立っていた。ダンスをする奴らとプチダンス対決をして場を盛り上げるぐらいには。
それは、何もない僕の人生の中で、ほんの少しだけ楽しくなれる時間だった。それを彼女が評価してくれているという事が、小さなことだけど、とても嬉しかった。


その一年ぐらい後、僕がバーのマスターと喧嘩する少し前、バーのイベントに一緒に行こう、とどちらからともなく約束して、二人で行った。そこには前に僕を噂していた常連もいて、すぐに二人でやってきた僕らを詮索するような視線を送ってきた。
あの頃のバーの雰囲気は、前と変わってしまっていて、誰がどうしていても受け入れ放っておいてくれる場所ではなく、誰が誰といるかを監視し詮索する場所になってしまっていた。
居心地が悪い。それでも僕はそれに慣れていたから平気だったけど、マリアはそうじゃなかった。
「気分が悪くなっちゃったから、ゴメン、早く帰るね」
今思えば、彼女はあの視線に耐えられなかっただけなのに、僕は俺を置いて帰るのかよ、と機嫌が悪くなった。マリアと音楽を一緒に楽しみたかった。それを台無しにされた気がしたのだ。
「ああそう」
「トニーさん、ほんとにゴメン」
帰ろうとするマリアを呼び止めた。
「送るから、この曲が終わるまで待って」
「いいよ、申し訳ないし」
「飲んでないから、送る。待ってろよ」
多分、待ち合わせて二人で来たのは初めてだった。偶然会うことはあっても、約束をしたのは初めてで、だから僕は今夜をとても嬉しく大切な日だと思っていた。
二人の距離がそれだけ近づいた気がして。
僕は勝手に期待をして、勝手に裏切られていた。私は帰るけど、トニーさんは楽しんで、なんて全く僕を眼中に入れてないって事じゃないか。
そう、僕はほろ酔いの彼女を車に乗せて、どこかのホテルに連れ込んで抱くつもりだった。
だって、彼女はちゃんとデートに相応しい格好で来た。口の中に入れて溶かしたくなるような甘い色のピアスまでして。

僕はぶち壊しにされた気持ちで駐車場に向かった。こんなに不機嫌な姿を見せるなんて、妻以外の女性には無いことだった。
「トニーさん、ごめんね」
後ろから申し訳なさそうについてくるヒールの音すら僕を苛立たせる。
「乗って」
彼女を車に乗せた。助手席に。女性は今まで妻しかこの車には乗せたことはなかった。
僕は今更自分の気持ちを知った。
――僕はマリアが好きだ。それも結構、本気みたいだ。はは、今更だ。

彼女は僕の住む場所とは全く違う地域に住んでいた。ターミナル駅まででいいからと固辞する彼女の言葉など今の僕が聞くわけが無い。一分一秒でも一緒にいたいのに。
「気分悪いんだろ?家の近くまで送るよ」
「いや、いいから!遠いし!」
押し問答していたけど、僕は無視してバイパスへ繋がる道に車を走らせた。
「あ、この曲……」
「最近リミックス盤が出たんだ」
「へーえ」
音楽の話をしていたら気分が落ち着いてきた。どこにいても二人でこうしていられたら、僕は……何もいらないのに。
赤信号で止まり、彼女の顔を見た。このまま、彼女をどこかに連れ込んで抱くか、いっそどこかに連れ去ってしまいたい。
けれど、それをするには、僕には諦め癖と逃げ癖がついていたし、三十代半ばという年齢は分別がつきすぎていた。
「ありがとう」
最寄り駅近くのコンビニで彼女を下ろした。
「いいんだ。この辺りまで営業来るから。小さな白い軽が停まってたら俺だよ」
「白い軽なんてたくさんあるのにわかるかな?」
マリアは笑っている。
「……探してよ」
君に少しでも俺に対して気持ちがあるなら、探して見つけてくれ。彼女の目を見つめたけれど、僕の言葉に対しての返事は無かった。当たり前だ、僕らはそれぞれに既婚者だ。
でも、僕は彼女の家の前に乗り付けて言ってやりたかった。お前の妻を送ってきたぞ、と大きな声で。けれど僕にそんな勇気も気概もある訳が無かった。
「……トニーさん、本当に今日はありがとう」
「じゃあ、また」

