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川口直人 56

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「よし、では早速2人の婚約について話を勧めていこう」

常盤社長の言葉に耳を疑った。

「待って下さいっ!いきなり婚約の話ですか?!その前に業務提携の話が先ではないでしょうかっ?!」

「直人…」

父が悲しげな目で俺を見ている。

「ああ、その話は2人が婚約してしまえば何も問題はないだろう。何しろ私達は親戚関係になるのだから。そうだろう?恵利」

常盤所長が娘を見る。

「ええ、そうね」

「ですが、いきなり婚約なんて…!」

「先程、どんな命令でも聞くと言ったのは何処の誰だったかな?」

常盤社長の冷たい笑みに俺は背筋がゾッとした。

「そんな…」

「遅かれ早かれどうせ私達は結婚するんだから、別にいつ婚約したって構わないでしょう?」

社長令嬢はじろりと俺を見た。あまりにも身勝手な言い分で言葉を無くしてしまった。

「とにかく、直人君。恋人とはすぐに別れるのだぞ?君は今日から恵利の婚約者になるのだから」

まるで鬼のような台詞を常盤社長が言い放つ。

「あら、でもそうなると連絡を入れろという事になるじゃない。駄目よ、それでは」

「何ですって…?それならどうやって恋人と別れろと言うのです?」

俺の質問に令嬢は笑みを浮かべた。

「決まってるじゃない。金輪際、一切連絡を取ることは許さないから。恋人からの着信は一切拒否すること。そして今住んでいる部屋も解約するのよ。彼女からの連絡を一切断ってちょうだい」

「!」

「いきなり別れも告げさせずに…連絡を断たせるつもりですか?それでは直人があんまりです…。どうか最後のお別れくらいは言わせてあげられないのでしょうか?」

驚いたことに父が口を挟んできた。

「いいえ、認めらません。もうこの人は私の婚約者になったのです?もし約束を破ったら…ねぇ?お父さん?」

「ああ、そうだな。川口家電を買収させてもらう」

常盤社長は冷酷な声で、そう告げた―。


****


「…済まなかった…直人…」

社長室を出てエレベーターに乗り込むとすぐに父が頭を下げてきた。

「…」

絶望していた俺は返事を返すことが出来なかった。

「まさか…常盤社長にこんな提案を受けるとは思わなかったんだ…」

「父さんが…業務提携の話を常盤商事に持ち込んだ時に…既に先方は色々調べていたんじゃないかな…。少しでもメリットがあるかどうか…」

それで俺に目をつけたのか…。

「だが…まさかお前に結婚を考えていた恋人がいたなんて…どんなお嬢さんなんだ?」

「父さん…それを今の俺に聞こうと言うのか?俺はもう彼女と別れなければ行けないのに?会うことも…最後の別れすらも言わせて貰えないのに…?」

つい、恨みめいた言葉が口から飛び出してしまう。

「す、済まなかった!お前の気持ちを何も考えずに…本当に済まない…」

父はエレベーターの中で何度も俺に謝罪をしてきた―。



****

 19時―

 父と一緒に実家に行き、今日の話し合いの経緯を父と2人で母に説明した。母は俺に申し訳ないことをしたと言って泣いて謝罪してきたが…もう今となってはどうでも良いことだった。

いくら謝罪の言葉を貰っても…もう俺は二度と鈴音の前に立つことが出来ないのだから。
その後は父と2人で今後の事について話し合い、母からは食事をして帰るようにいわれたが、俺はそれを断り実家を後にした―。


 重い足取りで俺はマンションの前に辿り着き、隣のマンションに住む鈴音の部屋を見た。カーテンの隙間からは光が漏れている。

「鈴音…もう部屋に帰っていたのか…」

そんな鈴音の部屋を見ていると涙が溢れてきそうになった。鈴音とはあの日以来、連絡を取り合っていなかった。会社の事が落ち着けば、また2人で恋人同士の時間を過ごせることが出来ると…それだけを励みに頑張ってきたのに、もう…姿を見ることも声を聞くことも叶わなくなってしまった。

「鈴音…ごめん…」

俺は鈴音の部屋を見上げ…涙した―。
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