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1章
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起きたら、すでに外は暗かった。
(やってしまった……やってしまった……っ!)
時計があるというのに、まさか嫁いだ当日にこんな失態を……っ! こんなの実家でやっていたら、全裸で晒されても文句は言えない。
真っ青になって、カオルはぱたぱたと階段を降りる。
この家は、リビングとキッチンが一まとまりになっていて、階段がその横にある。カオルが降りると、キッチンに艶やかな金髪が見えた。
「起きたか」
低い声。振り向くと、ゾッとするほど端正な顔に、鋭い眼光。
がくがくと足が震えて、カオルはその場に平伏した。
「も、申し訳ありません! お出迎えしなければならないところ、給仕までさせてしまい、大変申し訳ありません……っ」
「落ち着け。席に着くといい」
「で、ですが……っ」
「同じことを二度言わせるな」
そう言われてしまえば、返す言葉もない。おずおずとカオルは席に着く。
沸騰した湯にパスタを入れて、金髪の男はもう片方の鍋をくるくると回す。どう呼ぶか悩んで、カオルはゆっくりと口を開く。
「あ、あの……旦那、さま」
「ノアで良い」
「ノア、様」
「……呼び捨てで良い、と言ってもお前は聞かなそうだな。それで、なんだ」
「どうか、お座りになってください。私が、やりますので……」
「良い。疲れていたのだろう。お前の実家と比べると貧相もいいところだろうが、気楽にしろ」
キッチンから良い匂いが漂ってくる。トマトと、これはお魚だろうか。
ノアの声が、匂いに混じって続く。
「ルーカスに言われていると思うが、我々は貴族の生活様式に疎い。部屋は用意をしたが、足りないものがあれば言ってくれ。揃えさせよう」
それで、言葉に詰まった。
一〇歳ぐらいから物置同然の部屋で過ごしてきたカオルも、貴族の様式なんてさっぱりわからなかった。なんとなく、『美味しいご飯とキラキラの服』ぐらいの雑な知識しかない。
「……すみません」
「なぜそこで謝るんだ。……とにかく、食事にしよう」
スープとパスタを二人分並べられて、ノアが向かいに座る。カオルはどうして良いかわからずに、とにかく俯く。腰まである髪を前に回して、顔を隠してしまいたかった。
「いい加減に名前を教えてくれないか」
「か、カオルと、申します……っ。イルミナ家、次女です」
「そうか。私はノア=エヴァンスだ。聞いているかとは思うが孤児院の出だから、親もいないし苗字も適当に付けただけ。言うなれば成金だな。がっかりしたか」
「いえ、その、あの……っ。すみません……」
気の利いたことの一つでも言えたら良いのだろうが、カオルの記憶に巣食っているのは、便所掃除と、展示と称した調教だけだ。
「……料理はどれもルーカスが作ったものだ。奴とは話はできたか」
「は、はい。とても良くしてくださって……。それなのに、その、眠ってしまって……」
「構わん。疲れたらいくらでも休め。それぐらいの自由は当然だ。……ルーカスの奴はもう少し自重をしろとは思うが」
目の前の旦那様は、相変わらず目つきが鋭い。だけど、言葉には棘がなかった。彼はスープに口をつけて、僅かに頬を緩める。
「相変わらず、料理は美味い。……安心しろ、毒など入っていない」
「えっと、その……私も食べて、よいのですか……?」
「逆になんだと思ってるんだ?」
「い、いえ……。ありがとうございます……」
食べて、いいんだ。
スープを、ひと匙掬い取る。湯気と一緒に野菜の匂いが鼻先に当たり、ようやく身体が、自分用の食べ物だと認識したようだった。くぅ、とお腹が小さく鳴る。
唇を湿らせるように口に含むと、何よりもまず、熱を感じた。
「……あったかい」
「それはまあ、いま火にかけていただろう……」
ぐじゅぐじゅでも冷たくもない。
スープは暖かく、野菜はしゃきしゃきとしている。そもそも、何かを噛むのが、何年振りだろうか……。
「甘い、美味しい……。美味しい、です……っ」
「どうした」
気づかないうちに、泣いていた。
いけない。テーブルが汚れる。お目汚しだ。わかっているのに涙は止まらず、カオルは口元を押さえて、大粒の涙を流す。
「……何がどうしたんだ。大丈夫か」
「申し訳、ありません……。すみませ、……っ」
「味に問題があったか? まあ、粗食ではあるだろうが……」
「い、え。違うんです……っ。美味し、いです……っ」
粗食だなんてとんでもなかった。人生で一番と言っても良いぐらいだった。
泣きながら、カオルはスープを飲み、不器用にフォークを扱ってパスタを巻く。食べるたびに、身体に熱がこもっていく。そして涙が、止まらない。
「カオル」
「……ぅ、……っ、は、い」
「食事を終えたら、シャワーを浴びると良い。疲れが取れるまで、ここで休め。この程度で良ければ、衣食住の保証はする。無論、逃げたくなったら逃げても良いが」
「……旦、ノア様。……ありがとう、ございま、す……っ」
「ああ」
ぐずぐずと遅いカオルとは対照的に、ノアはてきぱきと食事を終え、皿を重ねて水につける。
「食べ終わったら、同じようにしておいてくれ。私は自室にいるから、わからないことがあったら遠慮なく呼べ」
「はい……っ、あ、あのっ」
立ち去ろうとするノアに、本心から、祈るように、カオルは頭を下げた。
「どうか、これから、よろしくお願い、致します。……ノア様」
返事はなく、ドアが静かに閉められた。
(やってしまった……やってしまった……っ!)