その後、僕はバーのマスターと喧嘩して、店に行かなくなった。喧嘩の理由は些細なもので、難癖に近いものだったかもしれない。
多分、マリアに会うのが辛くなったんだと思う。あの店に行かない理由が欲しかったのだ。
会ったら、次こそは彼女に対して制御が効かなくなる事を頭の何処かでわかっていたから。
そして、知り合い、飲み友達のままで、何の連絡も取らないまま数年が過ぎ、彼女と出会って十二年が経った。
その間に、彼女が敬愛していたアーティストが急死した。僕はマリアと出会って、好きなアーティストが亡くなったという悲しみも紛れていたけれど、彼女は一人で泣いているんだろうか、それとも、夫がその涙はしっかりと拭ってくれているんだろうか。


それから、僕は女遊びをする事が無くなった。誰を誘ったところで、その子はマリアではないからだ。それに僕には妻がいる。
「よっちゃん、私こういうとこに来るの初めて!一緒に来れて嬉しいよ」
妻と一緒に野外フェスに来た。仕事の休みも随分前に取って、準備万端だ。僕の好きなバンドが出るし、妻が最近興味を持っているミュージシャンも出る。かなり遠出になるけれど、これも思い出だ。
暑いし、人は多いし、手を繋いでいないとはぐれてしまいそうだ。僕は妻の手をしっかりと握った。
妻とは学生時代、バイト先で知り合った。押し付けられた仕事も何一つ嫌な顔せずにやっていた子。好きになるのにそう時間は掛からなかった。病床の妻の父親に、娘さんを幸せにします、と僕は約束した。
だから、それを守らないと。
「よっちゃん、ありがとね、ほんとに今日楽しい!」
妻の笑顔を久しぶりに見た気がする。良かった。僕はこの人と年を取って行くんだ。こうやって、特別なことは無くても。

ステージとステージの間を移動している時に、マリアが大好きだったアーティストの曲をトリビュートでやっているバンドがいた。
そうか、そうだよな、まだ亡くなって数年だ。
立ち止まって少し聴いていると、急に記憶が呼び覚まされた。
マリアと同じ淡い香り。
僕は周りを見回した。彼女がここに来ているんだろうか。どこにもそれらしき人はいない。この香りはグリーンティーというのだと昔教えてくれた。
「どうしたの?」
「ああ……知り合いによく似た人を見かけたから……人違いだった」
「そう、残念だったね」
背中にトリビュートソングを聴きながら、僕はそこから立ち去った。余計なことをどうして思い出すんだ。歩きながらもう一度だけ振り向いた。観客がギターソロに湧いている。もしマリアとここに来ていたら、きっとこのステージを見ていただろう、と思った。けれどそれは僕一人の感傷だ。彼女に好きだとも言っていなければ言われてもいないのだから。
その後フェスの間、僕は情けないことに、いちいちマリアを思い出していた。さっきまで妻と一緒に生きていくなんて思ってたのにこれだ。僕は何を考えてるんだろう。
「喉乾いたな。何飲む?」
「うーん、どうしよ……私ジンジャーエールにしようかな」
彼女ならきっとモヒートを飲むだろう。暑い日によく頼んでいたのを思い出す。忙しい時は人手が足りないからまたね、ミント潰すの大変だから、みたいにマスターに断られてたモヒート。
こんな出店のモヒートなんて甘ったるくて飲めないに決まっているのに、僕はモヒートを頼んだ。
思った通り甘くて、喉にべたつき、ますます喉が乾いた。
彼女を思い出す必要がどこにある?隣に妻がいるのに。会わなくなって何年経つんだ?おいおいオッサンしっかりしてくれよ。もう、十年近く会って無いんだぜ。


