上 下
1 / 57

1.夫の帰宅

しおりを挟む
夫が宰相様の代わりに隣国へと赴いたのは一年以上前のこと。

『一週間だけだから。なるべく早く帰ってくるよ』と笑顔で言った夫に私も笑顔で見送った。

だが彼は帰ってこなかった。



隣国から帰る途中で彼の乗っていた馬車は崖崩れに巻き込まれ、彼だけでなく同乗していた全員が落石ごと川に流された。

そのままみな行方知れずとなり、誰も見つかった者はいない。

激流はすべてを飲み込み、必死の捜索にも関わらずなにも発見できないまま一年が経過してしまった。


周りの誰もが彼の生存を諦めている。

『マリア、必死の捜索にも関わらず見つからないのよ。もうそろそろ現実を認めて前に進みなさい。このままではあなたのほうが倒れてしますわ』

『君はまだ若いんだ。人生をやり直すことは出来るよ』

親切な人達が口々に慰めてくる。
彼らは本当に私のことを心配して善意からそう言ってくれている。
それは分かっているけれど私はその言葉に頷くことは出来なかった。


何らかの事情で生死の確認が取れない状態が一年以上続くと貴族は死亡手続きを取ることができる。
領地経営や跡継ぎの問題など放置したままでは争いの火種になってしまうからだ。

だから親族達は手続きを促してくる。


夫とともに行方知れずになった者達の家族は一年掛けて気持ちの整理をつけ、行方知れずとなった一年後に死亡手続きを行った。

それは貴族であれば混乱を防ぐために当然のことで、薄情なことではなかった。


誰もが必死に探し生存を願っていたのは知っている。
でも手掛かりのひとつも見つからないということは生きていないと考えても仕方がない状況だった。


だからみな私にも夫の死を受け入れるべきだと進言する。そこには善意しかない。


 分かっている、…分かっているわ。
 でも、もしかしたら。
 …生きているかもしれない。


私は夫であるエドワードの死を頑なに受け入れなかった。



彼と私は貴族では珍しく恋愛結婚だった。夫であるエドワード・ダイソン伯爵との出会いは友人に強引に誘われて参加した夜会だった。

喧騒から逃れてバルコニーにいる私に彼は話し掛けてきた。

『珍しいですね、こんなところでお一人ですか?』

この人も軽い人だろうなと警戒する私は返事を返さなかった。失礼な態度だと承知していたけど、迂闊に返事をして彼のペースに巻き込まれたくなかった。

『…っ…、い、いや、そうなつもりはなくて。
私はただ困ったことがあるなら大変だと思っただけで。驚かせてすまなかった。
だが下心とか全然ないから俺は、いや私は…』

キツイ眼差しを向ける私に彼は慌てていた。
素が出てしまったを慌ててに言い直す様子が叱られた子供のようでおかしかった。確かに下心がある人はこんな風に慌てたりしないだろう。

『ふふふ、失礼しました。私はマリア・クーガーと申します』

『あ、名乗っていませんでしたね。私はエドワード・ダイソンです』


こんな出会いから始まった私達だけれど、この出会いは運命となった。


お互いに愛を育み、彼から求婚され私はそれを受けた。家柄も伯爵同士だったので、周囲からも反対されることもなく婚姻を結んだ。



幸せな結婚生活を送り、二人であとは子供を待つだけだと笑い合っていた。
それはきっとあと少しで現実となると信じていた。


それなのに隣国へ行った夫はいまだ帰ってこない。



周囲は私がダイソン伯爵家を出て新たな人生を送ることを望んでいる。

私の両親も『帰ってきなさい』と言ってくれ、娘の傷が癒えるまで見守ろうとしてくれている。

義父母も義弟も『もういいから、有り難う』と言ってくれる。その表情は『息子』『兄』の死を受け入れたうえ、『義理の娘』『義姉』である私を心から心配してくれるものだと分かる。



だけど私は優しい彼らの言葉を聞き流す。

私まで夫の死を受け入れてしまったら彼が本当に死んでしまう気がしたから。

頭では分かっている。もう行方不明のまま一年が経ったのだからきっと彼は…。

でも心はそれを受け入れることはない。

『なるべく早く帰ってくる』と言っていた夫の甘い声音を忘れられない。
『愛しているから離れるのが辛いよ』と囁いて抱きしめてくれた彼の温もりがまだ残っている気がする。

だから…彼は私のもとにきっと帰ってくる。


 生きて戻ってくれるわ。
 きっと『遅くなってごめん』と謝ってくれる。
 そうよね、エドワード…。






社交界では夫の死が既成事実のようになっていた頃、私達のもとに嬉しい知らせが舞い込んできた。

それは彼の生存の知らせで、こちらにすでに向かっているということだった。
知らせを届けてくれた者も詳しいことは何もわからないようだけど『ご本人が生きていることは間違いありません』と断言してくれた。


 エドワード…、生きていてくれた…。



彼の生存の知らせを誰もが喜んでいた。

そして彼がいつ隣国から帰ってきてもいいように準備を整える。
彼が好きな食材を揃えていつでも調理できるようにし、まだ傷が癒えていないのかもしれないから医者にも待機してもらった。


