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撤退
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ノヴァイアスが闘う姿を直接見るのは、これが初めてだったのかもしれない。
王城では文官の立場でカルセイランに仕えていたし、王太子の婚約者時代の頃の記憶にある限り、彼は常にカルセイランの横で静かに控えている印象だったから。
だから酔っ払いの兵士たちを次々と剣で薙ぎ倒していくその姿は、余りに異質で、容易には信じられない光景だった。
呆然と立ち尽くしていると、スラヴァの声がして我に返る。
「馬上からで多少は有利とはいえ、流石に多勢に無勢です。ノヴァイアス殿に加勢しますので、ユリアティエルさまはあちらに向かってお逃げください」
スラヴァが一方向を手で指し示す。
「すぐにカサンドロスさまたちと合流出来る筈です」
それだけ言い残すと、スラヴァも闘いの場へと飛び込んでいった。
ユリアティエルは一つ大きな息を吐き、呼吸を整えると、スラヴァが示した方角に向けて走り出す。
気は逸るものの、やはりまだ体力が十分に回復していないためか思うようには走れない。
シャイラックも、シャイラックが連れていた傭兵たちも、闘いに関して愚かではない。
馬鹿正直にひとつ所に留まったり、攻撃を仕掛けないままでいる訳はないだろう。
先ほど見た三十人程度が戦力の全てとも考えにくい。
数として圧倒的に劣っている今、闘う力など持たぬユリアティエルが一刻も早くその場を離れるよう指示されるのは当然であった。
だが、応戦する者が二人しかいない状況で、追手を全て引きつけておける筈もない。
やがてユリアティエルの背後に迫る複数の足音が聞こえてきた。
焦りと共に、ちら、と後ろを振り返る。
シャイラックと親しそうに話していた兵士、確かドルトンという名だったろうか、彼が先頭に立って追ってきている。
だが、遥か前方に現れた影に気付き、ユリアティエルはホッと安堵の息を漏らす。
まだ距離はあるものの、カサンドロス率いる私兵団がこちらに向かっているのを確認出来たからだ。
そして、それは追っていた傭兵たちも気づくところだったようだ。ここでぴたりと彼らの足が止まる。
勿論ユリアティエルは足を止めない。
カサンドロスたちは、まだ遠い。
・・・気を抜いては駄目。
そう思った時、後方から声がした。
振り向けば、ドルトンたちは皆、攻撃の意思がないことを示すために武器を地面に置き、両手を上げている。
「なぁ、奴隷さんよ」
ドルトンは声を届かせようと、いつもよりも大きな声で話しかけた。
「俺たちは傭兵だ。忠義も信念もねぇ。金で動く人間だ。・・・あんたを狙うのは割りに合わねぇって、よくよく分かったから俺たちはここで引く」
「・・・」
「もう頼まれてもあんたのことは狙わねぇし、シャイラックにも近づかせねぇ。・・・あいつが生きてたらの話だが」
そう話しながら、ユリアティエルの背後に近づきつつある兵団に目を向けた。
「・・・俺らが踏み込んだお陰で、あんたはあの人形男に殺されないで済んだだろ? あんたは知らねえだろうがよ、あの男はガスを用意してたんだせ?」
・・・やっぱり。
ユリアティエルの脳裏に浮かんだのは、頑丈でやたらと機密性の高そうなガラス製のケースと、その向こうに置いてあった大きな機械。
あれを使ってガスを送りこむつもりだったのね。
「分かるだろ? あいつらじゃ間に合わなかった。俺らがいなきゃ、あんたはとっくに死んでケースに詰め込まれてたんだ」
「・・・そう、かもしれませんね」
短い了承の言葉に、あからさまにホッとした表情を浮かべたドルトンは、「じゃあ」と続けた。
「俺たちはこれで逃げるけど、追手はかけないでくれよな? もう二度とお前に手を出さないって約束するからよ」
一瞬、どうしたらいいかと考えたが、元よりこれは自分が決定することではない。
「・・・伝えてはおきますし、わたくしからもお願いしてみます。ですが、最終的に決めるのはカサンドロスさまですので」
「分かってる。それで十分だ。・・・特に向こうで暴れてるあのイカれた男によく言っといてくれ」
