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9. 暗黒のグリフォン①

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泣きやんだと思ったら眠っていた。

涙の跡を唇で辿り、赤くなった目元を指先で撫でる。滑らかな肌は水蜜桃のように芳しく甘い。こらえきれなくなったウィリアムはもう一度、首すじから耳元、小さな輪郭を余すところなく味わい、最後に薔薇色の唇を食むように口づけた。

華奢な身体を抱き上げて目線で合図する。察しよく寝室へ続く扉を開けた侍女は、天蓋の薄布を手早く束ねると上掛けをまくった。

この上なく丁寧に寝台へ下ろす。身体が敷布に触れる直前で、侍女がレオノアの長い髪を捧げ持つようにまとめ、枕の横に流した。

膝をつき、そっと髪を撫でながら寝顔を見る。随分大人びたと思っていたが、目を閉じればあどけなさが際立ち、不可侵の存在だった頃を思い出す。

口づけのし過ぎで赤くなった唇。

無垢な王女の思いもよらない媚態に煽られ、踏み込むつもりも無かったところまで踏み込んだ自覚はある。計算ではない無垢さからにじむ色香に惑い、せめて今日くらいはと自制していたはずの箍は容易く弾け飛んだ。

怖がらせないようにゆっくりと進めるつもりで、祝賀会でも手を握るだけで堪えたというのに。

長い睫毛を瞬かせて見上げる、鮮やかな緑の瞳。周囲の雑音は消え失せ、空気さえ薄くなったように感じ息苦しさに目眩がした。焦がれた王女を攫い、我が物にしたい思いを懸命に堪えた。
その挙句の、この暴力的なまでの衝動。

…………無論、微塵の後悔もないが。

永遠に見つめていられる愛しい王女の頬にもう一度口づけを落とす。立ち上がろうとして思い直し、額、両まぶた、両頬に唇を触れさせ、昏い満足感を胸に今度こそ立ち上がった。

「レオノアを頼む」

短く告げると心得たように侍女が一礼した。レオノアに心酔し、母のように姉のように甲斐甲斐しく世話をすると知っている。細かい指示を出さない方が、却ってこちらの思うとおりに動くことだろう。

扉の横には王太子の犬と、ニヤつくオスカーが立っていた。一瞥して部屋を出る。扉が閉まったとたん、歩き去ろうとするウィリアムの背に声がかかった。

「閣下」

ぴた、と歩を止め、半身だけ振り返った。問い返すことはしない。馴染みの団員ですら震え上がる視線にたじろぐことなく、フレデリックは言葉を続けた。

「今後、王女殿下にあのようなことを…なさる時にはまず人払いを。殿下がお気の毒です」

黙ったまま、氷のようとも刃のようとも称される視線を容赦なく向ける。さすがに動揺したように瞳が揺らぎ、額に薄く汗が浮かんだ。

「あーダメダメ。あれわざとだから」

横手からオスカーが笑い混じりに答える。フレデリックは凍りつくような視線からようやく逃れ、言葉の主を見た。

「……わざと、ですか」
「そー。分からなかった?この人めちゃくちゃ分かりやすいのに。王太子殿下に嫉妬して、仕返ししようとしたからわざと人払いもせずあんな事したの。王太子殿下が耳にしたら絶対ダメージ大きいじゃない。あーんな溺愛しまくってる姫さまが、自分から進んで男の、しかもキングズレー公爵家の忌み子に抱きついてトロットロにされちゃうなんてさ」
「…まさか、私に見せるために……!?」
「ご明察」

踵を返し歩き出そうとしたウィリアムを、慌てたようなオスカーが引き止める。

「ちょっ!待ってくださいよ団長!まだ話終わってないでしょうに。ここでキッチリ言っとかないと後で面倒くさいことになるんだから」

ホントに姫さまのこと以外に興味ないんだから、とぶつくさ言う。

「あー……何だったっけ。あ、そうそう。わざとだよ、フレデリック・ホルス・ブラックウッド卿。って言っていいのかな?……貴族社会って難しいね。敬称だけでもいっぱいあり過ぎてさ。あ、今はこの名前使ってないんだよね?5年前から」

