精神病棟のある日

白衣の天使

白衣の天使？そうですね、そう聞かれると真っ先に思い浮かぶ人が居ますよ。

あれはずいぶん前の入院先ですね。そもそも、精神科病棟で患者の悩み事って何か分かります？盗難ですよ。え？物騒なことを聞いた？安心してください。閉鎖病棟はそれら対策のため、原則として貴重品持ち込み禁止、貴金属が盗まれるという物騒な事件は起こりません。でもね、入院した際に、看護師さんから持ち物に全て名前を書くように厳重注意されるんですよ。お気に入りの本やCDなんかが無くなったときのトラブルなんでしょうね。盗癖が多いのかって？何なんでしょうね、深く考えずに欲しければ持って行ってしまう人がたまに居るんですよ。しかも、閉鎖は鍵の管理が出来ない人が居るから、鍵を渡されません。なので、個人の持ち物ロッカーに保管しても無駄です。開放病棟ではさすがにそれは滅多に聞かないけど、閉鎖ならではの名物なんですかね。こちらはもう、腹をくくるしかありません。

患者達の盗難トラブルのひとつに、お菓子があります。は？いい年をした人間がお菓子のやり取りで目くじら立てるのかって？馬鹿にしてはいけません。精神病棟に入院する者、特に、自由に外に出られない者にとって、おやつほど心の支えになるものは無いんです。なので、自分のストックのお菓子が無くなった人間が、他の人のを取るなんて事もあるんです。おやつは名前を確かめる前に胃袋に収められて証拠隠滅できます。盗難されたら厄介極まりないんです。前置きが長くなりました。これから話すことが、白衣の天使にまつわることです。

ある困った患者がいました。Aとしましょう。Aはトラブルメーカーで、他人の部屋に土足で入り、平気でお菓子を盗んでいく。あるとき、私たちの大部屋にAが入り込んで、ある人のロッカーを漁っていました。現場を押さえた私と同室のBさんはそろってAをなじりました。その時、看護師のCさんがこう言ったんです。
「怒る気持ちは分かるけど、せっかく療養して精神落ち着いてきているのに、こんなことで調子を崩して入院延期になったら馬鹿らしいでしょ。Aさんには私から言っておくから。」
そして、Aの両腕を捉えて、しっかりと正面から向き直り、目を見て諭しました。
「あなたも自分の部屋に土足で入られて、自分のロッカーを勝手に漁られたら嫌でしょ？みんな、それで怒っているんだよ？」
その後、Aはしぶしぶ私たちに謝りました。しかし、Aの問題行動は治ること無く、それからも繰り返しました。問題発覚の度に、他の看護師さんにも苦情を言うのですが、「しょうが無い人だね」と苦笑して済み。何の手立ても打ってくれません。言っても分からない人は放っておけ、そう言うことでしょうか。Aにちゃんと話をしたのは、Cさんだけでした。

正直言うと、看護師のCさんは優しいマリア様のようなイメージとは違う、どちらかというときつい物言いをする人です。でも、今でも思うんですよ。Cさんはその時のまんまでいて欲しいって。たとえ、無駄に見える行動だと思っても、患者と話をする姿勢を喪わないで欲しいって。白衣の天使、って聞かれたとき、Cさんが真っ先に思い浮かぶのは、そんな気持ちからだと思います。