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飛び込んで来たキキョウ
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物音がして、ハッと目が覚める。今何時だ?!時計は昼の12時30分を指していた。
「あ……ごめんなさい起こしちゃって」
「ゴメン、俺すっかり寝てた…」
太陽の光が眩しくて腕で目を覆う。寝起きの掠れた声しか出ない。
「普段は俺って言うんですね」
森丘さんは肩まである少し赤い髪を揺らして、クスクスと笑った。
「ちゃんと寝れた?」
「はい。寝たら元気が出ました」
「口の具合はどう?」
「痛いけど、血は止まってるから大丈夫です」
「そっか良かった……」
僕は寝たまま、無意識に隣にいる彼女の頬に手を伸ばしてそっと親指で撫でた。腫れてそうなのに痛くないのかな。
「ねえ、敬語止めようよ。同い年ぐらいでしょ?アオイでいいよ」
森丘さんの表情が目を見開いて固まっているのを見て、自分が何をしているのかにやっと気づいた。
「あ、ゴメン。俺寝ぼけてるわ」
すぐさま手を引っ込めて、毛布にくるまった。
「……二度も助けてくれてありがとう」
「たまたま、見たってだけ。森丘さん、あのさ、」
思い切り伸びをし、身体を起こして、テーブルに置いていた冷たくなったルイボスティーを飲んだ。
「……はい」
「人の彼氏に失礼だけど、何であんな殴るような男と付き合ってるの?殴られたの、今回が初めてじゃないよね?」
寝癖でボサボサの頭を掻きながら僕は言った。いきなりそんなことを訊かれた彼女は、困ったような顔をして僕を見つめる。口紅が落ちた唇には、切れた部分が赤く目立っていた。
「……別れたいと思ってはいるんです」
「彼氏と?」
「はい……」
彼女の目からまた涙がこぼれた。
「もしかして、別れてくれないの?」
うん、と彼女は頷く。
「殴った後、優しいんでしょ?悪かった、お前だけだって」
また森丘さんはこくり、と頷いた。僕は、こういう男女を見たことがある。友達がこうした関係に嵌って大変だった。
「……それってさ、DVだって知ってる?」
ハッとした表情で彼女は僕を見た。
「本気で別れたいなら協力するけど。またよりを戻すつもりならずっと殴られるしかないね。相手は変わらないから」
森丘さんは凍り付いたような表情に変わり目の前を見つめている。
冷たいお茶は寒くなるな。僕は立ち上がってコーヒーを淹れに行った。
なんで首を突っ込むような事を言ってしまったんだろう。宗教への洗脳を解くぐらい、DVを止めさせるのも、DV男から離れるのも大変なのに。
「あー……っと、コーヒー飲めそう?カフェオレならいいかな」
「はい……好きです、カフェオレ」
「なら良かった。口の中は切れてない?」
「うん、大丈夫……」
目が泳いだままの森丘さんにカフェオレを渡して、僕はコーヒーを飲みながら少しずつ目を覚ました。
「腹減ったなぁ……」
僕は独り言を言うと、寿司屋に出前を頼むために電話番号を探した。
「お寿司食べれるよね?」
「え?お寿司?!食べれますけど何でそんな高級なものを……」
「僕が食べたいし宅配寿司だしそんなに高いもの頼まないから。もうピザは飽きたんだよね」
「わかりました。お礼にごちそうさせてください」
「あー、礼は違うのがいいな。また考えとくから」
「そうですか……」
「腹が減っては戦はできぬっていうからさ、まずは食べよう」
画面をタップして僕は寿司屋に注文の電話をした。
一日中誰かと一緒にいる事は基本的に苦痛だ。
それが気心知れた恋人であっても同僚であっても。それなのに、もう森丘さんが僕の部屋に朝来て、夕方になろうとしている。
