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言えない、いや言いたくない
しおりを挟むたぶん、本当に、あらゆる事の間が悪かった。
心を乱したアッシュは、低い唸り声をあげたかと思うと衝動的に森の出口に向かって走り出した。
アッシュたちがいる森は、彼が知る王都からは遠く離れている。だからアッシュは、森のどの方角に王都があるかも分からない。
ただ、物資の運搬で行き来する者たちを見ていたから、森の出口がどちらにあるかは知っていた。
ラエラ、ラエラと呟きながら、必死の形相でアッシュは走る。その後ろを前ロンド伯爵が追いかけた。
伐採現場は家より森の奥方向にあり、アッシュの逃亡防止目的で配置された私兵たちは、ここより森の出入り口に近い地点にいる事が多い。
つまり、この時点で周辺に私兵はいなかった。
「アッシュ!」
だからアッシュを捕まえたのは、すぐ後ろを走って追いかけた父親だった。背中から羽交い締めのようにアッシュを抱え込み、動きを止めた。
「嫌だ、離してっ! 離してください! 僕が・・・っ、僕がラエラの夫になる筈だったんだ! 本当は、僕が!」
アッシュは父を振り払おうと、滅茶苦茶に両腕を振り回しつつ叫んだ。
「今さら何を・・・っ、アッシュ、お前がラエラを拒絶したのだろうが!」
「ちが・・・っ、違う! 僕はそんなつもりじゃなかった。それに、ラエラは僕を愛してくれてるんだ! ラエラは僕の婚約者で・・・なのにヨルンが、どうしてヨルンが・・・っ!」
アッシュは身を捩って父の拘束を逃れると、ぽろぽろと涙をこぼしながら、再び闇雲に両腕を振り回し始めた。それはまるで、駄々をこねる子どものようで。
でも、アッシュは小さな子どもではない。11か月ほど前の、痩せ細ったアッシュでもない。
もしそうだったなら、きっと大した事にならなかった。父親ひとりか、もしくは私兵たちの応援を得て、暴れるアッシュを取り押さえられたに違いない。
けれど、アッシュの体力も、体格も回復に向かっていたから。だから。
「ぐ・・・っ!」
勢い任せで振り回した手が、握りしめていた彼の拳が、父ギュンターの頬に当たった。もろに入ったそれにギュンターはよろめき、横に倒れこむ。
何でもない所で、ただ倒れただけだったらよかったのに。
ここは伐採現場、倒れた先には、丸太にする前の原木が何本も重ねて地面の上に置かれていた。
枝打ちする前の、ただ切り倒しただけの原木。最悪な事に、勢いよく倒れ込んだギュンターの左目に1本の枝先が掠り、彼は呻き声を上げた。
ギュンターの左目から、つ、と血が流れ出す。
「・・・え? あ・・・父上? あれ、なんで・・・?」
アッシュはショックでその場に立ちすくむ。意識はますます混乱していった。何が、どうして、これは一体と。
その後、アニエスが呼んだ私兵たちが、数人がかりで最寄りの町にある治療院にギュンターを運びこんだ。
診察した医師は、申し訳なさそうに首を横に振った。眼球が傷ついていて、視力の回復は望めないと。
父親の怪我についての最初の報告がヨルンの元に届いてから少し後、ヨルンは再び手紙を受け取った。
怪我をした当人である父ギュンターが、アッシュに悪意はなかったと、わざわざ手紙に書いて送ってきたのだ。
ギュンターはヨルンに、アッシュへの温情を願った。やがて嘆願の手紙に母の名も加わり、温情ある裁決を求めて2人から頻繁に手紙がヨルンに届くようになる。
当座の対応として、ヨルンは私兵たちにアッシュの家の周りを柵でぐるりと囲むよう命じた。家から一歩も出さない為だ。だが、我に帰ったアッシュは、柵など建てなくても勝手に部屋に引きこもっていた。
その後も父母からは手紙が届き、やがて執務室の机の上に山を作るほどになった。
今回の件をどう処理すべきか、ヨルンは珍しく判断に迷っていた。
ギュンターがはっきりと目に見える箇所に怪我を負ってしまった以上、ラエラにも何らかの説明をしなければならない。今後もラエラと顔を合わせる可能性がないとは言えないからだ。
怪我の状態と、起きた時の状況と、それが起きてしまった原因。そして、それらに基づいてこれからヨルンが下す裁決と。
だが、ヨルンには、ラエラに言えない事が一つあった。正確には言いたくない事が。
言いたい筈がない。
ラエラの妊娠の知らせが、この事件のきっかけになったなどと。
たとえラエラが、自分をしっかり持った強い女性だと知っていても。
悪阻に苦しむラエラに、いや、悪阻がおさまったとしても、毎日腹の中の赤子に優しい声で話しかけるラエラに、ヨルンが言える訳がなかった。
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