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「兄上・・・? 兄上なのですか?」

就寝の支度を整え、ひとり寝室へと入った後、窓も扉もない壁から、灯を片手に突然表れた人影。

それに一瞬怯えた第二王子アーサフィルドだったが、やがてその影が尊敬する兄カルセイランである事に気づき、驚愕の声を漏らした。

「こんな時間には済まない、アーサー」
「・・・え? これは一体・・・? こんな所に出入り出来る場所が・・・」

確かに壁以外に何もなかった筈の箇所にぽっかりと空間が空いているのを見て、アーサフィルドは呆然とした表情を浮かべた。

「そうか、まだアーサーは知らなかったのだな。代々、王家にのみ伝えられる隠し通路があるのだよ」

・・・今はノヴァイアスたちが秘密裏に会合する為に頻繁に行き来しているけれど。

「隠し通路・・・」

開かれた空間の向こう側は、真っ暗で何も見えない。
ヒューヒューと風が吹く音が微かにする以外、何も聞こえはしなかった。

「驚かせて悪かった。どうしてもお前に話しておきたい事があるんだ。・・・ついておいで」
「何処へ・・・ですか?」
「行けば分かる」

そう言って、カルセイランは隠し通路の中へと消えていく。それをアーサフィルドが慌てて追った。

カルセイランが手に持つ灯以外、光源となるものが何もない中、アーサフィルドは兄の後ろ姿を見つめながらついて行く。

二人とも終始無言だった。

何か所かで右へ左へと曲がり、やがてある地点でカルセイランはぴたりと立ち止まった。

そして何もない壁に向かい、コンコンとノックする。

「入れ」

その言葉を確認してから、カルセイランは壁の一部をそっと押すと、先ほど自分の部屋に現れたのと同じ空間が。そしてその向こうには二つの人影があった。

逆光でその二人の顔は見えない。
暗闇に慣れてしまった眼を細く眇める。

「・・・アーサフィルドも連れて来たのかい」

その人影の声の一つはカルセイランとアーサフィルドの父、国王ダリウスだった。

ならばもう一人は。

室内に入ってから確認すればやはり、母である王妃マリーベルだった。

「突然、知らせを受けた時は驚いたが・・・カルセイラン、私たちに秘密裏に話したい事とは一体、何だ?」

カルセイランとアーサフィルドが席につくなり、ダリウスは口を開いた。

カルセイランは一度大きく息を吸い、呼吸を整える。

「まず、こちらをご覧いただきたい」

そう言って、腕をまくった。

「まあ、なんてこと。カルセイラン、この傷は・・・」
「む・・・?」

腕に刻まれた紋様を見て、王も王妃も、そしてアーサフィルドも息を呑む。

だが、問いかけようと口を開いたまま、三人はその場で暫し固まった。
頭の中、意識の底で何かが蠢くのを感じて。

「な・・・?」
「これは、一体・・・」

アーサフィルドは目を瞬いた。
父と母が、頭を押さえてぶるぶると震えている。

自身も、何か薄い靄のようなものが晴れ、兄の婚約者に対する嫌悪感が一層明確になった気はするが、父や母のようなわななくほど衝撃を受けてはいない。

様子がどうもおかしいと思い、黙って父母を見つめていると、やがて絞り出すような声で聞いたことのない名前を口にした。

「まさか・・・何故、ユリアティエル・・・」
「そんな。貴方の婚約者は・・・どうして・・・」

女性の名前? でも自分には聞き覚えがない。

カルセイランは不思議そうな顔をしている弟に目を向けると、「アーサーはユリアティエルの名前までは覚えていないかな」と呟いた。

「ユリアティエル・・・いえ。聞いたことがあるような気もするのですが、はっきりとは・・・」
「そうだろうな。私がユリアティエルと婚約したのはお前が二歳のとき、それから三年ほどで婚約は解消となったから・・・五歳くらいまでか。彼女はお前の相手をするのがとても好きで、よく中庭の庭園をお前を連れて散歩していたものだった」

その言葉に、幼い頃の思い出がうっすらと蘇る。
美しい花々に囲まれる中、自分の手を引く綺麗な女性。それは確か。

「・・・綺麗な、長い銀髪の・・・」

兄がよく口にしていた夢の女性と同じ、銀色の髪の女性の優しい笑顔。

アーサフィルドの呟きにカルセイランは目を瞠り、それから柔らかく、そして少し悲しそうに微笑んだ。

「そうだ。その女性だよ。・・・私の最愛のひとだ」

最愛のひと。婚約者だった女性。でもどうして。
だって今は。今はあんな女性と。

そう口を開こうとして、母の嗚咽が耳に入った。

肩を震わせて泣いている。
眼を遣れば、父も顔を歪め、唇をきつく噛み締めて。

「・・・どういうことなの? どうしてあの子との婚約を解消しているの? ・・・しかも、それをわたくしたちが」
「ああ。・・・そして何故、あのヴァルハリラという娘が出て来るのだ・・・? どうしてずっと言われるがままに・・・カルセイラン、お前は今この国で何が起きているのか、理解しているのか」
「・・・はい」

カルセイランは袖をまくったままの腕を上げた。

「この紋様は私自身がナイフで刻みました。ノヴァイアスに教えてもらった解呪の紋様です。・・・私たちは、いえ、この王国全体は、ヴァルハリラ・ダスダイダンの術中にあります」
「術・・・? それは・・・」
「それは、ユリアティエルのこととも関係があるの・・・?」

カルセイランは頷いた。

「話せば長くなるでしょう。しかも、明日にはここで聞いたこと、知ったこと全てが再び意識の底に追いやられていることでしょう。ですが、今より約四か月後、私はあの女との闘いに決着をつけるつもりでおります。そのために何をするつもりでいるか、それを貴方がたにお伝えしておきたかったのです」

たとえ明日には、大切な記憶を、気持ちを、決意を忘却の底に突き落とされることになろうとも。
必ず、必ず再び蘇らせてみせる。

だから、そのためにまず。

「・・・陛下。今より私の話を聞いていただき、そして、ご納得いただけたら玉璽をお借りしたいと思っております」
「玉璽、だと?」
「はい。・・・まずは、今の王国の現状についてお伝えいたします。話は約二年ほど前・・・私とユリアティエルの婚約が、陛下の宣言によって解消された頃に遡ります」
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