時計があるというのに、まさか嫁いだ当日にこんな失態を……っ! こんなの実家でやっていたら、全裸で晒されても文句は言えない。
真っ青になって、カオルはぱたぱたと階段を降りる。
この家は、リビングとキッチンが一まとまりになっていて、階段がその横にある。カオルが降りると、キッチンに艶やかな金髪が見えた。
「起きたか」
低い声。振り向くと、ゾッとするほど端正な顔に、鋭い眼光。
がくがくと足が震えて、カオルはその場に平伏した。
「も、申し訳ありません! お出迎えしなければならないところ、給仕までさせてしまい、大変申し訳ありません……っ」
「落ち着け。席に着くといい」
「で、ですが……っ」
「同じことを二度言わせるな」
そう言われてしまえば、返す言葉もない。おずおずとカオルは席に着く。
沸騰した湯にパスタを入れて、金髪の男はもう片方の鍋をくるくると回す。どう呼ぶか悩んで、カオルはゆっくりと口を開く。
「あ、あの……旦那、さま」
「ノアで良い」
「ノア、様」
「……呼び捨てで良い、と言ってもお前は聞かなそうだな。それで、なんだ」
「どうか、お座りになってください。私が、やりますので……」
「良い。疲れていたのだろう。お前の実家と比べると貧相もいいところだろうが、気楽にしろ」
キッチンから良い匂いが漂ってくる。トマトと、これはお魚だろうか。
ノアの声が、匂いに混じって続く。
「ルーカスに言われていると思うが、我々は貴族の生活様式に疎い。部屋は用意をしたが、足りないものがあれば言ってくれ。揃えさせよう」
それで、言葉に詰まった。
一〇歳ぐらいから物置同然の部屋で過ごしてきたカオルも、貴族の様式なんてさっぱりわからなかった。なんとなく、『美味しいご飯とキラキラの服』ぐらいの雑な知識しかない。
「……すみません」
「なぜそこで謝るんだ。……とにかく、食事にしよう」
スープとパスタを二人分並べられて、ノアが向かいに座る。カオルはどうして良いかわからずに、とにかく俯く。腰まである髪を前に回して、顔を隠してしまいたかった。
「いい加減に名前を教えてくれないか」
「か、カオルと、申します……っ。イルミナ家、次女です」
「そうか。私はノア=エヴァンスだ。聞いているかとは思うが孤児院の出だから、親もいないし苗字も適当に付けただけ。言うなれば成金だな。がっかりしたか」
「いえ、その、あの……っ。すみません……」
気の利いたことの一つでも言えたら良いのだろうが、カオルの記憶に巣食っているのは、便所掃除と、展示と称した調教だけだ。
「……料理はどれもルーカスが作ったものだ。奴とは話はできたか」
「は、はい。とても良くしてくださって……。それなのに、その、眠ってしまって……」
「構わん。疲れたらいくらでも休め。それぐらいの自由は当然だ。……ルーカスの奴はもう少し自重をしろとは思うが」
目の前の旦那様は、相変わらず目つきが鋭い。だけど、言葉には棘がなかった。彼はスープに口をつけて、僅かに頬を緩める。
「相変わらず、料理は美味い。……安心しろ、毒など入っていない」
「えっと、その……私も食べて、よいのですか……?」
「逆になんだと思ってるんだ?」
「い、いえ……。ありがとうございます……」
食べて、いいんだ。
スープを、ひと匙掬い取る。湯気と一緒に野菜の匂いが鼻先に当たり、ようやく身体が、自分用の食べ物だと認識したようだった。くぅ、とお腹が小さく鳴る。
唇を湿らせるように口に含むと、何よりもまず、熱を感じた。
「……あったかい」
「それはまあ、いま火にかけていただろう……」
ぐじゅぐじゅでも冷たくもない。
スープは暖かく、野菜はしゃきしゃきとしている。そもそも、何かを噛むのが、何年振りだろうか……。
「甘い、美味しい……。美味しい、です……っ」
「どうした」
気づかないうちに、泣いていた。
いけない。テーブルが汚れる。お目汚しだ。わかっているのに涙は止まらず、カオルは口元を押さえて、大粒の涙を流す。
「……何がどうしたんだ。大丈夫か」
「申し訳、ありません……。すみませ、……っ」
「味に問題があったか? まあ、粗食ではあるだろうが……」
「い、え。違うんです……っ。美味し、いです……っ」
粗食だなんてとんでもなかった。人生で一番と言っても良いぐらいだった。
泣きながら、カオルはスープを飲み、不器用にフォークを扱ってパスタを巻く。食べるたびに、身体に熱がこもっていく。そして涙が、止まらない。
「カオル」
「……ぅ、……っ、は、い」
「食事を終えたら、シャワーを浴びると良い。疲れが取れるまで、ここで休め。この程度で良ければ、衣食住の保証はする。無論、逃げたくなったら逃げても良いが」
「……旦、ノア様。……ありがとう、ございま、す……っ」
「ああ」
ぐずぐずと遅いカオルとは対照的に、ノアはてきぱきと食事を終え、皿を重ねて水につける。
「食べ終わったら、同じようにしておいてくれ。私は自室にいるから、わからないことがあったら遠慮なく呼べ」
「はい……っ、あ、あのっ」
立ち去ろうとするノアに、本心から、祈るように、カオルは頭を下げた。
「どうか、これから、よろしくお願い、致します。……ノア様」
返事はなく、ドアが静かに閉められた。
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