お金がない

逃避行

逃避行
雨が窓を叩く音が、木村俊介の頭の中でリズムを刻んでいた。彼のオフィスは、数週間前までは成功の象徴だった。だが、今ではその情熱と希望が、わずか一週間の株式市場の暴落によって粉々に砕け散っていた。1,000万円の損失。信じられない数字が、彼の思考を支配していた。

仕事に追われ、日々の取引に没頭していた彼は、その突然の暴落に対処する方法も見つけられずにいた。画面の前に座り込み、エクセルの数字をじっと見つめるが、どれも目に入らない。彼の心は、ただの空虚感に包まれていた。そんな時、彼はふとした思いつきで、以前から行ってみたかった千葉の御宿に向かうことを決めた。

御宿の海岸線は、彼の心に平穏をもたらす唯一の場所だった。彼はすぐに車を用意し、仕事を片付けてから、早朝に出発した。朝の海は、普段の喧騒から解放された静けさを持っていた。彼の運転する車が海辺に到着すると、彼は足早に砂浜へと向かった。

潮風が顔に当たると、彼の緊張は少しずつほぐれていった。海に飛び込むと、冷たい水が彼の全身を包み込み、瞬時に心と体をリフレッシュさせた。波の音が、彼の頭の中で渦巻く雑音を掻き消していく。彼はただ泳ぎ続けた。何も考えずに、ただ水の中で身体を動かすことで、心の痛みを忘れようとしていた。

御宿の海は、まるで彼を優しく包み込むかのように広がっていた。彼は深い呼吸をしながら、波に身を任せて漂った。目を閉じると、冷たい海水が彼の顔に当たり、心地よいリズムで全身が包まれる。失った金額や将来の不安は、その時だけは、彼の意識から消え去っていた。

しかし、海のリズムは次第に不穏なものに変わっていった。波が高くなり、潮の流れが強まるにつれて、彼は次第に岸から遠くへ引き離されていった。気づけば、泳いでも泳いでも岸が近づかない。彼の心臓が激しく打ち、疲労が体を重くしていく。

「これが運命か」と、自嘲しながら彼は考えた。何も考えず、ただ泳いでいたのが逆に災いしていた。突然、足が痙攣し、痛みが全身に広がる。普段の運動不足が響いていた。彼はその痛みに耐えながら、岸に向かって最後の力を振り絞った。

海面を漂いながら、「ああ、これが最後か」と思い、目を閉じて無抵抗の姿勢を取った。浮かびながら、心の中でふと浮かんだのは、最近は何もない日々が続いていることへの不満だった。「最近Hしてないな」と、急に滑稽な考えが頭に浮かぶ。死の間際に、こんなことを考えるのかと、自分でも驚いた。

海底すれすれまで沈み込み、必死に這い上がると、岸が見えてきた。力を振り絞り、ようやくたどり着いた岸に辿り着くと、彼は砂に崩れるように倒れた。「生きているだけでありがたい」と、彼はしみじみと感じた。生き延びたことが、何よりも価値があると感じられた。

その日の午後、浜辺で軽く日焼けしながら、彼はふと過去のことを思い出した。トレーダーとしての彼は、常に勝者であり続けようと努力していた。成功の影には、多くの努力と犠牲があったが、最近はその喜びが薄れてきていた。だが、この海の中では、彼はただの人間であり、過去の栄光や失敗はどこにも存在しなかった。

「これが必要だったんだ」と、彼は心の中で呟いた。海の中で感じた自由と解放感が、彼の心に新たな視点をもたらした。数字や損失が全てではない。人間の本質的な感情や体験が、何よりも大切であることを、彼はようやく理解し始めていた。

夕方になると、日が沈む前に浜辺に戻り、彼は砂浜に座って波を見つめた。海の色が徐々に夕焼けに染まり、空と海が美しいオレンジ色に輝いていた。その瞬間、彼は心の中に平穏を見つけた。現実に戻るには時間がかかるかもしれないが、この一時の逃避行が、彼にとって必要な休息であった。

「明日はどうするかは分からないけれど、今日はこのままでいい」と、彼は心の中で決めた。疲れ果てた体を砂に預け、彼は静かに海の波音を聞きながら、ただ今を楽しむことにした。海の前で感じたその解放感が、彼にとっての新たな一歩となることを願って。

波の音が、彼の心に深い安らぎをもたらし、彼の痛みを和らげていった。こんな時に大切なことは、バランスのとれた食事、適度な運動、良い睡眠。今日は最高の一日であり、明日は明日の風が吹くと、彼は心の中で静かに呟いた。