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33. 秘された儀式

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ふぁ…、とレオノアが小さくあくびを噛み殺すと、キャサリンが目ざとくそれに気づいた。

「珍しいわね。どうかしたの?」
「ん……昨夜眠れなかったの」
「そうよねえ。いよいよ明日だものね」
「………ええ」
「緊張しているの?」
「………」
「今日は眠れそう?」
「寝なきゃダメって、エミリーが」
「うふふ。お化粧のノリも違ってくるもの。そりゃあ言われるわね」
「そう思うと、余計に眠れなくなりそうなの……」

眉尻を下げた娘のあまりのかわいらしさに、キャサリンは堪えきれず声を上げて笑った。

いよいよ明日は婚姻の儀だ。最終の衣装合わせも終わり、ブーケや小物も全て揃えられている。
ドレスはもちろん白。三カ月という異例の短期間で降嫁することになり、一番慌てたのは衣装を作る係の者たちだろう。

城内には、王族の衣装作成を担当する部署がある。そこで働くものたちは「お針」と呼ばれ、古くは嫁いできた王妃のためにと人を割いたのが始まりだったようだ。レオノアの誕生で更に腕に覚えのあるものが集まり、日々衣装づくりに骨を折っている。

「お針」たちは技術だけではなく、美意識が秀でていなければ務まらない。キャサリンの命で国外へ留学するなどして視野を広げ、今ではリングオーサの王族が流行を作るとまで言われていた。

そのリングオーサ唯一の姫の輿入れだ。「お針」たちの力の入りようは尋常ではない。キャサリンの指揮の下、最高級の素材でレオノアの可憐さを最大限に引き出すドレスが完成していた。

「素敵なドレスだったわね」
「ほんとうに!ありがとうお母さま。デザインも考えてくださったんでしょう?」
「イメージだけね。後は任せたのよ。そうしないとお針たちに怒られちゃうもの」
「…………お針たち、ものすごく頑張ってくれていたから……」
「そうよ。たった三カ月しか無かったけれど、それを言い訳にすることは絶対にしないわね。だからレオノア。あなたの役割は明日の式であのドレスを着こなすことよ。ちっとも難しいことじゃないわ。だって、ウィルのことが好き~って、そう思っていたらいいんだもの。できるわよね?」

キャサリンの瞳がいたずらっぽく光った。揶揄われているのが分かっていても赤面してしまうレオノアは、それでも必死で言い返す。

「そっ、それはそうかもしれないけれど!でも私……ちゃんとできるかしら。ウィルのことを、す、好きって思っていても……」
「失敗しちゃうかもしれない?」
「…………ん」
「誓いの言葉を言い間違える?それとも指輪を落としちゃうとか?あ、もしかして、祭壇に向かう途中でドレスの裾を踏んで転んじゃったり?そういうことを心配しているの?」
「もう!お母さま!!」

唇を尖らせるレオノアを見て、キャサンが笑みを深くする。

「いい?レオノア。考えるの。今言ったようなことをもしレオノアがしたとして…………ウィルはどうするかしら?呆れて立ち去ってしまう?もうそこで式は終わり?」
「…………」
「違うでしょう?あなたが言葉を言い間違えても、指輪を落としても。ウィルの手を取る前に転んじゃったとしても……。ウィルが必ず助けてくれるわ。どう?」
「…………」
「レオノア。人生には色んな困難なことが待っているわ。人間だもの、間違うことや失敗することも沢山ある。大切なのは、間違わないことや失敗しないことじゃないの。間違った時、失敗した時。その後、あなたがどうするかなのよ」

優しい目でレオノアを見た。

「あなたはとても幸運だわ。だって、ウィリアムがずっと側にいてくれるんだもの。だからこそ、私やカールや……エドワードにフィリップも。あなたをウィリアムに託せるのよ。そうじゃなきゃ、誰が大事なレオノアを嫁がせたりするものですか。そうでしょう?私のかわいい子。……世界で一番かわいい子」
「ふふっ。兄さまたちは世界一じゃないの?」

頬にキスされて、くすぐったそうにレオノアは首を竦めた。

「あら!決まっているじゃない。うちには世界一が三人もいるのよ。全員世界で一番の子どもたちだわ。私は幸せものね」

恥ずかし気もなく言い切る母に、両手で口を押えてクスクス笑う。レオノアの心にあった緊張感はいつの間にか溶け、期待と喜びへ変わっていった。その様子を優しく見守っていたキャサリンが、思いだしたように言う。

