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布を取る勇気
しおりを挟むその日の夜。
けっこう、いやかなり慌ただしく、義父は仕事から帰ってきた。
それだけ今回の肖像画に期待しているという事なんだろう。
ランジェロが描いたアデラインの絵姿が、自分の歪んだ感覚を元に戻すきっかけになるかもしれない、と。
それでなくても、最近、義父は早目に帰って来るようになっていた。
会話はまだまだ少ないし最低限の挨拶だけだけど、でもそのためだけに義父は仕事を切り上げて帰って来ていたのだ。
だけど、今日はそれと比べても遥かに帰りが早い。
同じ仕事をしている人たちに怒られないのかと心配になるくらいの早上がりぶりだった。
なのに、そんな義父の勢いは、絵が置いてある部屋の前でぴたりと止まる。
そしてそのまま、なかなか扉を開けられずにいた。
僕は苦笑しながら声をかける。
「・・・絵には布がかけてありますから、部屋に入ってもすぐに見えたりはしませんよ」
「そ、そうか・・・」
明らかにホッとした様子で、義父は扉を開けた。
だが。
布をかけた絵の前で、再び義父が固まる。
ほんの少し手に力を入れて布を引くだけ。
それだけのことが出来ずにいる。
「・・・」
僅かに手を上げては止まり、そして下がる。
それを何度も繰り返して。
そして、義父は。
「・・・今日は、止めておく・・・」
そう言って、扉の方へと足を向けた。
僕は思わず、義父上、と声を出しそうになって。
でも、これは強制していい事ではないと口を噤んだ。
扉の閉まる音が、やけに大きく耳に響いた気がして、僕はそっと息を吐く。
やっと。
かろうじて出来た、細くて微かなアデラインと義父との繋がり。
そんな繋がりに、アデラインも義父も今は縋るしかないから、だから余計に。
余計に、一歩踏み出すのが怖くなる。
その僅かな繋がりすら、また昔のように一瞬で消えてしまうのではないかと、どうしても怯えてしまう。
そして、もし消えてしまったら。
そうしたら今度こそ、僕たちにはもうどこにも縋る余地がなくなってしまう。
そんな気がするから。
だからよく分かる。
戸惑って、どうにかして結論が出るのを遅らせたくなる義父の気持ちは。
よく分かる、けど。
「・・・だけど、このままじゃ」
僕のそんな呟きは、誰もいなくなった部屋に虚しく響いた。
「・・・お父さまはどうだった?」
僅かな期待のこもった眼差しが、サロンに戻ってきた僕を見上げる。
僕は軽く首を左右に振った。
「絵の前まで行ったんだけどね。見ることは出来なかったよ。布を取る勇気が出なかったみたい」
「・・・そう」
表情に浮かぶのは、少しの落胆。
でもその眼にはまだ期待が残っている。
そうだよね。
だって絵を見てアデラインだと認識出来なかった訳じゃない。
ただ、そうなってしまった時の衝撃が、想像するだけでも怖くて動けずにいただけ。
それが分かるから、僕たちも同じように黙ってしまうんだ。
「変に期待してるだけに、それが上手くいかなかった時の失望が怖いんだろうね」
そうやって分析を口にしてはみるけれど、本当は僕も。
やっぱり、すごく不安なんだ。
もし、これで駄目だったらどうしようって。
もしかしたら。
本当に、このままずっと。
そんな風に、不安を煽る言葉はいくらでも浮かんでくる。
ちょっとだけ希望が顔を見せていたから。
だから余計に僕たちは臆病になっていたのかもしれない。
「大丈夫。きっと上手くいくよ」
はっきりとした根拠もないまま、ただ不安そうなアデラインを宥めるためだけに、僕はそんな言葉を口にした。
ここで僕は痛感する。
僕はアデラインが大好きだし、アデラインを笑顔にするためなら何でもしたいと思ってるけど、僕には知らないことが多すぎる。
僕が知っているアデラインは、僕が知っているこの屋敷の様子は、義父の姿は、全てここに養子に来た十歳以降のものばかり。
義父が無意識のうちに失ったことを否定する程に幸せだった以前のノッガー家を、僕は知らないのだ。
「・・・」
そんな今しか知らない僕の眼には、映らない何かがあるのだろうか。
「・・・ちょっと、ショーンのところに行ってくるね」
僕は、アデラインにそう声をかけると、静かに部屋を後にした。
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