僕は野外フェスから戻って数日後、営業の帰りに、百貨店の香水売場にいた。
「贈り物ですか?」
「はい」
僕が買ったのは、グリーンティーというマリアが使っていた香りだった。
「ミニボトルをおまけで付けておきますね。この香り、男性でも使われる方がいるので、お気に召されたようでしたらご一緒にどうぞ」
僕の気持ちを見透かしたように店員はそう言って、小さな紙袋にミニスプレーを入れた。
「あ、どうも……」
僕は営業車に乗り込むと、ミニスプレーの方を軽くプッシュした。彼女の香りが社内に広がる。包装してもらった香水は、妻にプレゼントしようと思ったが、辞めた。妻には合わない香りだったし、それに好きだった女の香りを妻に纏わせるというのは、いくら何でも悪趣味だと気付いたから。
僕は一旦営業所に戻り、香水の入った袋を机の奥にしまった。ミニボトルは仕事用のバッグに入れた。
「なあ、この香りどう思う?」
僕は家に帰ると妻に訊かれる前に自分から尋ねてみた。
「女物の香水?」
「よく知らないんだけど、営業も身だしなみが大事だって言ってさ、同僚に試供品みたいなの渡されたんだ。俺臭いのかな」
こうやって僕は嘘を吐く。営業という仕事に就いてから、慣れてしまった。いや、仕事のせいにしちゃいけないな。僕はこういう性格なんだ。
「臭くないよ~!よっちゃん鋭い感じがする時があるから、雰囲気が柔らかくなっていいと思うよ、この香り」
「そうかな?」
「うん。男性用の香水は苦手だけど、これは大丈夫」
妻は笑顔で答えた。随分前に好きだった女が纏っていた香水をつけている僕に。



ある日、何となく思い立って古いSNSを開いてみた。今はほとんど使われていないようなSNSだ。けれど十二年前にマリアとやり取りを始めたのはこのSNSだった。
”メッセージが一件届いています”
赤い文字で通知があった。
開いてみると、マリアからだった。
”お元気ですか?”というタイトルのメッセージを慌てて開ける。
”突然ごめんなさい。お元気ですか?このメッセージを一か月以上経って見たならお返事はいりません。ある偶然から、トニーさんが好きなアーティストの曲のオルゴールが手に入りました。とても良いものなので、私よりもファンのトニーさんが持っていた方がいい気がして、お渡ししたくて連絡しています。手渡しでも、郵送でもご都合の良い方をお知らせください。要らない場合は返信不要です。”
そのメッセージは二週間前に届いていた。
一か月は経っていない。まだ間に合う。オルゴールはどっちだっていい。マリアに逢いたい。
お互いにもういい歳だ。年を取った彼女を見て幻滅すればいい。そして僕も幻滅されればいい。そしたら、僕の彼女へのグズグズと底に溜まった澱のような思いも無くなるはずだ。
僕はメッセージを打ちこんだ。
”久しぶり!手渡ししてもらえると嬉しい。いつなら時間ある?そっちの都合教えて”
送信して思う。これを彼女が見なかったら。それはそれで仕方ない。幻を捕まえようとしているのと同じだから。
その日から毎日一度はSNSをチェックした。送信してから一週間が過ぎ、諦めかけた頃に返事が来た。
”来週の平日の昼間、会えますか?”
水曜日はちょうど会議も得意先回りも何もない日だ。
”じゃあ水曜の、13時にあのバーの手前のカフェで”
”わかりました。宜しくお願いします”
あの辺りは、少なくとも僕の妻は来ない。いやそんな事はどうでもいい。僕はただオルゴールを受け取るだけだ。


水曜日は、あっという間に来た。出勤前に妻に一言言っておく。
「今日さ、取引先の接待があるかもしれないから、遅くなるかも」
「うん、わかった。じゃあ晩御飯いらない?」
「ああ。いつも俺の為に作ってるから、好きなの食べなよ」
「ありがと、よっちゃん」
どうして僕は、夜まで時間を作ったんだろう。マリアとは昼間に会うというのに。自分の下心にうんざりする。本当に僕は根っからの浮気性なんだろうな。
その日僕は午後から有給を取った。そのぐらい彼女に会えることは僕にとって重要で心躍ることだった。
馬鹿だよな、俺。カフェで話して、オルゴールもらったら、三十分で終わる話かもしれないのに。それでも記憶にある彼女の香りを吹き付け、クリーニングに出したワイシャツを着て準備をせずにいられなかった。会社の机の引き出しの奥にしまった香水を自分の車に積んだ。