隠居している義父母と義弟と一緒に王都にある屋敷で彼の帰宅を今か今かと待っている。



そしてその日はすぐにやってきた。


屋敷の前に停まった一台の粗末な馬車から質素な身なりの男性が降りてくる。

それは紛れもなく夫であるエドワードだった。


 ああ…神様、有り難うござい…ます。

 
「エド!」

彼の名を呼びながら傍に駆け寄る。
私はいつも彼の帰宅を抱擁で迎えていたから、久しぶりの再会も温かい抱擁で迎えるつもりだった。


だけど私は彼を抱きしめることができなかった。

彼は駆け寄る私に背を向け、馬車から降りてくる人物に手を差し出していた。

そして彼の手を借りて降りてきたのは質素な身なりの女性で、その腕には生まれたての赤ん坊が抱かれていた。

『ふぎゃ…ふぎゃ…』と泣く赤ん坊に優しく声を掛けるエドワード。


「ほらほら泣くな。大丈夫もう着いたから馬車は終わりだぞ」

「よしよしいい子ね。お父様がそう言っているんだから泣き止みましょうね。ねえあなた、早くこの子をベットで寝かしてあげたいわ」

「ああそうだな。君もこの子も長旅で疲れただろう」

その会話は三人がどんな関係なのか物語っていた。



 …どうして…。
 エド、…こっちを見て。
 私はここ……よ。


私は愛する夫が目の前にいるのに声を掛けることは出来なかった。
誰もが立ち尽くしたまま動けなかい。


視界が暗転しその場で崩れ落ちていく。薄れゆく意識のなかで義父母や義弟や使用人達の声が聞こえてきた。

「マリア、マリアしっかりして」

「義姉上、お気を確かに!」

「奥様、奥様!」

みな心配する余り、叫ぶように私に呼び掛けている。

だが愛する夫の声だけはなぜか聞こえてこなかった。

いつも『マリア』と優しく呼んでいてくれたのに。どんな時も私の名を一番に呼ぶのは彼だったのに。

彼は私のもとに帰ってきてくれたはずなのに、どうして私の名を呼んでくれないのだろう。

それとも…これは夢なのだろうか。
夢ならもっと優しい夢を見たかった。
こんな残酷な夢はいらないのに…。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

2番目の1番【完】

綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。 騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。 それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。 王女様には私は勝てない。 結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。 ※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです 自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。 批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…

王妃の手習い

桃井すもも
恋愛
オフィーリアは王太子の婚約者候補である。しかしそれは、国内貴族の勢力バランスを鑑みて、解消が前提の予定調和のものであった。 真の婚約者は既に内定している。 近い将来、オフィーリアは候補から外される。 ❇妄想の産物につき史実と100%異なります。 ❇知らない事は書けないをモットーに完結まで頑張ります。 ❇妄想スイマーと共に遠泳下さる方にお楽しみ頂けますと泳ぎ甲斐があります。

妻の死を人伝てに知りました。

あとさん♪
恋愛
妻の死を知り、急いで戻った公爵邸。 サウロ・トライシオンと面会したのは成長し大人になった息子ダミアンだった。 彼は母親の死には触れず、自分の父親は既に死んでいると言った。 ※なんちゃって異世界。 ※「~はもう遅い」系の「ねぇ、いまどんな気持ち?」みたいな話に挑戦しようとしたら、なぜかこうなった。 ※作中、葬儀の描写はちょっとだけありますが、人死の描写はありません。 ※人によってはモヤるかも。広いお心でお読みくださいませ<(_ _)>

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。

しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。 私たち夫婦には娘が1人。 愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。 だけど娘が選んだのは夫の方だった。 失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。 事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。 再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。

幼馴染みとの間に子どもをつくった夫に、離縁を言い渡されました。

ふまさ
恋愛
「シンディーのことは、恋愛対象としては見てないよ。それだけは信じてくれ」  夫のランドルは、そう言って笑った。けれどある日、ランドルの幼馴染みであるシンディーが、ランドルの子を妊娠したと知ってしまうセシリア。それを問うと、ランドルは急に激怒した。そして、離縁を言い渡されると同時に、屋敷を追い出されてしまう。  ──数年後。  ランドルの一言にぷつんとキレてしまったセシリアは、殺意を宿した双眸で、ランドルにこう言いはなった。 「あなたの息の根は、わたしが止めます」

別れ話をしましょうか。

ふまさ
恋愛
 大好きな婚約者であるアールとのデート。けれど、デージーは楽しめない。そんな心の余裕などない。今日、アールから別れを告げられることを、知っていたから。  お芝居を見て、昼食もすませた。でも、アールはまだ別れ話を口にしない。  ──あなたは優しい。だからきっと、言えないのですね。わたしを哀しませてしまうから。わたしがあなたを愛していることを、知っているから。  でも。その優しさが、いまは辛い。  だからいっそ、わたしから告げてしまおう。 「お別れしましょう、アール様」  デージーの声は、少しだけ、震えていた。  この作品は、小説家になろう様にも掲載しています。

愛しのあなたにさよならを

MOMO-tank
恋愛
憧れに留めておくべき人だった。 でも、愛してしまった。 結婚3年、理由あって夫であるローガンと別々に出席した夜会で彼と今話題の美しい舞台女優の逢瀬を目撃してしまう。二人の会話と熱い口づけを見て、私の中で何かがガタガタと崩れ落ちるのを感じた。 私達には、まだ子どもはいない。 私は、彼から離れる決意を固める。

処理中です...