そう言うと、ドルトンは背後を顎でしゃくった。
「礼と言っちゃなんだが、この先一度だけ、あんたのためにタダで動くことを約束しよう」
ユリアティエルが頷いたのを確認してから、ドルトンはその場に響き渡るような大声を上げた。
「皆、即座にこの場を離脱せよっ! 撤退だ!」
その声を合図に、傭兵たちが散開する。
その後を追おうと馬の手綱を握り直したノヴァイアスの姿を見つけたユリアティエルは、「ノヴァイアスさま!」とその名を呼びかけた。
その声に、ノヴァイアスの動きがぴたりと止まる。
そしてゆっくりと振り返った。
「出来ることならここまでとしてください。傭兵の方々は、二度とわたくしを狙わないと約束しました」
だがノヴァイアスの表情からは逡巡が見て取れる。
ユリアティエルは尚も続けた。
「最終的な判断はカサンドロスさまが下されるでしょう。ですから今のところはこれ以上彼らを追わずに指示を待ってもらえませんか」
ユリアティエルは、身体中傷だらけのノヴァイアスを見遣った。
スラヴァも無事だったようだ。肩で息をしているし、あちこちに傷も負ってはいるが、見たところ大怪我ではない。
「傭兵たちが来てくれたお陰で、わたくしは、わたくしを最初に攫った者に殺されずに済んだのも事実です。そして彼らは、見逃してくれれば後で一度だけ無償でこちらのために働くとも言ってきました」
一旦、言葉を切って目の前に広がる光景を目に焼きつけた。
何人もの男たちが倒れ、蹲っている。殺された者もいるだろう。
これが闘いというものなのだ。
「相手が条件を提示した以上、それを呑むか撥ねつけるかはカサンドロスさまに委ねるべきでしょう」
「・・・その通りだ」
背後からの声に、カサンドロスたちが到着したことを知る。
「無事なようで安堵したぞ、ユリアティエル。では、その相手が提示した条件とやらを聞かせて貰おうか」
そこまで言って、何かに気づいたかのようにカサンドロスは顔を上げ、遥か前方を見る。
それに釣られたかのように、ノヴァイアスやスラヴァも振り返った。
そして、そこに佇む者の姿に、ノヴァイアスの眉間がきつく寄せられる。
そこには、ただひとり逃げることを良しとしなかった男、シャイラックが立っていた。
王城では文官の立場でカルセイランに仕えていたし、王太子の婚約者時代の頃の記憶にある限り、彼は常にカルセイランの横で静かに控えている印象だったから。
だから酔っ払いの兵士たちを次々と剣で薙ぎ倒していくその姿は、余りに異質で、容易には信じられない光景だった。
呆然と立ち尽くしていると、スラヴァの声がして我に返る。
「馬上からで多少は有利とはいえ、流石に多勢に無勢です。ノヴァイアス殿に加勢しますので、ユリアティエルさまはあちらに向かってお逃げください」
スラヴァが一方向を手で指し示す。
「すぐにカサンドロスさまたちと合流出来る筈です」
それだけ言い残すと、スラヴァも闘いの場へと飛び込んでいった。
ユリアティエルは一つ大きな息を吐き、呼吸を整えると、スラヴァが示した方角に向けて走り出す。
気は逸るものの、やはりまだ体力が十分に回復していないためか思うようには走れない。
シャイラックも、シャイラックが連れていた傭兵たちも、闘いに関して愚かではない。
馬鹿正直にひとつ所に留まったり、攻撃を仕掛けないままでいる訳はないだろう。
先ほど見た三十人程度が戦力の全てとも考えにくい。
数として圧倒的に劣っている今、闘う力など持たぬユリアティエルが一刻も早くその場を離れるよう指示されるのは当然であった。
だが、応戦する者が二人しかいない状況で、追手を全て引きつけておける筈もない。
やがてユリアティエルの背後に迫る複数の足音が聞こえてきた。
焦りと共に、ちら、と後ろを振り返る。
シャイラックと親しそうに話していた兵士、確かドルトンという名だったろうか、彼が先頭に立って追ってきている。
だが、遥か前方に現れた影に気付き、ユリアティエルはホッと安堵の息を漏らす。
まだ距離はあるものの、カサンドロス率いる私兵団がこちらに向かっているのを確認出来たからだ。
そして、それは追っていた傭兵たちも気づくところだったようだ。ここでぴたりと彼らの足が止まる。
