妻と愛人と家族

春秋花壇

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子離れできない両親

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子離れできない両親

陽介は玄関でスーツの襟を正しながら、深くため息をついた。時計の針は午前八時を指している。いつもなら出勤の時間だが、今日は有給を取って実家に帰る日だ。陽介は30歳を超え、都内のIT企業で働いている。仕事は忙しいが充実しており、最近ようやく一人暮らしの生活にも慣れてきた。しかし、実家の両親との距離感がうまく取れず、毎回実家に帰るたびに疲れを感じていた。

「陽介、もう帰ってくるの?」

母親からの電話は毎週末の恒例だった。家を出てからずっと続いているその習慣は、陽介にとって少し負担になっていた。母親の声はどこか不安げで、いつも彼を引き留めようとするかのように響く。

「うん、今日は帰るよ。でも、夕方くらいになるかな」

電話越しの母は明るく答えるものの、その裏に隠された寂しさを陽介は感じ取っていた。両親はもう定年を迎えて久しく、陽介が家を出てからというもの、二人だけの静かな生活を送っている。彼には姉が一人いるが、結婚して子どもも生まれ、今は夫の実家の近くに住んでいる。両親にとって、陽介が唯一の「まだ家族のそばにいる」存在なのだ。

陽介が実家に着くと、父親が庭でせっせと草むしりをしていた。母親は玄関まで出てきて、にこやかに迎えてくれた。

「陽介、よく来たね。お腹空いてるでしょ?お昼ご飯、すぐに作るから」

母はそう言って、彼を家の中へと誘った。家の中は相変わらずきちんと整頓されていて、どこか懐かしい匂いがした。陽介はその匂いに安心感を覚える一方で、両親の過剰なまでの歓迎ぶりに居心地の悪さも感じていた。

食卓には陽介の好きな料理が並べられていた。母親は彼の好物をいつも忘れずに作ってくれる。その心遣いは嬉しいが、最近はそれがどこか重く感じられることもあった。

「もう少しゆっくりしていけば?最近忙しそうだし、たまには休んでもいいんだから」

母親は陽介の顔を見ながら、そう言った。父親も「お前もそろそろいい年なんだから、仕事ばかりじゃなくて、体も大事にしろよ」と付け加えた。陽介は笑顔で頷きつつも、心の中では少し苛立ちを感じていた。

「いや、今日はあんまり長くいられないんだ。友達と約束があって」

そう言うと、母親の顔が一瞬曇った。陽介はその変化を見逃さなかったが、あえて何も言わずに話題を変えた。両親は自分の気持ちを理解しているのだろうか。自分はもう大人であり、独立した存在だということを。

食事が終わった後、陽介はリビングで少しテレビを見ていたが、母親が隣に座り、話しかけてきた。

「陽介、最近ちゃんと食べてる?栄養が偏ると体に良くないわよ。あんた、昔から好き嫌いが多かったから心配でね」

母親のその言葉に、陽介は思わずため息をついた。毎回、実家に帰るたびに同じようなことを言われる。確かに、昔は偏食が激しかったが、今では栄養バランスを考えて食事を摂っている。それでも、母親は息子が幼い頃のイメージを引きずっているのだ。

「大丈夫だよ、ちゃんとやってるから。もう子どもじゃないんだし、心配しなくてもいいよ」

陽介の言葉に母親は少し黙り込んだ。その沈黙がどこか重く感じられ、陽介は居たたまれない気持ちになった。

「わかってるの。でも、あんたが心配なのよ。いつまでも子どもじゃないって頭では分かってるけど、どうしてもね…」

母親の目に少し涙が浮かんでいるのを見て、陽介は胸が締め付けられるような思いを感じた。彼女はただ息子のことを思っているだけなのだ。それが理解できないわけではない。しかし、彼もまた、自分の人生を歩みたいという思いがある。

陽介は静かに立ち上がり、リビングの窓から外を眺めた。庭には母親が手入れをしている花々が咲き誇り、風に揺れている。その風景は美しくもどこか切なく、彼の心を揺さぶった。

「お母さん、ありがとう。でも、俺ももう大人なんだ。自分のことは自分でできる。だから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

陽介は振り返って母親に微笑みかけた。母親はしばらくの間、陽介の顔を見つめた後、静かに頷いた。

「そうね、あんたももう立派な大人だものね。つい、心配しすぎちゃうのよ」

その言葉に、陽介は少しだけ安心した。両親は決して悪気があって彼を縛ろうとしているわけではない。ただ、自分を手放すことができずにいるだけなのだ。陽介はその気持ちを尊重しながらも、自分の道を進む決意を新たにした。

その後、陽介は予定通り友人との約束に向かった。車の中で、実家を離れるときの母親の姿が頭に浮かんだ。少し寂しそうだったが、どこか安心しているようにも見えた。

「きっと、少しずつ慣れていってくれるだろう」

陽介はそう自分に言い聞かせながら、車を走らせた。彼にはまだ、両親との距離感を見つける時間が必要だった。しかし、今日の会話を通じて少しだけその道筋が見えてきた気がした。自分自身もまた、親離れの途中にいるのだと感じながら、陽介はゆっくりと進んでいった。










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