にやり、と笑うオスカーに、信じられないものを見る目のフレデリックはごくりと唾液を飲み込んだ。

「……何を知っている」
「えー?何ってそんなの全部に決まってるじゃないの」
「……全部、だと」
「全部だよぜんぶ。ああもう!話が進まないから言っちゃうけど。ギルニアに堕とされた東のナジェンラの亡命の王子だよね?非嫡出だからって侯爵だか伯爵だかの家で実子として育てられ、その為に命からがら生き延びた。ナジェンラではその存在は秘されていた……ってのは表向きの話で、王の実子であることが記された印璽つきの文書と、形見となった王の剣を手に、伝手をたどってリングオーサに来たんでしょ?国の再興を心に誓い、フレデリックとしてさ」

もはや言葉も出せないフレデリックを、オスカーは楽しげに見遣る。

「で、他国侵略しないのがモットーのリングオーサの王太子に全てを明かし、側近くで時が来るのを待つことになった。いやー、何考えてるんだろうね王太子殿下も。人がいいにも程があるって。そんな訳ありの亡国の王子を腹心に据える?ウチの団長なら一瞬でコレだよ」

コレ、と言いながら親指を立てて自分の首を横にクイと引き、死を表すジェスチャーをした。

「まあでも、頼る先としては正解だよね。この国って豊かなのに欲が無いっていうか、ガツガツしてないもん。これはあれだよ、王女殿下のおかげでしょ。殿下が産まれるまでが長かったから。おお、女神ヘルベティアよ。海神オケイアスよ。あなたがたの与える恵みに感謝します。あなたがたの良きしもべとして正しく暮らします。どうか伝説の王女をこの地にお戻しください…って願って願って、ようやく産まれたのがあんな、此の世の者とは思えないような美貌の姫。そりゃあさ、女神の娘の生まれ変わりだと思うって。万が一にもまた天に帰ったりされないよう、侵さず、欲さず、正しい行いをしようとするよ、間違いなく」

妙に赤い唇をぺろりと舐めた。

「で、従騎士に身をやつして鍛錬を続け、やっと巡ってきたこの機会に、戦いに身を投じナジェンラの王の仇を討つつもりだったのに!フタを開けたらウチの団長がさー。ほんとゴメンね空気読めなくて。この人、目的の為には手段選ばないから。いつもなら絶対出さないような術式展開して瞬殺だよ。周りにも美味しいとこ、ちょっとくらい残しとけっての」

喋り続けるオスカーを興味無さげに横目で見ていたウィリアムは、今度こそ背を向け歩き始めた。

「あッ!団長!あーもう。飽きっぽいんだから。……ってことでフレデリック王子。さっきの件は王太子殿下に言っても言わなくてもどっちでもいいよ。どのみち分かっててやったことだしさ。あの人独占欲バリバリだから、ほんとはあんなところ他の男に見せたくないのが本音だろうけど。王女殿下の顔、絶対自分以外に見えないようにやってたから。声出すなって言ってたのもそう。まあ、後からやっぱり腹がたつからコロす、ってなっちゃう可能性もゼロじゃないけど…もう関係ないよね?もうすぐ目的達成できてお国に戻れるんでしょ?ウチの団長もさすがに、他所の国まで遠征して焼きもちの後始末する程ヒマじゃないから。……うん?…うん、多分」

自問自答するようにつぶやいたオスカーは、遠ざかるウィリアムの後ろ姿を追って歩き出し、ふと思い出したように振り返った。

「あ、あとさ、王子様はリングオーサの人間じゃないから知らなかったんだろうけど、団長にヘタなこと企んじゃダメだよ。知ってる?団長の二つ名」

全身から吹き出す冷や汗を拭うこともできず、数回唾をのんでから、ようやくフレデリックは声を絞り出した。

「……漆黒の、貴公子、と」
「あー違う違う。それ表向き。女の子たち好きだからさーそういうの。そっちじゃなくて。王家に近い人間はみんな知ってる。禁句だし門外不出?口外厳禁?問答無用?…うーん。何だっけか。もうこの際何でもいいや、みたいな扱いだけど」

ハハッと声を出して笑う。

「暗黒のグリフォン。絶対に怒らせちゃダメな人だよ。覚えておいて」

今度こそ靴音を響かせながら走り去るオスカーを見送ったフレデリックは、壁にもたれていた体をズルズルとこすりつけるようにして王城の廊下にしゃがみ込んだ。

何だあれは。何だあれは。何だあれは。

自分の身分はナジェンラ国内でも、ごく限られた人間にしか知られていなかった。亡命の直前に印璽のつかれた文書と剣をフレデリックに託したのは、育ての親だった侯爵だ。しかも大尉の地位にあった侯爵は自分も戦うと主張するフレデリックに国の再興を約束させ、脱出したのを確認した後討ち死にしたと聞いている。

