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2章
2-2
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いつまで経っても、お腹は空かなかった。
裏返した食器をただぼうっと眺めているうちに、太陽は高く登り、暖かい日差しがリビングに差し込む。カオルは日光を避けるように、ふらふらと立ち上がった。
「……お掃除、しよう」
理由はわからない。でも、ノアの逆鱗に触れたのだと言うことははっきり分かっていた。
やっぱり、無理だったのだ。こんな常識も華もない汚れた女が、貴族様の元に嫁ぐなど。私は所詮、展示品。いや、旦那様の言葉を借りるなら娼婦か。まったく、その通りだ。
「………………帰ろう」
一日分の夢のお返しとしては足りないけれど、ちゃんと掃除をして、汚れを落として、綺麗さっぱりいなくなろう。その方がカオルとしても楽だ。掃除は唯一、何にも考えずにできることだから。
綺麗なままの食器を、静かに戻した。
◇
情報は、三時間ほどでおおよそ集まった。居ても立ってもいられず、後半はノアが指揮を取った。
本来なら極秘事項の山らしいが、上下水道を束ねるエヴァンス家は、有力貴族ほど恩を売りたい相手らしい。皆、ここぞとばかりにリークしてくれた。
(まだなにか奥に一段、闇を抱えていそうな雰囲気はあったが……)
まるまると太った貴族共の下卑た笑みが、脳裏に浮かんで吐き気がする。「へえ、あのカオル嬢を」とあからさまに笑う者もいた。あの、とはどういうことだ。意味がわからない。
ただしかし、はっきりとわかることは。
「…………やってしまった」
カオルは白だ。間違いなく。
理由はわからないが、彼女はイルミナ家で迫害を受けていた。よほど酷いものだったのだろう。孤児院でさえ、あそこまで怯えた子はそう見ない。
夜這いにしても、実家の誰かの指示であった可能性が高い。
それを……。
「やっちまったな。兄貴」
「……ああ。間違いなくここ数年で一番の失態だ。一度話を聞くべきだった」
「このクズ」
「…………」
今回ばかりはぐうの音も出ない。
ノアは無言で天井を仰ぐ。ルーカスが、挑むような目つきで書類の山をデスクに置く。
「お忙しいな、ノアの兄貴。あんたには仕事がたくさんある。どうする? 家で待ってる傷心の奥さんと、どっちを取る」
「……ここぞとばかりに私を試すような真似をするな」
わかっている。そんなことは。
最低限の荷物をまとめて、ノアは立ち上がった。
「帰る。車を出せ」
「あいよ」
待ってましたとばかりに、ルーカスは車の鍵をくるりと回した。
表で待っているのももどかしく、ノアも助手席に乗り込む。急くように細かく足を揺らす。
(ルーカスの言う通りだな。とんだ悪癖……。いや、言い訳か)
そもそも、昨日の夜までは、おそらくカオルは追い詰められていたのだろうという結論をルーカスと出していた。それが、深夜の一件で全部吹き飛んだ。
ノアが突き飛ばしたとき、カオルは救いを求めるように手を伸ばしていたのに。
瞬間記憶能力を持つノアは、あの時しっかり見て、覚えていたのに。
返す返すも、
「……ルーカス、一度私を殴ってくれないか」
「甘えんな。カオルさんに引っ叩かれろ」
「……その通りだ。スピード出せ。違反ぐらい揉み消してやる」
車の遅さにやきもきとする。郊外に家を建てたのを悔やむ日が来るとは思わなかった。
と、その時。
流れる景色の中に、陽光に煌めく白い髪が掠めた。
慌てて後ろを見て、ノアは叫ぶ。
「止めろ!」
「あ……? なんだお前、この期に及んで……」
「違う。カオルがいた。お前ちょっとここで待ってろ。私は出る」
「は? 見間違いだろ。家からここまで何キロあると思って……」
「見間違うわけがないだろう!」
減速し始めた車から無理やり降りて、ノアは来た道を全力で走る。このまま見失ってしまえば捜索は困難だし、イルミナ家に戻られると再び連れ出せるか怪しい。
