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ぐにゃり --- 逆行前
しおりを挟むカツカツカツ・・・
朝と夕の決まった時間に響く足音。
時の感覚のない部屋で高い位置にある小窓を見上げれば、外は薄暗くなっている。
では、今から運ばれてくるのは夕食だ。
ナタリアが数え間違えていなければ、六日目の夕方。
明日が、ナタリアの処刑日になる。
烈火の如く怒っていたレンブラントだったが、意外にも苛烈な拷問などを科すことはなかった。
ナタリアに犯行に関する記憶がないため、事情聴取も意味がないと早々に打ち切られた。
数日前になぜか少量の血液は取られたが。
ナタリアは今、ただ静かに六日後の処刑日が来るのを待つだけの身となった。
大好きなベアトリーチェを他でもない自分が殺したという事実を、ナタリアは未だどこか現実味のない話として捉えるしか出来ない。
今、この世界のどこにもベアトリーチェがいない。前々から聞いていてある意味覚悟していた病気によるものではなく、また事故でもなく、紛れもなく自分が刺し殺したという。その事実を、事実として受け止めるには、自分の心は弱すぎて。
気がつけば涙ばかりが溢れてくる。
「・・・ふっ・・・うう・・・」
本当は、処刑日を待たずに死んでしまいたかった。
けれど、ナタリアを殺したいと思っているのはベアトリーチェの家族だ。その権利を奪っていい筈がない。
せめて、自分は処刑日まで生きて、ベアトリーチェの家族によって刑を執行され、復讐されなくてはならない。
「・・・っ、うっ・・・」
考えても、考えても、分からない。
今でもろくに思い出せない。
なぜ自分はそんなことをしたのか。
特効薬を持っていった筈が、どうして殺人などという恐ろしい行動に走ったのか。
トリーチェは。
トリーチェは、自分に刺された時、何を思っただろうか。
酷い、とか、こんな人だったなんて、とか。
友だちだと思っていたのに、それとも、あなたなんか大嫌い・・・?
いや、きっともっと絶望してたに違いない。
きっと、自分のことを恨みながら ーーー
「・・・っ!」
ふと顔を上げ、視界に入ったのは人影。
鉄格子の向こう側に、食事を乗せたトレイを手にした男性が立っていた。
いつの間にここに来ていたのだろう。遠くで足音が聞こえたところまでは覚えていたけれど。
その人は、いつもトレイを運んでくる少年とは違っていた。
真っ直ぐな銀色の髪を後ろで一つに結んだ細身の男性。その藍色の瞳は、真っ直ぐにナタリアを見つめている。
ナタリアが彼に気づいたことに、あちらもまた気づいたのだろう。ゆっくりとトレイの出し入れ口に近づくと、扉を開けてトレイを中へと押し込んだ。
ナタリアを見る目に憎悪はないが、ひどく悲しげで瞳に生気はない。
頬はげっそりと痩せ、顔色も青白かった。
「・・・お食事を持って来て下さったんですね。ありがとうございます」
ナタリアはいつもの様に、そう、少年がトレイを運んできた時と同じ様に、頭を下げ礼を述べた。
すると、男性はそれが意外だったのか、驚いたように目を瞠る。
トレイを手に取り出し、床に置いたナタリアを、その男はじっと見つめる。
敵意はないものの強い視線に、ナタリアは居心地の悪さを感じた。
服装からして騎士ではない。文官に見えるが、やはり服装が文官のそれとは違う。医師のようだが、そんな職の人がここに来る意味が分からない。
ナタリアは心は弱っているが、体は健康だし、なにより明日には処刑される身。
医師など、ここには最も不要な人物だろう。
「・・・」
不安を覚えながらも、勇気を出してその男の方へと視線を向ける。
とにかく、今の自分は、誰に何を責められてもおかしくない事をしでかしたのだ。
「・・・君の弟が、一目でいいから会いたいと言って今日も来ている」
「・・・っ」
告げられた言葉に、ナタリアの胸がつきりと痛む。
オルセンの家の者で、ここに来たのはフリッツだけ。だがナタリアは面会を拒否していた。
会わせる顔がないというのも本当だが、何より会って何を言えばいいか分からなかった。
自分が何をしたか聞いてはいても、覚えてはいない。
家族にとんでもない迷惑をかけたということは分かっている。だが、今のナタリアにはストライダム侯爵家の人たちに死んで詫びる以外のことは思いつかなかった。
何より・・・自分はフリッツに慰めの言葉をかけられる人間ではない。オルセン家を破滅に追いやった張本人なのだから。
今年で十三歳になるフリッツは、賢い子どもだった。きっと父親から爵位を継いだ後はオルセン家を盛り立ててくれただろう。
なのに。
なおも視線を外さない男に、ナタリアは言った。
「・・・会って、あの子にしてやれることもありません。会わない方が良いのです」
「・・・」
今の自分に出来ることは死ぬこと。足掻かず、進んで首を差し出し、復讐の権利を持つ人たちに、その当然の権利を行使してもらうこと。それだけだから。
「・・・僕は、薬学を学んでいてね」
突然、なんの前置きもなく話題が変わる。
驚いたナタリアが顔を上げると、男は辛そうに唇を噛み締めていた。
「アーティの・・・ベアトリーチェの病に効く薬の開発チームに参加していた」
「・・・っ」
「七年かけて漸く満足のいく薬が完成して、勇んでライナルファ家へと向かった。そこであの現場に遭遇した」
ナタリアの体が、カタカタと震える。
薬は到着していた。ベアトリーチェの元に届いていたのだ。なのに、自分がナイフを持ってそこに飛び込んで ーーー
「・・・薬を飲めるような状態じゃなかったから、結局、僕はなんの役にも立たなかったんだけど・・・いや、違う。僕の無能さは今はどうでもいいんだ。話したいのはそこじゃなくて」
男はナタリアを真っ直ぐに見つめた。
「犯行当時の君と、今の君の乖離が激しすぎる。まるで別人のようだという報告が上がっていてね。それで血液を取って調べたんだけど」
「・・・」
「・・・思考能力を低下させ、一時的な興奮状態に陥らせる効果のある薬が検出された。服用した状態で刷り込まれた言葉を鵜呑みにする、もしくは過大に捉えてしまう・・・心当たりはある?」
「いえ・・・」
「誰かに飲まされたのでは? あそこに行く前に誰かと会った? 君と一緒に来た男がいただろう、あの男に何か飲まされた記憶は?」
「・・・アレハンドロとは、カフェで会って、そこで確か・・・冷たい飲み物を・・・」
そこまで言って、ナタリアはアレハンドロが自分にした事を察した。
「・・・なるほどね」
小さく、ぽつりと、男は呟く。
「恐らく君は、薬入りの飲み物を口にして、その後それを用意していた男に何かを吹き込まれた」
「・・・そんな・・・」
薬。
薬を飲ませた。
アレハンドロが私に。
アレハンドロが、私を ーーー
そう思った時。
異変が起こる。
「・・・っ!」
「な・・・っ!」
ぐにゃり、ぐにゃり、と全てが曲がる。
鉄格子も、灰色の壁も、シミのついた天井も。
色のない透明な空気も、薬学者だという男が立っていた空間さえ、ぐにゃりと捻じ曲がっていく。
曲がって。捻れて。畳み込まれ、折り込まれて。
それから。
辺りを覆い尽くすのは一閃の光。
眩しさに目を瞑れば。
全てが巻き戻る。
ーーー 七年前へと。
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