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テマン王の願いの話

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ぴちゃん。


シャールは薄汚れた服を脱ぎ捨て、桶に入った水で手拭いを絞り、それで何度も体を拭いた。


桶の水はすぐに真っ黒になり、何度も水を替えては体を洗う。


シャールは迅る気を抑え、念入りに体を清める。


これから愛しい人をこの腕に抱くのだ。

この身に汚れなどあってはならない。


隅々まで清めた後、シャールはガウンを纏っただけの姿で寝室へと向かう。


そこには、寝着に着替えたアレクサンドラが夫の訪れを待っていた。


「・・・待たせたね、サンドラ」

「いいえ、それほどでも・・・いえ、本当はお会いできた時すぐに抱きしめて頂きたかったですけれど」

「え?」

「だから、身体を清めるまで離れていてと言われて、ちょっと寂しかったのです」

「・・・」


はにかんだ笑顔で本心を吐露され、シャールは一瞬、言葉に詰まる。

アレクサンドラは可憐な容姿の姫君ではあるが、常に淑女たらんと努力する彼女は、気持ちを表情に出すことはほとんどない。


それが今、素直に喜びと寂しさを口にし、会いたかった、恋しかったと、全身で伝えてくれる。


シャールは微かに震える手を、そっとアレクサンドラに伸ばした。

過酷な旅で少しかさついた指先が、アレクサンドラの柔らかな頬をそっと撫でる。


シャールの顔がゆっくりとアレクサンドラのそれに近づくと、愛らしい妻は目を閉じた。


シャールとアレクサンドラの影が重なる。


何度も角度を変えては唇を重ねた後、シャールはそっとベッドの上にアレクサンドラの体を沈めた。


アレクサンドラは潤んだ瞳でシャールを見上げ、シャールは熱の籠った眼差しでアレクサンドラを見つめ返す。


「サンドラ・・・いいかい?」


いつもよりも低く、掠れた声がアレクサンドラの耳に心地よく響き、彼女は迷いなく頷いた。


ゆっくりと伸ばされた手が、その長い指が、アレクサンドラの夜着を解く。


はらりという衣擦れの音と共に、無垢なる美しい身体が露になる。

シャールもまた、自らのガウンを取り払った。


この先、確実に来ると思っていた未来。
なのにあと一日で粉々に砕け散ってしまうこの現実が、どうしようもなく悲しくて愛しくて。

シャールはアレクサンドラをかき抱いた。


ああ、この一瞬が永遠に続けばいいのに。


シャールは、心から、切実にそう願った。

そして、それはおそらくアレクサンドラも。


叶わぬ願いと知りながらも、ただ願うだけなら、と。







「・・・シャール王子は泥だらけであったな。よくぞ6日足らずでこの城まで辿り着けたものだ。さぞや苦労したであろうに」


部屋に下がるシャール王子とアレクサンドラ王女を見送ったイスル国王テマンは、王妃イルサにそう語りかけた。


「本当に。途中からは護衛騎士たちも家に帰したそうですから、色々と不自由なさったことでしょう」


イルサは一度言葉を切り、少し沈んだ表情でこう続ける。


「アレクサンドラの花嫁姿が見られないのが心残りですわ」

「・・・ああ、そうだな」


テマンはただ一言だけ返すと、思考に沈んだ。


5日以上の道のりを駆け続け、満身創痍になりながらもイスル国王城に到着したシャール王子。


そして、その間ずっと物見の塔から地平を見つめ、彼の到着を待ち侘びていたアレクサンドラ。


本来であれば半年後に結婚し、この世界でたった一つとなった王国を、二人で平和裏に治める筈だった。


幼い頃から互いを慕い、大切に想っていた二人なら、その大役が果たせる筈だった。


「・・・せめて婚礼衣装が出来上がっていれば、二人に着せてやれたのだが」


今はまだ、半年先の婚礼に備え、布の選定やデザイン案の絞り込みが終わったところで。


王国の統一を成し遂げ、世界の平和を実現させた二人に相応しい、荘厳な衣装が出来上がる筈だったのに。


「・・・何のためにここまで頑張ってきたのかと恨み言の一つでも吐きたくなるが・・・星に耳などある筈もない」


呻くような、そんな言葉がテマンの口から漏れた。



かつてこの大陸には二十八もの国がひしめき合っていた。

諸国家間の争いは日常的で、常に大陸の勢力図は塗り替えられていた。

国家間の淘汰は続き、血生臭い戦争を繰り返した結果、諸国を吸収して生き残った国がそれぞれ二つ。

それがドリス国とイスル国だった。


先代ドリス国王と同じく先代イスル国王、つまりレブロンの父とテマンの父は、最後の二国同士が戦い、殺し合うことを望まなかった。


既に民も地も疲れきっていた。

今やこの大陸にたった二つとなった強大な王国同士が争えば、将来にどれ程の被害をもたらすかは、王たちの目に火を見るより明らかで。


結果、彼らが選んだのは政略結婚による平和的な王国の統一だった。


その役目を託されたのが、当時のそれぞれの王太子に生まれた赤子たち、つまりシャール王子とアレクサンドラ王女だったのだ。


その政策に対し、あくまでも軍事的侵略を主張した者たちは勿論いた。ドリス国のラクロス王子もその一人だ。


それら軍事強硬派を押さえつけて、シャール王子とアレクサンドラ王女の婚約を結んだ。


幸いなことに、国同士の思惑を超え、二人は出会った瞬間に互いを生涯の伴侶と思い定め、平和を享受した民は皆、これぞ運命の恋人たちだと歓喜したのだが。


「・・・あの子たちが不憫でならぬ。あれほどまでに想いあって、もうすぐ一緒になれるという時に」


純粋な、美しい恋であった。

王族の責務や宮廷の醜い争いとはまったく別次元の、互いを想い、恋慕う、優しく穏やかな愛情だった。


「あの二人なら、平和で穏やかな国を作り上げただろうに」


テマンは窓から空を見上げた。


刻一刻とこの地に迫る星の影は、じりじりと大きくなって息苦しささえ感じさせる。


大国の王としての権力など、強大な自然の力を前にしては無きに等しい。

王国の統一を目前にした今、テマン王は成す術もなく、こうしてただ星が全てを押し潰す時を待っているだけなのだから。


迫り来る星を見上げたまま、テマンは目を瞑った。


せめて。

せめてあの純粋で美しい二人が。


互いを胸に抱き合いながら、互いを見つめ合いながら、最後の時を迎えられんことを。


世界の祝福となる筈だった二人の恋の結末を思いながら、テマンはそんな願いを口にした。

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