ふらふらと、荷物を抱えて重たそうに歩く後ろ姿に、声を張った。
裏返した食器をただぼうっと眺めているうちに、太陽は高く登り、暖かい日差しがリビングに差し込む。カオルは日光を避けるように、ふらふらと立ち上がった。
「……お掃除、しよう」
理由はわからない。でも、ノアの逆鱗に触れたのだと言うことははっきり分かっていた。
やっぱり、無理だったのだ。こんな常識も華もない汚れた女が、貴族様の元に嫁ぐなど。私は所詮、展示品。いや、旦那様の言葉を借りるなら娼婦か。まったく、その通りだ。
「………………帰ろう」
一日分の夢のお返しとしては足りないけれど、ちゃんと掃除をして、汚れを落として、綺麗さっぱりいなくなろう。その方がカオルとしても楽だ。掃除は唯一、何にも考えずにできることだから。
綺麗なままの食器を、静かに戻した。
◇
情報は、三時間ほどでおおよそ集まった。居ても立ってもいられず、後半はノアが指揮を取った。
本来なら極秘事項の山らしいが、上下水道を束ねるエヴァンス家は、有力貴族ほど恩を売りたい相手らしい。皆、ここぞとばかりにリークしてくれた。
(まだなにか奥に一段、闇を抱えていそうな雰囲気はあったが……)
まるまると太った貴族共の下卑た笑みが、脳裏に浮かんで吐き気がする。「へえ、あのカオル嬢を」とあからさまに笑う者もいた。あの、とはどういうことだ。意味がわからない。
ただしかし、はっきりとわかることは。
「…………やってしまった」
カオルは白だ。間違いなく。
理由はわからないが、彼女はイルミナ家で迫害を受けていた。よほど酷いものだったのだろう。孤児院でさえ、あそこまで怯えた子はそう見ない。
夜這いにしても、実家の誰かの指示であった可能性が高い。
それを……。
「やっちまったな。兄貴」
「……ああ。間違いなくここ数年で一番の失態だ。一度話を聞くべきだった」
「このクズ」
「…………」
今回ばかりはぐうの音も出ない。
ノアは無言で天井を仰ぐ。ルーカスが、挑むような目つきで書類の山をデスクに置く。
「お忙しいな、ノアの兄貴。あんたには仕事がたくさんある。どうする? 家で待ってる傷心の奥さんと、どっちを取る」
「……ここぞとばかりに私を試すような真似をするな」
わかっている。そんなことは。
最低限の荷物をまとめて、ノアは立ち上がった。
「帰る。車を出せ」
「あいよ」
待ってましたとばかりに、ルーカスは車の鍵をくるりと回した。
表で待っているのももどかしく、ノアも助手席に乗り込む。急くように細かく足を揺らす。
(ルーカスの言う通りだな。とんだ悪癖……。いや、言い訳か)
そもそも、昨日の夜までは、おそらくカオルは追い詰められていたのだろうという結論をルーカスと出していた。それが、深夜の一件で全部吹き飛んだ。
ノアが突き飛ばしたとき、カオルは救いを求めるように手を伸ばしていたのに。
瞬間記憶能力を持つノアは、あの時しっかり見て、覚えていたのに。
返す返すも、
「……ルーカス、一度私を殴ってくれないか」
「甘えんな。カオルさんに引っ叩かれろ」
「……その通りだ。スピード出せ。違反ぐらい揉み消してやる」
車の遅さにやきもきとする。郊外に家を建てたのを悔やむ日が来るとは思わなかった。
と、その時。
流れる景色の中に、陽光に煌めく白い髪が掠めた。
慌てて後ろを見て、ノアは叫ぶ。
「止めろ!」
「あ……? なんだお前、この期に及んで……」
「違う。カオルがいた。お前ちょっとここで待ってろ。私は出る」
「は? 見間違いだろ。家からここまで何キロあると思って……」
「見間違うわけがないだろう!」
減速し始めた車から無理やり降りて、ノアは来た道を全力で走る。このまま見失ってしまえば捜索は困難だし、イルミナ家に戻られると再び連れ出せるか怪しい。
ふらふらと、荷物を抱えて重たそうに歩く後ろ姿に、声を張った。
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