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番外編 水鏡の向こう側
熱に溶ける、溶けていく
しおりを挟む好きなだけ居たらいいと、灰色のローブを着た男は言った。
もし居たくないなら帰してやるとも。
「あんたはもう死んでるから、あっちに戻ったら即、生まれ直しに入るだろう」
「・・・死んでるのに、何故ここでは俺は生きていられるんだ?」
好きにしろと言われ、何がしたいのか分からないヘンドリックは、まず頭に最初に浮かんだ質問を口にした。
灰色の男は肩を竦めながら言った。
「ここは時が止まってるからだ」
「時が、止まってる」
「ああ、だから中途半端な状態のあんたでも、ここならそのカタチを保っていられるって訳だ」
「・・・お前も、死んでるのか?」
ヘンドリックからすれば、当然の疑問だった。
だが灰色の男にとってはそうでなかったらしく、何が面白いのかけらけらと笑った。
「私は、残念ながら生きている。魔術は使えるが、ただそれだけの人間だ」
何故ここで笑うのかと訝しく思うも、そもそも笑わない自分より遥かにまともかとヘンドリックは思い直した。
ここに居てもいい、居なくてもいい。ここを出て行けばすぐ生まれ直すことになる。何故ならもう自分は死んでいるから。
ヘンドリックは、頭の中で与えられた情報を反復した。
自分は死んでいる。あの女は生きている。今もし自分が生まれ直しても、ラシェルは変わらずそのまま生き続ける。今の彼女のまま、その姿の、年齢のまま。
「・・・」
「まあ、ゆっくり考えろ。時は止まってるんだ。変な言い方だが、時間はどれだけでもある」
考え込むヘンドリックに、迷っていると判断したのだろう、男はそう言ってきた。
迷っている訳ではない。ただ分からないだけだ。
自分が何を望んでいるのか。
何を思って、こんなに心が焦っているのか。何に腹を立てているのか。
だが、何かが気に入らない。今すぐに生まれ直すのは、どうにも気に触る。それでは駄目だと自分の中で、もう一人の自分が叫ぶのだ。
だから、ヘンドリックはこう言った。
「もう暫くここにいる」と。
自覚はないが、自分の心にはひびが入っているらしい。そして、それは少しずつ塞がっていく・・・かもしれないらしい。
その「心のひび」とやらが塞がれば、自分が何を焦って、何に腹を立てているのかも分かるのだろうか。
何故、ラシェルにだけあんなに強く心が揺さぶられたのかも。
生まれ直すとしても「今」じゃないと感じた理由も。
灰色の男は、ヘンドリックの好きな様に空間の背景を変えてくれると言った。
「ここはなんでも可能だぞ。全てが幻だが、それすら気づく事はないだろう」
その言葉の通り、本当に望むままに何にでも変えてくれた。
ある時は雪山に、ある時は静かな湖畔に、ある時は草原に。
「鍛錬場を出せとは言わないのだな」
男は、ある日そう言った。
「剣はもう持たない」
ヘンドリックは端的にそう答える。
前は漠然とそう思っただけだったが、一度目の人生で自分が何をしたのかを聞いてからは、余計にその気持ちは強くなった。
山を巡り、川で魚を獲り、海に潜り、草原を走った。
「別に食事をする必要もないのだが」
時は止まっているし、あんたは死んでるし。
そう男に苦笑されながらも、幻で作り上げた食事を二人で取った。
何となく、そうしたかったから。
何となく、男もそれを喜んでいる様に思えたから。
やがて男は言った。
「あんたにあっちの世界を見せてやるよ」
指を一本立てて、「一刻だけな」と。
「そんな事が出来るのか」
「当然だ。まぁ見ていろ」
男は、これでいいかと呟くと、目の前の滝に両手を向けた。
轟々と音を立てて流れ落ちていた大量の水が、水の様に見えていたものが、男が手を向けた途端に眩い光を放った。
「・・・っ」
気づけば、そこに見覚えのある顔が映っていた。
「・・・父、うえ・・・?」
ヘンドリックの声が、ぽつりと漏れる。
水面に映った父は、ヘンドリックがかつて愛用していた剣を腕の中に抱え、背中を丸めていた。
俯いたその顔は見えないが、そこから透明な雫が一つ、二つ、三つと落ちて行く。
「・・・泣いて、おられる・・・?」
剣を抱えた父シャルマンの体が、ガクンと揺れる。
どうやら馬車で移動している様だ。外側から扉が開き、シャルマンは涙を拭うと剣を持って馬車から降りた。
「俺の剣で何を・・・」
ヘンドリックの心はざわついた。
ラシェルに関わるもの以外では感じた事のない、不可解なざわつき。
父の涙を見たせいだろうか。
ヘンドリックは考えた。
そうかもしれない。あの勇猛な父が泣くところなど見たことがなかったから。
では、父の涙を不快に思ったという事か。
ヘンドリックは考察しつつも、そのまま水面を見つめる。
シャルマンは、ある男に剣を手渡していた。その向こうに見えるのは、真っ赤に熱された炉。
男は剣を鞘から抜き、掬から刀身を外す。
その刀身は、男の手によって燃えさかる熱い炉の中へと放り込まれる。
刀身は真っ赤に染まり、やがてその形を失って行く。
その間ずっと、相当な熱さだろうにシャルマンはその場を離れる事なく、その溶けていく様をじっと見つめ続けていた。
その時も父は泣いていたのだろうか。ヘンドリックには分からない。
シャルマンの顔は燃えさかる炎で赤く照らされていたし、彼の頬に光っていたのが涙なのか、それとも熱で吹き出た汗なのかも分からなかったから。
そうして、ヘンドリックの剣は炉に溶かされた。
ーーー ヘンドリック、お前は何が好きなんだろうな。お前には何が向いているだろうか
ヘンドリックは唐突に思い出す。
幼い頃の父の言葉。
そう言って、自分の頭に乗せられた大きな手のひらを。
ーーー お前は何でも器用にこなすが、出来る事なら、お前がやりたいと思うものを見つけてやりたいんだがな
そう言って笑った父の笑顔は、どこか。
「・・・」
ラシェルの事を考える時と同じ、あのざわざわとした感覚が、またもやヘンドリックの心に生まれる。
だが、まだそのざわつきの正体が何であるか彼には分からない。
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