そして、その時間は来た。カフェに行くと、少しふっくらしたマリアがいた。髪が伸びて、緩やかなウエーブが掛かっている。
「おっす、久しぶり」
久しぶりなんてもんじゃない。ほぼ十年振りだぞ。
「あ、トニーさん、お久しぶり」
そう言ってお互いを見つめ合った。思っていることはわかる。
”お互い年を取った”
彼女はあの頃よりふっくらしていて、僕は顔の皺が増えた。お互い十年分ずつ年を取っている。けれど、マリアはまだ女の子みたいだったあの頃よりもすごく色気があって、僕はどう接したらいいのか戸惑った。幻滅どころか、通りすがりに視線を投げたくなるくらい魅力的だ。君は確実に年を重ねているのに。
君をそうさせたのは誰なんだ。あのイケメンの旦那?それとも別の男……?
「お呼びたてしてごめんなさい」
彼女は謝ってきた。それは、僕らの年齢なら正しい口の利き方だ。だけど。
「あれ?マリア、眼鏡かけるようになったの?」
おどけて僕が言うと、
「訊かないでよ、もうそういう年齢なんだもん」
昔と変わらない様子で彼女は返事をした。
元気だったか、どうしてた?とか最近の音楽は何を聴いてるかとか、通り一遍のことを話して、マリアが箱を取り出した。
「これなの、ここでは鳴らせないけど、見てくれる?」
それは立派に磨き上げられ塗装された木の箱で作られたオルゴールだった。
「こんな立派な物もらっていいのか?」
これは明らかにそれなりの値段がするものだ。
「……いいの。これ、聴いてあげて。トニーさんが聴いてくれた方がきっと喜ぶ」
彼女がそろそろ帰ろうとする雰囲気を出し始めた。
「なあ、マリア、こんなの無料じゃもらえない。音も聴かせてほしいし、お礼させてくれよ」
僕は彼女と会って初めて、手を握った。カフェのテーブルの上に置かれている手に上から自分の手を重ねて。
「車、持ってきてるから。行こう」
このまま帰すつもりなんて更々無い。躊躇なくそうしている自分が不思議だった。
僕はそのまま彼女の手を引いて、駐車場に連れて行った。

車に乗ると、どうしてだろうか、僕とマリアはそうするのが当たり前のようにキスを交わした。今まで手も触れなかったというのに。
彼女の髪を耳に掛け、首の後ろを支えて、頬に手を添えて。
僕はこの時確信していた。僕が思っていた通りの舌と、甘い吐息。この人が本当は僕の人だったのだ。妻でも、他の人でもなく。
「トニーさん、抱いてくれる……?」
僕が聞いている言葉は、夢じゃないんだろうか。ずっと恋焦がれていた女が、僕に抱いてほしいと言っている。
僕はもう一度深くキスをして、マリアの身体の力が抜けてから言った。
「ずっとそうしたかった……」
それからのことは、今でも信じられない。
車を出して郊外のホテルに向かった。着くまでの間、少しも離さず手を握っていた。僕らは、恋人同士のように音楽の話をした。
部屋に入ると、若い時みたいに全然我慢が出来なくて、逃がさないように壁に押し付けてキスをした。
信じられない。僕はマリアを今から抱くんだ。