その間にあらかたお互いの自己紹介を済ませた。
学年が同じだとか、僕の通っていた高校の近くの女子高に通ってたとか、大学は何を専攻してたとか、今何の仕事をしてるのかとか。
「あの、アオイさん、そろそろ帰ります。居心地よくて、お世話になり過ぎちゃった」
「彼氏、帰ってくるんでしょ?」
「ちゃんと話してみます」
「別れるって、話すの?」
「はい」
難しいと思うけど、応援するしかない。
「もし、また一回でも殴られたら、僕のところにおいで。暴言でもね。玄関の鍵開けとくから」
「そんなこと……」
「あるかもしれないしないかもしれないけどさ。殴られて死ぬことだってあるんだから、逃げてきて。他に友達の当てがあるならそこでもいい。とにかく逃げないと」
「でも、そこまでお世話になる訳には」
自分が危険だってわかってないのかな。
出勤中の道端で恋人の頬を引っぱたける男の暴力がエスカレートしないはずがないのに。
「約束しないと、この部屋から出さないよ。それとも、このまま一緒に住む?」
ああ、口が滑った。助けると言ったのにこれでは彼女を狙ってるだけの男だ。しまった。僕は彼女を見続けていたけど、彼女は僕をほとんど知らないのに。
「……アオイさんもDVなの?」
プッと吹き出す声が聞こえた。今日初めて森丘さんが声を出して笑った気がする。
「いいや、違う。安全確保の為だよ」
僕もつられて笑った。
「うん、ちゃんと逃げてくる」
「約束したからね」
「……ほんとにありがとう、アオイさん」
玄関がパタリと閉まる。彼女は笑顔を見せて隣の部屋へ帰って行った。
彼氏が戻ってきて、どうなるだろうか。少し心配だったが、僕にはあれ以上のことはできなかった。別れたいと言ったって、案外逃れられないものだ。元は好きで付き合ってるんだから。
仲直りするにせよ、別れるにせよ、上手くいってくれればいいけど。
僕はシャワーを浴びて、仕事に取りかかった。
寝不足のせいか集中できない。それでも何とか納期には間に合いそうだ。僕は時間を確認した。夜の23時。夕食は寿司の残りとインスタントスープで済ませた。注げばいいやつ系を備蓄しておいてよかった。あと一時間頑張ったら寝よう。
明日はクリスマスイブだ。世の中には僕の好きなチキンが溢れているだろうから、食料も無いし、買い物に出ようか……。
そんな事を考えていたら、ドタバタと音がして鍵を掛けていない玄関が開いた。ガチャリと鍵が閉まる音。一気に血の気が引いて、僕は玄関へ走った。
「森丘さん……⁈」
「ごめんなさい、アオイさん、助けて……!」
彼女は靴下のまま玄関にしゃがみ込んでいた。やっぱり彼氏に殴られでもしたのか。すぐに鍵のロックを確認し、ドアチェーンを掛ける。
「早く、奥に入って」
僕は震える彼女を立たせ、リビングへ連れて行った。
「ここにいたら大丈夫だから」
昼間彼女がいたソファに座らせ、午前中寝ていた時に使って置きっぱなしになっていた毛布でくるんだ。その瞬間、玄関ドアを激しく叩く音が聞こえた。
「おい!いるんだろう?出て来い!」
廊下で叫ぶ声がリビングまで届く。
森丘さんが目を見開いてガタガタ震えている。マジであの男、話にならない。
ピンポン、ピンポン、と男がインターホンの呼び鈴を連打する。
「俺の女だ!何やってんだよ!!返せよ!」
頭に血が上るどころか、僕の頭は冷え切っていて、スマホを持った。
「森丘さん、悪いけど僕は夜中に迷惑を掛けられているので、警察に電話するよ」
「え…?」
「君も怖いんでしょ?」
「ま、待って…」
「何で……?君は殴られたんだよ?」
僕を止める理由がわからない。しばらく森丘さんを見ていたが、瞳孔が開いたその表情は、冷静な判断ができる状態では無いと理解できた。