勿論ユリアティエルは足を止めない。
カサンドロスたちは、まだ遠い。
・・・気を抜いては駄目。
そう思った時、後方から声がした。
振り向けば、ドルトンたちは皆、攻撃の意思がないことを示すために武器を地面に置き、両手を上げている。
「なぁ、奴隷さんよ」
ドルトンは声を届かせようと、いつもよりも大きな声で話しかけた。
「俺たちは傭兵だ。忠義も信念もねぇ。金で動く人間だ。・・・あんたを狙うのは割りに合わねぇって、よくよく分かったから俺たちはここで引く」
「・・・」
「もう頼まれてもあんたのことは狙わねぇし、シャイラックにも近づかせねぇ。・・・あいつが生きてたらの話だが」
そう話しながら、ユリアティエルの背後に近づきつつある兵団に目を向けた。
「・・・俺らが踏み込んだお陰で、あんたはあの人形男に殺されないで済んだだろ? あんたは知らねえだろうがよ、あの男はガスを用意してたんだせ?」
・・・やっぱり。
ユリアティエルの脳裏に浮かんだのは、頑丈でやたらと機密性の高そうなガラス製のケースと、その向こうに置いてあった大きな機械。
あれを使ってガスを送りこむつもりだったのね。
「分かるだろ? あいつらじゃ間に合わなかった。俺らがいなきゃ、あんたはとっくに死んでケースに詰め込まれてたんだ」
「・・・そう、かもしれませんね」
短い了承の言葉に、あからさまにホッとした表情を浮かべたドルトンは、「じゃあ」と続けた。
「俺たちはこれで逃げるけど、追手はかけないでくれよな? もう二度とお前に手を出さないって約束するからよ」
一瞬、どうしたらいいかと考えたが、元よりこれは自分が決定することではない。
「・・・伝えてはおきますし、わたくしからもお願いしてみます。ですが、最終的に決めるのはカサンドロスさまですので」
「分かってる。それで十分だ。・・・特に向こうで暴れてるあのイカれた男によく言っといてくれ」
そう言うと、ドルトンは背後を顎でしゃくった。
「礼と言っちゃなんだが、この先一度だけ、あんたのためにタダで動くことを約束しよう」
ユリアティエルが頷いたのを確認してから、ドルトンはその場に響き渡るような大声を上げた。
「皆、即座にこの場を離脱せよっ! 撤退だ!」
その声を合図に、傭兵たちが散開する。
その後を追おうと馬の手綱を握り直したノヴァイアスの姿を見つけたユリアティエルは、「ノヴァイアスさま!」とその名を呼びかけた。
その声に、ノヴァイアスの動きがぴたりと止まる。
そしてゆっくりと振り返った。
「出来ることならここまでとしてください。傭兵の方々は、二度とわたくしを狙わないと約束しました」
だがノヴァイアスの表情からは逡巡が見て取れる。
ユリアティエルは尚も続けた。
「最終的な判断はカサンドロスさまが下されるでしょう。ですから今のところはこれ以上彼らを追わずに指示を待ってもらえませんか」
ユリアティエルは、身体中傷だらけのノヴァイアスを見遣った。
スラヴァも無事だったようだ。肩で息をしているし、あちこちに傷も負ってはいるが、見たところ大怪我ではない。
「傭兵たちが来てくれたお陰で、わたくしは、わたくしを最初に攫った者に殺されずに済んだのも事実です。そして彼らは、見逃してくれれば後で一度だけ無償でこちらのために働くとも言ってきました」
一旦、言葉を切って目の前に広がる光景を目に焼きつけた。
何人もの男たちが倒れ、蹲っている。殺された者もいるだろう。
これが闘いというものなのだ。
「相手が条件を提示した以上、それを呑むか撥ねつけるかはカサンドロスさまに委ねるべきでしょう」
「・・・その通りだ」
背後からの声に、カサンドロスたちが到着したことを知る。
「無事なようで安堵したぞ、ユリアティエル。では、その相手が提示した条件とやらを聞かせて貰おうか」
そこまで言って、何かに気づいたかのようにカサンドロスは顔を上げ、遥か前方を見る。
それに釣られたかのように、ノヴァイアスやスラヴァも振り返った。
そして、そこに佇む者の姿に、ノヴァイアスの眉間がきつく寄せられる。
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