「……そういえば、今夜は儀式があるんですって?」
「ええ。ウィルと、お父さまと三人で。お母さまが結婚なさったときにもあったの?」
「いいえ。私の知る限り、王族の婚儀の前に特別な儀式が必要だとされたことは今まで無いはずよ」
「そうなのね!…………私、何も知らなくて……」
「必要なことはカールが教えてくれるでしょう。そこは心配しなくてもいいのだけれど……」

儀式と言いながら司祭を手配した様子もない。王家に伝わる極秘の、ということであれば、王太子であるエドワードの同席が許されてもよさそうなものだが、あくまでも三人だけで執り行うという。どのような意味のある儀式なのか。尋ねようかとも考えたキャサリンだったが、答えられないと分かっている問いで夫を困らせたくもなかった。

「お母さま、ウィルと二人一緒だもの。私は大丈夫よ?」

首をかしげるレオノアを見る。あの日――挫いた足の痛みは左程でもなく、無理をすれば出席できる程度だったというのに、ふと思いついてレオノアを代理に立てたあの戦勝祝賀会から、随分色んなことがあった。
あの頃はまだ幼げな様子だったのに、今では本当に大人びたものだ。匂いたつような色香を纏い、母親でさえドキリとする程の美しさだ。たった三カ月で女は変わるものだと、改めて感心しながらキャサリンは同意した。

「それもそうね。仰々しくしないための少人数かもしれないわ」

他に理由があるに違いないと思いながらそう言ってみる。王として立つ夫の、思惑を簡単に明かすことが許されない孤独を思いやった。明日はいよいよ婚姻の儀が執り行われる。リングオーサでは初めての、祝福された幸福な王女として嫁ぐレオノアだ。寂しさはない。あるのは母として、娘を見送る誇らしさ。幸せになって欲しいとの思いを込め、キャサリンは固く娘を抱きしめた。














「すごい……!」

礼拝堂の設えに、レオノアが感嘆の声を上げた。

明日の婚儀に向け、全ての準備が整えられている。祭壇に至る通路には花が飾られ、壁には光沢のある白い布がドレープの影も美しくたっぷりと配されている。

「通路の布が敷かれるのは明日なんだね」
「そうみたい。でも……このろうそく……すごいわ……!」
「ああ。本当に幻想的だ」

幻想的。その一言ではとても言い表すことはできない、この幽玄たる空間。
高い天井には美しい絵が描かれている。神話の物語。神の庇護と愛と……怒り。極彩色で天井に描かれたそれが、地上に置かれた夥しい数の蝋燭でゆらめき、あたかも生あるもののように見えた。だが何よりも美しいのは、自分の隣でうっとりと天井を見上げているレオノア――明日、ようやく自分の妻となる王女だ。
黄金の波うつ髪は光を集め輝く部分と、影となってほとんど黒く見える部分とに分かれている。日の光の下では鮮やかな緑の瞳は、今は深みを増してきらめいていた。

ああ……明日になれば……!!
どれだけ焦がれてきたことか。自分の望みは昔から唯一つだけ。それが長い時を経て、ようやく叶えられるのだ。
触れたくて疼く腕を懸命に押さえつける。今抱きしめてしまえば、思いのままに貪りつくしてしまうだろう。レオノアの柔らかく甘やかな肌を嬲って痕を残し、熟れきった果実のように汁気の多いあの場所へ欲望を突き立て…………。

獣さながらの薄汚い思いを自覚し、ウィリアムは薄く笑った。それに比べてレオノアのこの無垢さはどうだ。辺りを見回しては些細なことに喜び、同意を求めて婚約者を見上げては笑顔を浮かべている。さもレオノアの想いを理解している顔をして頷くウィリアムだが、その実頭に思い浮かべているのは一月半前に抱いたきりの、愛しい姫の白い身体だった。

花嫁となるレオノアは、身を隠していたことで忙しさが倍増し、ウィリアムと会う時間を作ることもままならなかった。一方、ウィリアムも婚儀から1カ月は休暇を取るため馬車馬のように働いていた。辛うじて週に一度のお茶と、互いに書き送る手紙とで思いを伝えあってきた。そんなもどかしい日々もようやく終わる。

「……二人とも、こちらへ」

いつの間にそこに居たのか、カールが祭壇から二人を招いている。ウィリアムとレオノアは一瞬目を合わせると、手を取り合って祭壇へ向かった。
叫べば反響するほどの広い礼拝堂にたった三人。厳粛な気持ちにはなれど恐ろしさを感じないのは、数えきれないほど灯された蝋燭のせいだろうか。窓の外は夜の闇に閉ざされている。完全な異空間にあるようで、知らず声を潜めた。