まだ男は扉を連打している。止んだと思ったら、うちではない扉を連打する音が聞こえる。301号室まで被害に遭っているようだ。
「隣に行ったね……」
しばらく様子を見てみよう。彼女の様子が落ち着いてからでもいいかもしれない。すぐに警察に電話をすることを僕は止めた。
他の同じ階の人から警察に連絡が行ったのか、しばらくするとパトカーの赤いランプの光が窓に映った。程なく警察が来て、男を連れて行ったようだった。
「多分警察に連行されたから、もう心配ないよ」
奥歯が鳴る音がする。森丘さんは毛布にくるまり体操座りをしてガタガタと震え続けている。
僕は震える彼女を横から支え、背中をさすり続けた。目元まで打ち身を作るような暴力を受けた彼女に、してあげられることは少ない。
「僕の事も怖かったら言って。我慢しないで」
恐怖のあまりに返事もできない彼女は泣きながら、黙って僕の腕を両手で掴んだ。
時計を見ると、もう午前0時をとうに過ぎている。
少しずつ落ち着いてきた様子だったので、僕は静かに口を開いた。
「喉乾いたろう?何か作るよ」
僕は立ち上がってキッチンに向かおうとしたが、ネルシャツの裾を掴んで引き留められた。
「い、行かないで……」
泣き腫らした目をして、小さく森丘さんは呟いた。
「側に誰かいた方がいい感じ?」
うん、と首肯する。大丈夫だろうか、やはりすごく精神的に弱っている感じがする。
こういう時に誰かに頼りたいのはわかるけれど、本当にその役割に適っているのは僕ではないと思う。彼女の近親者に連絡をしないと。
「キッチン、目の前にあるでしょ?僕の姿は見えるから、大丈夫だよ。すぐ作ってくるから」
キッチンを指さして確認させた。
シャツの裾を握ったままの森丘さんの手を取り、体操座りのままの膝に戻し、一度その手を柔らかく押さえた後、僕はキッチンに向かった。
「甘いのでいいかな?ミルクティー飲める?」
「はい……」
ミルクパンを火にかけながら、僕はまず今晩彼女をどうするのかを考えた。一番いいのは親兄弟に迎えに来てもらう。もし無理なら警察からシェルターかな。最悪今夜はここで寝てもらってもいいけども。
飲みながら話そう。そう思いながら僕は蜂蜜をたっぷりマグカップに入れた。
「はい、どうぞ」
ミルクティーの入ったマグカップを森丘さんに渡した。
「あ、ありがとう……」
黄色いマグを両手で抱えて、彼女はふうふうと息を吹きかけて一口啜った。何となく黄色が似合う気がしてこの色のマグを選んだけど、やっぱり合ってるな。などと余計な事を彼女を見てぼんやりと思う。
「甘くて、美味しい」
「それなら良かった。あったまるよ」
僕も一口飲んだ後に、本題に入った。
「飲みながら聞いて。部屋に帰るにも不安だろうし、今からでも親兄弟に電話をして迎えに来てもらった方がいいと思うんだ。友達でもいいけど」
「私、親はもう亡くなってて……一人っ子なんです」
眉を下げて、申し訳なさそうに森丘さんは微笑みながら言った。
「じゃあ、友達は?」
「一番の親友に、彼とのこと反対されてて……」
立ち入ったことはきくまい。友達が反対するような付き合いなんて、大方不倫とかそういう仲なんだろうから。その上殴る男か。僕の中に少しだけ、くさくさしたような、ザラザラしたような気持ちが湧いた。
「……そうなんだ。誰かがいた方がいいんだよね?」
「今一人は自信が無いかも……」
「じゃあ、二つ選択肢がある。一つ目は今から警察に行って事情を話してシェルターに逃げる。二つ目は……」
少し言うのを躊躇したが、選ぶのは彼女だ。
「二つ目は、取り敢えず落ち着くまでここにいること。隣から必要なもの持ってくればどうにかなるし」
僕は罠を仕掛けた。
一晩なら居てもいいよ、ではなく、落ち着くまで居てもいい、と言ったのだ。
