不撓不屈

遠い日の面影

遠い日の面影

梅雨の空が重く垂れ込める朝、陽子はいつもより少し早く目を覚ました。窓の外では、静かな雨音が響いている。彼女はため息をつきながら、薄暗い部屋の中で身支度を整え、今日もまた働きに出る準備をしていた。

彼女が勤めるスーパーでは、物価の上昇が毎日のように話題に上っていた。長年通ってくれるお客様たちは、かつての笑顔を失い、レジでの支払いを前に小銭を数える姿が増えていた。

「また値上げか…」と、つぶやくように独り言を言いながら、陽子は昨日の売上レポートを確認していた。食料品の価格はここ数か月で二倍、いや、もっと上がっているものもあった。お客様の中には、もう手に入らないと思っていた商品を、再び値段の高騰で諦める人も多い。

「一度の食事に、どれだけのお金を使えばいいんだろう？」陽子は心の中でそう問いかけた。彼女自身も、毎月の収入が食費や生活費に消えていく中で、貯金ができない現実を痛感していた。

昼休み、同僚の美奈子と一緒に休憩室でお弁当を広げると、二人は無言でおかずをつついた。何度も同じ話を繰り返しているようで、話題は自然と沈んでしまった。

「私たち、これからどうやって暮らしていくんだろうね？」美奈子が、ぽつりとつぶやいた。

「わからない…本当にわからない。でも、働かないとね」と、陽子は無理に笑顔を作って返した。

休憩が終わり、再びレジに立った陽子は、客の一人が大量の食料品をカゴに入れているのを見かけた。彼は陽子に微笑みかけながら、カゴをレジに置いた。

「最近、買い物が楽じゃなくなりましたね」と、彼は話しかけてきた。

「本当にそうですね…毎日のように値上げですし…」と陽子が答えると、彼は少し真剣な表情になった。

「でも、買わなければ生きていけないんですよね。僕も、最近はどれだけ節約しても限界を感じています」

陽子はその言葉に共感しつつも、何も言えなかった。レジの機械が次々と価格を計算し、彼の支払い金額が表示された。それは、普通の家族が数日分の食費に使う額をはるかに超えていた。

「これでやっと一週間分です」と彼は苦笑いを浮かべながら、クレジットカードを差し出した。陽子はその手続きをしながら、ふと彼の手元に目をやった。カードの名義は、おそらく妻のものであろう女性の名前が記されていた。

「家族を養うためには、僕も必死です。でも、最近はそれが本当に難しくなっています」と彼は付け加えた。

陽子は無言でうなずき、カードの支払いを完了させた。彼が去って行く後ろ姿を見送りながら、彼女の心に何か重いものがのしかかった。

仕事を終えて、陽子は家に帰る途中、小さな公園に立ち寄った。雨は止んでいたが、空はまだ暗く、湿った空気が肌にまとわりつくようだった。ベンチに腰を下ろし、彼女は空を見上げた。

「私たちは、こんな時代に生きているんだな…」と彼女は思った。目の前には、かつて賑わっていた子供たちの遊具が、今は静まり返っていた。その姿が、彼女の心にある現実を重ねて見せるようだった。

彼女の脳裏には、古い記憶がよみがえった。まだ子供の頃、家族でこの公園に遊びに来たことがあった。その頃は、物価のことなんて気にしたこともなかった。家族みんなで笑いながら、無邪気に遊んでいた。

「今では、家族で一緒に食事をするのも簡単ではないんだな…」と、彼女は一人呟いた。

その夜、家に帰った陽子は、小さな電気スタンドの光だけが照らす部屋で、机に向かって座った。彼女の目の前には、明日の食料品リストがあったが、その内容を見ても心が躍ることはなかった。

「これからも、やっていけるのかな…」と彼女は不安に駆られた。だが、同時に彼女の中に、何かしらの希望が芽生えているのを感じた。それは、彼女がこれまで生き抜いてきた証でもあり、これからも前に進むための力であった。

そして、彼女は静かに立ち上がり、明日のために寝室に向かった。再び雨が降り始め、窓の外に落ちる音が、彼女の心に響いていた。