リングオーサに入った後、その文書を使いエドワードに接触を図ったのは、フレデリックと共に入国した男だった。ナジェンラ王家に密偵として長く仕え、万が一の時のためにリングオーサの王族にも繋ぎをつけていたらしい。

相手は一国の王太子だ。印璽のお墨付きがあるとしても面会するのは容易ではないと覚悟していたフレデリックの前に、エドワードは僅かな護衛をつけただけで現れた。
驚くフレデリックにエドワードは、攻撃に特化した魔力を持つ自分を傷つけるなど、お前にできるはずがなかろうと鼻で笑った。

それにフレデリックはしびれた。その傲慢とも言える振る舞いに。強烈な自負に。ナジェンラ復興に最も必要なものはこの、思わずひれ伏したくなる気持ちにさせる何かなのだと思った。

願って側付きとなり、母国の復興の為に、志を同じくする者と密かに連絡を取り合った。正攻法でギルニアを叩くことは難しい。欲深いギルニアの王は必ずまた戦争を仕掛ける。その時に共に戦ってくれる国を、兵を増やすため、細い糸のような繋がりを紡ぎ、協力を仰ぎ、日夜血反吐を吐く思いで騎士として鍛錬を続けていた。

思いがけずリングオーサへ宣戦布告が為された後、懇願して自らも戦いの場に身を投じることを許された。5年の間にエドワードとは思いもよらないほど深い絆を結んでいた。
フレデリックの悲願を知るエドワードは、リングオーサ国軍も、ナジェンラ復興に力を貸すことを約束してくれていた。

必ず生きて帰れと言われ、王太子としてのエドワードとは別々に出陣して、その後のこと。

行く先々で白旗がたなびく。剣を咥えた大鷲を意匠としたリングオーサの国旗に対する敵兵たちの怯えようは尋常ではなく、心を病んでしまったものまでいる。

何が起こっているのか分からずにいた王国軍に、信じがたい知らせがもたらされた。

ギルニア陥落。ブルジェ王の死。

呆然とする兵に告げられたのは、第一騎士団の存在。いや、第一騎士団長であるキングズレーのことだ。
黒の、と冠されるその人のことは、誰に聞いてもよく分からなかった。実力は折紙つき。家柄もいい。容姿も端麗。
だが、誰もが声を潜めて言うのだ。、と。

とはいえ、自らの手を下すことは出来なかったにせよ、復興に向けた道筋となったことは明らかだった。エドワード経由で国王にも願い出、近くナジェンラを興すことになっている。今後10年間はリングオーサへ税を納め、物資を優先的に流通させることになってはいるが、何せほぼ無傷で取り戻せた国だ。戦さ場となった後の復興とは話が違う。国元に残る同志たちも納得していた。

だが。
先ほどオスカーは言った。印璽つきの文書と、、と。

確かに王の形見として剣を賜り、リングオーサに持ち込んでいる。しかし、この剣の由来を知る者は戦死した養父しかいないのだ。

リングオーサに共に入国した密偵の男にも明かしていない。そもそもこの剣はきらきらしい装飾も一切無く、王家の紋章などもついていない。
否、ついていないのではない。剣のつかを外し、初めてそこに描かれていることが分かるのだ。

この剣のことを知るのはフレデリック只一人。エドワードにすら話していない。

ゾッと悪寒が走る。歯の根が合わぬほどの震えに襲われる。

「どなたですか?どうされました?」

ヒっと思わず声を上げた。見ると、王女の護衛騎士だ。

「フレデリック殿ではありませんか!どうされたのです。お体の具合でも?」

口々に問われ、そしてフレデリックはようやく気づく。常に王女の居室を護るべき護衛騎士が不在だったことに。オスカーの話を耳にしてもおかしくなかったはずの彼らが、何故短時間であっても持ち場を離れたのか。

まるで、先ほどの話を耳にする人間を、誰かが排除したかのように。

もはや、第一騎士団長とその得体の知れない側付きの仕業としか思えず、護衛騎士からの問いに答えることもできないフレデリックの脳裏に蘇ったのは、リングオーサ筆頭公爵家であるキングズレーの紋章だった。

王家を表す黄金の盾と、同じく金のグリフォン。

騎士に体を揺さぶられながら、フレデリックは腰が抜けたように座り込んでいた。

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