そんな男より俺の方がマシだと言いたかったのかもしれない。三年もつきあった彼女にあっさりとフラれるような男だけど、少なくとも僕は付き合った女の子に暴力を振るったりはしない。
でも、心のどこかでは警察とシェルターを選んでくれ、と思う自分もいた。もし滞在が長引いた場合に、自分の理性がどこまで保てるのか自信が無い。
彼女に罪はないけれど、自分の好みのタイプの女性から頼られて、一緒に居て平気でいられる男がいるなら僕は今すぐに教えを請いたいと思う。
「あ、でも、僕は男だからね。それは考えて判断してほしい」
僕はそう言って、少し性的なニュアンスを含んだ目で彼女を見た。僕は君をそういう目で見る可能性がありますよ、という意味を込めて。これは僕なりに二番目の選択肢を狭めるための方策だった。
「あ……」
森丘さんの、涙でまだ潤んだ瞳が大きく揺れた。
バルコニーから見た彼女の男の姿を思い出した。おそらく彼よりも僕の方が縦も横も身体が大きい。ガタイがいいな、と言われる部類だ。単純に考えて、暴力を受けたばかりの女性が一緒に居たいと思うタイプの外見はしていない。
ショックだろうけど、僕は聖人君子じゃないから。
彼女はここにはいない方がいい。今夜以外は。
僕は冷めないうちにミルクティーを飲んだ。甘い蜂蜜の味が喉にへばりつく。いつもはしつこく感じないのに、今日はベタベタした甘さだと思った。
黄色のマグを持ったまま、彼女は考え込んでいた。どのぐらい時間が経っただろうか。五分、十分?
もっと掛かったかもしれない。
「……アオイさんの所に、いたいです」
森丘さんは僕の方を向いて目を合わせてそう言った。
ああ……。
自分が仕掛けた罠なのに、僕は大きな溜息をついた。
君は馬鹿だ。冷静に考えたらひどい判断ミスだ。よく知らない隣に住んでるだけの男の所に転がり込むなんて。そして僕は大馬鹿だ。どうしてこんな面倒臭い問題を抱えた人を家に置こうだなんて思うんだ。
「……いいよ。じゃあ荷物持ってこないとな」
僕はそう言って笑顔を作り、彼女の肩に手を乗せた。
「あ……ごめんなさい起こしちゃって」
「ゴメン、俺すっかり寝てた…」
太陽の光が眩しくて腕で目を覆う。寝起きの掠れた声しか出ない。
「普段は俺って言うんですね」
森丘さんは肩まである少し赤い髪を揺らして、クスクスと笑った。
「ちゃんと寝れた?」
「はい。寝たら元気が出ました」
「口の具合はどう?」
「痛いけど、血は止まってるから大丈夫です」
「そっか良かった……」
僕は寝たまま、無意識に隣にいる彼女の頬に手を伸ばしてそっと親指で撫でた。腫れてそうなのに痛くないのかな。
「ねえ、敬語止めようよ。同い年ぐらいでしょ?アオイでいいよ」
森丘さんの表情が目を見開いて固まっているのを見て、自分が何をしているのかにやっと気づいた。
「あ、ゴメン。俺寝ぼけてるわ」
すぐさま手を引っ込めて、毛布にくるまった。
「……二度も助けてくれてありがとう」
「たまたま、見たってだけ。森丘さん、あのさ、」
思い切り伸びをし、身体を起こして、テーブルに置いていた冷たくなったルイボスティーを飲んだ。
「……はい」
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寝癖でボサボサの頭を掻きながら僕は言った。いきなりそんなことを訊かれた彼女は、困ったような顔をして僕を見つめる。口紅が落ちた唇には、切れた部分が赤く目立っていた。
「……別れたいと思ってはいるんです」
「彼氏と?」
「はい……」
彼女の目からまた涙がこぼれた。
「もしかして、別れてくれないの?」
うん、と彼女は頷く。
「殴った後、優しいんでしょ?悪かった、お前だけだって」