どうしてずっとマリアに触れなかったのか、触れることができなかったのかがわかった。僕は本能的に知っていたんだ。この人と肌を触れ合わせたら後戻りできなくなるから危険だという事を。
初めて触れるのに、肌がこんなにも馴染む。
昔から何度も抱いていたみたいに、僕は彼女を抱いた。
「ね、ずっとしてないの……だから……」
信じられないようなことをマリアは言う。
こんなに感じる身体で?こんなに敏感に僕の手に反応してるのに?
「嘘だろ、ずっとって、何週間前の話だよ」
僕が冷たく言うと、甘い声を上げながら彼女は言った。
「こども、うんでから、ずっと……」
僕は耳を疑った。
……待ってくれよ、こんなに可愛い人を、こんなに震えながら感じる人を、君の夫は放ったらかしだったっていうのか?あの頃も?あんなに可愛らしかった君を?
「嘘って言ってくれよ……」
「嘘じゃ、な……」
涙を溜めて彼女は答えた。
もうわかった、何も言うな。僕が愛してやる。
唇を塞いで、僕はマリアの中に入った。

――どうして、僕は最後に会ったあの日に、彼女を抱かなかったんだろう。
抱いていたら、自分がどうするべきかがわかったんだ。
僕はあの日に、マリアを連れて、どこかに逃げるべきだった。
連れ去ってよかったんだ、どこにも当てがなくても。

僕は女の人を抱いて初めて、子どもが欲しいと思った。
僕の腕の中で切なく声を上げる人が愛おしくて、いい年なのに気が変になりそうだった。
僕の子を君が産んでくれたらよかったのに。
僕の子を。君が――。
ああそうか……僕は子どもが嫌いなんじゃなくて、妻との間に欲しいと思わなかっただけなんだ。同じことをしてるのに、こんなにマリアに対しては、欲が湧いていしまう。
「あんまり、見ないで……きれいな身体じゃない、から……」
そう言うのは、君が子どもを産んでるから?きれいだよ、こんなに。
僕の子どもを産んでほしかった、君に。
身体を重ねながら、僕の子供が出来ればいいのに、と思うなんて初めての事だった。もう僕らはそんな年齢ではないというのに。
僕は縛りたい。マリアを。
側にずっといてほしいんだ。
どうして、君は君を抱きもしない旦那と一緒にいて、僕は君が好きなのに妻と一緒にいるんだろう。

けれど、そう思うには、もう時が流れすぎていた。
でもまだ、間に合わないだろうか。

マリアは、全く身体に力が入らない様子でベッドに横たわり、まどろみ始めた。
「トニーさん、ありがと……」
と言って、僕の頬を撫でて目を閉じる。
終わった後でも、こうして相手の側にいたいと思う自分が不思議だった。さっさとシャワーを浴びに行って、煙草を吸うのが定番だったから。
もう煙草も吸わなくなったし、今は側にいたい。彼女の髪を撫でながら、ふと思いついた。そうだ、オルゴールを聴いてみよう。
身体を起こして、紙袋から箱を取り出した。オルゴールを取り出しネジを巻く。
そっと蓋を開けると、美しい音色で、僕の好きな曲が流れだした。
この曲が好きだって、言ったことあったっけ。
僕の好きなアーティストは、活動期間が長かったから、たくさん曲がある。それに、オルゴールになる曲も限られているだろうし、その中でこの曲があって選んでくれたことが僕は嬉しくて堪らなかった。
「ありがとう、マリア」
髪を撫で、寝ている彼女の頬にキスをした。


ビクッと身体を震わせて、マリアが目覚めた。
「……何時……?」
慌てて時計を確認している。
「四時だよ」
「……帰らなきゃ」
僕に抱かれていた時とは打って変わった表情で、彼女はベッドから降りようとする。僕はその腕を掴んで引き寄せた。
「……もう少しいよう」
「ダメ、子どもが帰って来るから……受験生なの。夕食食べさないと。塾があるから」
「高校受験?」
「そう」
すごく全うで現実的な言葉を君は口にした。そうか、子どもはもう、そんな年齢なのか。思春期の子どもがいる母親。それが今の君なんだな。
「……わかった」
でももう一度だけキスさせてくれ。
僕はマリアに長いキスをした。やっぱり帰らない、と言ってくれるのを期待して。
唇を離した時、彼女はすっかり蕩けているのに、それを振り切るように笑顔を作った。
やっぱり君は帰るんだな。たった一晩も一緒にいてくれないのか。
……いや、それは、我儘な言い分だ。
今日僕はオルゴールをもらっただけなのだから。
「マリア、好きだ」
僕は、十代の制服を着た男子みたいな言い方と言葉で気持ちを伝えた。もう人生を折り返した年齢だというのに。
「……トニーさん、ありがとう」
彼女は好きだと返してくれなかった。それが礼儀だとでもいうように。