「お父さま、それは……?」

カールの手にあるものに気付き、レオノアが尋ねる。そっと差し出されたそれは、いかにも重みのありそうな、手のひらを覆うほどの大きさの石だった。

「……エメラルドの原石ですか?」

横から覗き込んだウィリアムが言う。蝋燭の灯りの下で、それはレオノアの瞳と同じく深い緑色にきらめいている。

「二人とも、これをよく見るんだ。………何色に見える?」
「え?……エメラルドでしょう?緑色よ」
「はい。大変上質なものに見えます。鮮やかな緑色ですね」
「そうか……。ではレオノア、手を出してごらん」

右手を差し出したが、乗せられた原石の重みに思わず左手を添えた。咄嗟に助けようとしたウィリアムをカールが制し、レオノア一人に持たせると、石と手を白い帯でくるくると覆った。

前に差し出したままの体制では石の重みに耐えられなかったのだろう。両肘を引き身体に近づけて、下唇を噛んでいるところが可愛らしい。だが。

「…………陛下、」
「もうしばらく待て」
「………だ、いじょうぶっ!」

プルプルしながら待つこと数分。ようやく王が帯を外し石を受け取った。ハーッと大きく息をついたレオノアの額には薄く汗が滲んでいる。その汗を舐めとりたい、と不埒な思いを抱くウィリアムに向かって石が差し出された。

「見てみろ。何色に見える?」

二人でじっと見つめる。

「…………先ほどと、何も変わっていないように見えます」

レオノアも頷いている。それを見たカールはしばらく手の中の石を矯めつ眇めつした後、今度はウィリアムの手のひらの上にそれを乗せた。

「わぁ……!!」

白い帯で巻くまでもなく、ウィリアムの手に触れたとたん、それはたちまち赤く色を変えた。

「これは………」
「……アレキサンドライトだ」

太陽の光の下では緑、人工の光の下では赤く色を変える稀少な宝石だった。つい先ほどまで緑色をしていたそれは、蝋燭の光の中で見事に色を変え鮮やかな赤い輝きを放っている。

「もしや、神話の……」
「ああ。女神の娘と、男の姿が消えた後に残されていたという石だ。アレキサンドライトと言われていたが、今日まで赤い色が出ることが無かった。…………そうか。やはり本当に……」
「では、儀式というのは」
「この石の変色効果を見るためだ。女神の悲しみが癒え、女神の娘が真に愛する者とともにあるとき、この石は本来の姿を――アレキサンドライトとしての輝きを取り戻すと言われていた。しかし……」
「ほんとうは、私が……色を変えるはずだったの?」

大きく目を見開き、レオノアが言う。怯えに似た口調に、ウィリアムはハッとしてその顔を見た。

「そうなのでしょう?本当のことを教えて」
「……そうだとも言えるし、違うとも言える。伝承ではどちらが石の色を変える、と明確には伝えられていないのだ」
「…………じゃあ、色を変えたのが私じゃなくてウィルでも、婚姻の儀式は成功したと思ってもらえるの?」

婚姻の儀式。ウィリアムはもちろん、王も兄たちも明確には伝えていないそれが、婚儀の条件だと知っていたのだろう。自分が王女として顕すはずだったろう奇跡の成否ではなく、レオノアの不安はそこだったのだ。胸が痛くなるほどの愛おしさに、ウィリアムは手の中の石を放り出して今すぐ抱きしめたい衝動と戦わなければならなかった。

「儀式は成功した。そなたたち二人は間違いなく、心から愛し合う者同士として婚儀の日を迎えることとなる」

ほっとしたように笑顔になったレオノアの腕を、父王が引き寄せ抱きしめた。

「とうさま、ありがとう。……私、ウィルと幸せになるわ」
「…………レオノア……!」

ウィリアムは手の中の赤い石を見つめていた。おそらく、女神の娘が触れて赤く変わるはずだった伝説の宝石を。そして思いだす。禁魔術を使い、黄泉路へと足を踏み入れたウィリアムが力尽きようとした時、レオノアが持たせてくれた赤い石。魂寄せを行ったサー・ダマレルが言っていた。誰かの強い加護が与えられている、それが無ければおぬしを助けられなかったかもしれんと。


抱擁を解いた王に石を返すと、ウィリアムはレオノアを――自分にとっては何にも代えがたい宝石を――抱きしめた。

「どうしたの?」
「…………君のことが大切で、愛おしすぎて……どうにかなりそうなんだ」

ふふ、と笑うレオノアの声にすら、胸をかきむしりたくなる程の愛が溢れて圧倒されそうだ。喉の奥に熱いものがこみ上げ、必死でそれをやり過ごした。

「誰よりも、何よりも君を愛することを誓うよ。魂のある限り、永遠に」

ウィリアムは一足早い誓いの言葉を告げると、万感の思いを込めて花嫁にそっと口づけた。
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