また森丘さんはこくり、と頷いた。僕は、こういう男女を見たことがある。友達がこうした関係に嵌って大変だった。
「……それってさ、DVだって知ってる?」
ハッとした表情で彼女は僕を見た。
「本気で別れたいなら協力するけど。またよりを戻すつもりならずっと殴られるしかないね。相手は変わらないから」
森丘さんは凍り付いたような表情に変わり目の前を見つめている。
冷たいお茶は寒くなるな。僕は立ち上がってコーヒーを淹れに行った。
なんで首を突っ込むような事を言ってしまったんだろう。宗教への洗脳を解くぐらい、DVを止めさせるのも、DV男から離れるのも大変なのに。
「あー……っと、コーヒー飲めそう?カフェオレならいいかな」
「はい……好きです、カフェオレ」
「なら良かった。口の中は切れてない?」
「うん、大丈夫……」
目が泳いだままの森丘さんにカフェオレを渡して、僕はコーヒーを飲みながら少しずつ目を覚ました。
「腹減ったなぁ……」
僕は独り言を言うと、寿司屋に出前を頼むために電話番号を探した。
「お寿司食べれるよね?」
「え?お寿司?!食べれますけど何でそんな高級なものを……」
「僕が食べたいし宅配寿司だしそんなに高いもの頼まないから。もうピザは飽きたんだよね」
「わかりました。お礼にごちそうさせてください」
「あー、礼は違うのがいいな。また考えとくから」
「そうですか……」
「腹が減っては戦はできぬっていうからさ、まずは食べよう」
画面をタップして僕は寿司屋に注文の電話をした。
一日中誰かと一緒にいる事は基本的に苦痛だ。
それが気心知れた恋人であっても同僚であっても。それなのに、もう森丘さんが僕の部屋に朝来て、夕方になろうとしている。
その間にあらかたお互いの自己紹介を済ませた。
学年が同じだとか、僕の通っていた高校の近くの女子高に通ってたとか、大学は何を専攻してたとか、今何の仕事をしてるのかとか。
「あの、アオイさん、そろそろ帰ります。居心地よくて、お世話になり過ぎちゃった」
「彼氏、帰ってくるんでしょ?」
「ちゃんと話してみます」
「別れるって、話すの?」
「はい」
難しいと思うけど、応援するしかない。
「もし、また一回でも殴られたら、僕のところにおいで。暴言でもね。玄関の鍵開けとくから」
「そんなこと……」
「あるかもしれないしないかもしれないけどさ。殴られて死ぬことだってあるんだから、逃げてきて。他に友達の当てがあるならそこでもいい。とにかく逃げないと」
「でも、そこまでお世話になる訳には」
自分が危険だってわかってないのかな。
出勤中の道端で恋人の頬を引っぱたける男の暴力がエスカレートしないはずがないのに。
「約束しないと、この部屋から出さないよ。それとも、このまま一緒に住む?」
ああ、口が滑った。助けると言ったのにこれでは彼女を狙ってるだけの男だ。しまった。僕は彼女を見続けていたけど、彼女は僕をほとんど知らないのに。
「……アオイさんもDVなの?」
プッと吹き出す声が聞こえた。今日初めて森丘さんが声を出して笑った気がする。
「いいや、違う。安全確保の為だよ」
僕もつられて笑った。
「うん、ちゃんと逃げてくる」
「約束したからね」
「……ほんとにありがとう、アオイさん」
玄関がパタリと閉まる。彼女は笑顔を見せて隣の部屋へ帰って行った。
彼氏が戻ってきて、どうなるだろうか。少し心配だったが、僕にはあれ以上のことはできなかった。別れたいと言ったって、案外逃れられないものだ。元は好きで付き合ってるんだから。
仲直りするにせよ、別れるにせよ、上手くいってくれればいいけど。
僕はシャワーを浴びて、仕事に取りかかった。