マリアをターミナル駅まで送った。この時間だと車の方が渋滞で遅れるからと。
「今日はありがとう」
駅のロータリーで車を停めると、彼女が笑顔で言った。バタバタして、メッセージIDの交換すらできていなかった。
「また、連絡するよ。あっちにメッセージ送るから。あ、あとこれ」
「ありがとう!開けていい?え?グリーンティー!わー、懐かしいなあ。覚えててくれたんだ」
昔のように明るくはしゃぐマリア。でももうその香りも、彼女にとっては懐かしい過去のものだと聞かされ、頬を叩かれたような気がした。
そうだ、僕たちの時間は最後に会った時から止まっている。それぞれの時間は確実に過ぎているのに。
降りる直前にマリアは言った。
「トニーさん、たまにオルゴールを鳴らして、私の事、思い出してね」
車のドアを閉めた彼女は、丁寧に一礼すると、駅に向かって歩いて行った。


どうあがいても、僕にはここしか帰る場所がない。
「……ただいま」
「あれ?よっちゃん今日接待だったんでしょ?」
「キャンセルになったんだ。飯は……適当に買ってきた」
「あ、巻き寿司だ~!豚汁作ったから、一緒に食べよう?」
「ああ、ちょっと先にシャワー浴びるわ」
「うん」
妻の顔を見た。僕の事を疑わずに……いや疑ったことだって何度もあっただろうけど、一緒にいてくれた人。
なのに僕はずっと好きだった女の人を抱いてきて、また次会えるかどうかで頭が一杯になっている。
”たまにオルゴールを鳴らして、私の事思い出してね”
マリアの言葉はもう次は無いと告げていたのに。
彼女のくれたオルゴールは、車に積んだままだった。

数日後、僕は車の中でオルゴールを聴きながら、マリアにメッセージを送った。
多分彼女はもうここにログインしない。読んだとしても、返事は来ないだろう。
ずっと誰にも抱かれていなかった彼女が僕に抱いて欲しいと思ってくれただけでも、僕の今までの人生からすれば、幸せ以外の何ものでもないのだから。
今まで欲しいと思ったものを手に入れたことなど無かった。
でも、僕は、こんなに好きになった人を抱くことができた。ちゃんと僕はマリアの事が好きだった。
逃げる選択しかできなかった、つまらない凡人の、つまらない人生。
こんな奇跡があったんだから、僕はいつ死んでもいいとすら思う。
もう届かないけれど。届かないからこそ思いの丈を書いてみようと決めた。

”――あの日、君を連れて逃げれば良かったと後悔するぐらいには、君の事が好きでした”

好きだ、君が、君の身体が。
好きな音楽を語る時の口元と、キラキラ光る瞳が。
話す時の少し低い声とあの時の蕩けた声。君の香りと味。
くだらない冗談に笑ってくれて、ダメな事を言ったらしっかり非難してくれた。
当たり前の事ばかりなんだ、僕が君を好きになって理由なんて。
なのにどうして君じゃないといけなかったんだろう。


僕は、いつもの日常に戻った。
”よっちゃん、今日の夕食何がいい?”
妻からのメッセージを確認する。
僕の人生は、後はおまけだ。だから役割を果たさないと。
”豚バラ食いたいなー”
了解、と陽気なひまわりのスタンプが返って来る。
仕事帰りに、妻が好きなプリンを買って帰った。
「わー!嬉しい!駅まで出ないと買えないから最近食べてなかったもんね」
妻が笑顔で受け取った。僕も笑顔で応えた。

僕はこれからの人生、誰の事も抱かないだろう。
マリアを最後の女にするために。



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