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嘔吐

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宵闇の中、所々に灯された明かりだけが、ぼんやりと辺りを照らす。

今夜は珍しく、ヴァルハリラの怒声が城内に響き渡ることはなく、侍女や侍従たちは安堵の息を吐いていた。


房事の後、夜着に上着を羽織っただけで自室に戻ったカルセイランは、そのまま力なく壁際へと進む。

慣れた手つきで壁の一部を押し込めば、隠し扉が開いた。


夜着のまま隠し通路へと、その姿は消えていく。


それから十分程は経っただろうか、執務棟にある王太子の執務室の隠し扉が音もなく開いた。


沈痛な面持ちの男二人、アルパクシャドとアウンゼンが、扉の向こうから現れた、夜着を纏ったままのカルセイランを出迎える。


「・・・お疲れでしょう」


アルパクシャドが労わりながら手を差し出した。

その手を取りながらカルセイランは軽く頷きを返し、部屋の中へと足を踏み入れた。


「首尾は・・・」


首尾はどうでしたか、と聞こうとしたアウンゼンの言葉は、そこでぷつりと途切れる。

室内に入ってきたばかりのカルセイランが、その場に膝をついて嘔吐きはじめたのだ。


「ジ、ジークヴァイン殿ッ! 大丈夫ですかっ」


咳込み、うっすらと涙を浮かべながらも口元を抑え必死で耐えるのは、たった今ジークヴァインと呼ばれたカルセイラン 。


首を左右に振り、フラつきながら洗面所へと向かって行く。


そして数分ほどで戻って来ると、心配そうな眼差しを送る二人に弱々しく微笑んだ。


「情けない所をお見せした。もう大丈夫です」
「ジークヴァイン殿・・・」
「首尾は上々。我ながら、よくぞ己自身を奮い立たせられたものだと感心しましたよ」


はは、と自嘲気味に笑い、自らの主君の姿が見えないことに気づき、二人に向かって「殿下は?」と問いかけた。


「まだ眠っておいでです」
「そうですか・・・眠っておられる間に事が済んだのであればその方が良いのでしょうな。恐らくあの方は、この事でご自分を責められるでしょうから」

この部屋に置いておいた着替えを手にしながらそう言うと、アウンゼンは思い出したようにはっと手を上げた。


「すみません、解除をしておかなければいけませんね」


アウンゼンが小声で詠唱すると、瞬く間にカルセイランの姿はジークヴァインへと変わっていく。


やっと己本来の姿に戻ったジークヴァインは、手や足を眺めてそれを確認してから、ふうと大きく息を吐いた。


「辛い役回りをさせてしまい、申し訳ない」


沈痛な面持ちでアルパクシャドたちからそう告げられ、ジークヴァインは慌てて頭を振る。


「何を仰る。私が志願したことです。こんな役目、他国からの助っ人である貴方がたに頼むわけにはいきませんよ」



他の人物が術を使ってカルセイランに変容してヴァルハリラを抱き、その精を放つ。

それが、ほんの数日前、時間稼ぎのためにジークヴァインが考え出した策だったのだが、カルセイランがこれを拒否していた。

自分に扮する人物の負担が大きいというのが理由だ。

忌避する女を抱くという任務に加え、万が一にも変容の術がバレる恐れもある。

そうなれば真っ先にヴァルハリラの餌食になるのは、その人物になるからだ。

当然、その危険も考え、術が使えるアルパクシャドやアウンゼンがその役を引き受けると言ったのだが、それを頑なに拒んだのがジークヴァインだった。


ガゼルハイノン国の臣下であり、ユリアティエルの父親でもある自分がこの役目を果たすと言って譲らなかった。


自分は妻を6年前に亡くした身でもあり、この先も後添えを得るつもりがない、と言って独身者の二人にこの役目を負わせることを良しとしなかった。

それでも精神的な重圧は相当なものだった事がその様子から伺われ、アルパクシャドたちは、それ以上にかける言葉が見つからない。


吐き気も治まり、ようやく顔色が戻ってきた頃、ジークヴァインは噛み締めるかのようにこんな言葉を口にした。


「まあ、不愉快なのはお互い様ということでしょうな。ヴァルハリラにしてみたら、ようやく殿下と初夜を迎えたと大喜びしている所でしょうから。それが実は、以前に自らの手で独房にぶち込んだ筈の中年男が、夫を騙って床に忍び込んでいたとあっては」


バレた時の怒りは相当なものでしょう、という口元は、それでも不敵に歪んでいた。


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