寝不足のせいか集中できない。それでも何とか納期には間に合いそうだ。僕は時間を確認した。夜の23時。夕食は寿司の残りとインスタントスープで済ませた。注げばいいやつ系を備蓄しておいてよかった。あと一時間頑張ったら寝よう。
明日はクリスマスイブだ。世の中には僕の好きなチキンが溢れているだろうから、食料も無いし、買い物に出ようか……。
そんな事を考えていたら、ドタバタと音がして鍵を掛けていない玄関が開いた。ガチャリと鍵が閉まる音。一気に血の気が引いて、僕は玄関へ走った。
「森丘さん……⁈」
「ごめんなさい、アオイさん、助けて……!」
彼女は靴下のまま玄関にしゃがみ込んでいた。やっぱり彼氏に殴られでもしたのか。すぐに鍵のロックを確認し、ドアチェーンを掛ける。
「早く、奥に入って」
僕は震える彼女を立たせ、リビングへ連れて行った。
「ここにいたら大丈夫だから」
昼間彼女がいたソファに座らせ、午前中寝ていた時に使って置きっぱなしになっていた毛布でくるんだ。その瞬間、玄関ドアを激しく叩く音が聞こえた。
「おい!いるんだろう?出て来い!」
廊下で叫ぶ声がリビングまで届く。
森丘さんが目を見開いてガタガタ震えている。マジであの男、話にならない。
ピンポン、ピンポン、と男がインターホンの呼び鈴を連打する。
「俺の女だ!何やってんだよ!!返せよ!」
頭に血が上るどころか、僕の頭は冷え切っていて、スマホを持った。
「森丘さん、悪いけど僕は夜中に迷惑を掛けられているので、警察に電話するよ」
「え…?」
「君も怖いんでしょ?」
「ま、待って…」
「何で……?君は殴られたんだよ?」
僕を止める理由がわからない。しばらく森丘さんを見ていたが、瞳孔が開いたその表情は、冷静な判断ができる状態では無いと理解できた。
まだ男は扉を連打している。止んだと思ったら、うちではない扉を連打する音が聞こえる。301号室まで被害に遭っているようだ。
「隣に行ったね……」
しばらく様子を見てみよう。彼女の様子が落ち着いてからでもいいかもしれない。すぐに警察に電話をすることを僕は止めた。
他の同じ階の人から警察に連絡が行ったのか、しばらくするとパトカーの赤いランプの光が窓に映った。程なく警察が来て、男を連れて行ったようだった。
「多分警察に連行されたから、もう心配ないよ」
奥歯が鳴る音がする。森丘さんは毛布にくるまり体操座りをしてガタガタと震え続けている。
僕は震える彼女を横から支え、背中をさすり続けた。目元まで打ち身を作るような暴力を受けた彼女に、してあげられることは少ない。
「僕の事も怖かったら言って。我慢しないで」
恐怖のあまりに返事もできない彼女は泣きながら、黙って僕の腕を両手で掴んだ。
時計を見ると、もう午前0時をとうに過ぎている。
少しずつ落ち着いてきた様子だったので、僕は静かに口を開いた。
「喉乾いたろう?何か作るよ」
僕は立ち上がってキッチンに向かおうとしたが、ネルシャツの裾を掴んで引き留められた。
「い、行かないで……」
泣き腫らした目をして、小さく森丘さんは呟いた。
「側に誰かいた方がいい感じ?」
うん、と首肯する。大丈夫だろうか、やはりすごく精神的に弱っている感じがする。
こういう時に誰かに頼りたいのはわかるけれど、本当にその役割に適っているのは僕ではないと思う。彼女の近親者に連絡をしないと。
「キッチン、目の前にあるでしょ?僕の姿は見えるから、大丈夫だよ。すぐ作ってくるから」
キッチンを指さして確認させた。
シャツの裾を握ったままの森丘さんの手を取り、体操座りのままの膝に戻し、一度その手を柔らかく押さえた後、僕はキッチンに向かった。
「甘いのでいいかな?ミルクティー飲める?」
「はい……」
ミルクパンを火にかけながら、僕はまず今晩彼女をどうするのかを考えた。一番いいのは親兄弟に迎えに来てもらう。もし無理なら警察からシェルターかな。最悪今夜はここで寝てもらってもいいけども。
飲みながら話そう。そう思いながら僕は蜂蜜をたっぷりマグカップに入れた。
「はい、どうぞ」
ミルクティーの入ったマグカップを森丘さんに渡した。
「あ、ありがとう……」
黄色いマグを両手で抱えて、彼女はふうふうと息を吹きかけて一口啜った。何となく黄色が似合う気がしてこの色のマグを選んだけど、やっぱり合ってるな。などと余計な事を彼女を見てぼんやりと思う。
「甘くて、美味しい」
「それなら良かった。あったまるよ」
僕も一口飲んだ後に、本題に入った。
「飲みながら聞いて。部屋に帰るにも不安だろうし、今からでも親兄弟に電話をして迎えに来てもらった方がいいと思うんだ。友達でもいいけど」
「私、親はもう亡くなってて……一人っ子なんです」
眉を下げて、申し訳なさそうに森丘さんは微笑みながら言った。
「じゃあ、友達は?」
「一番の親友に、彼とのこと反対されてて……」
立ち入ったことはきくまい。友達が反対するような付き合いなんて、大方不倫とかそういう仲なんだろうから。その上殴る男か。僕の中に少しだけ、くさくさしたような、ザラザラしたような気持ちが湧いた。
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「今一人は自信が無いかも……」
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少し言うのを躊躇したが、選ぶのは彼女だ。
「二つ目は、取り敢えず落ち着くまでここにいること。隣から必要なもの持ってくればどうにかなるし」
僕は罠を仕掛けた。
一晩なら居てもいいよ、ではなく、落ち着くまで居てもいい、と言ったのだ。
そんな男より俺の方がマシだと言いたかったのかもしれない。三年もつきあった彼女にあっさりとフラれるような男だけど、少なくとも僕は付き合った女の子に暴力を振るったりはしない。
でも、心のどこかでは警察とシェルターを選んでくれ、と思う自分もいた。もし滞在が長引いた場合に、自分の理性がどこまで保てるのか自信が無い。
彼女に罪はないけれど、自分の好みのタイプの女性から頼られて、一緒に居て平気でいられる男がいるなら僕は今すぐに教えを請いたいと思う。
「あ、でも、僕は男だからね。それは考えて判断してほしい」
僕はそう言って、少し性的なニュアンスを含んだ目で彼女を見た。僕は君をそういう目で見る可能性がありますよ、という意味を込めて。これは僕なりに二番目の選択肢を狭めるための方策だった。
「あ……」
森丘さんの、涙でまだ潤んだ瞳が大きく揺れた。
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ショックだろうけど、僕は聖人君子じゃないから。
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黄色のマグを持ったまま、彼女は考え込んでいた。どのぐらい時間が経っただろうか。五分、十分?
もっと掛かったかもしれない。
「……アオイさんの所に、いたいです」
森丘さんは僕の方を向いて目を合わせてそう言った。
ああ……。
自分が仕掛けた罠なのに、僕は大きな溜息をついた。
君は馬鹿だ。冷静に考えたらひどい判断ミスだ。よく知らない隣に住んでるだけの男の所に転がり込むなんて。そして僕は大馬鹿だ。どうしてこんな面倒臭い問題を抱えた人を家に置こうだなんて思うんだ。
「……いいよ。じゃあ荷物持ってこないとな」
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