「俺は小説家になる」と申しております

雨の祝杯

雨の祝杯

灰色の空の下、冷たい雨が絶え間なく降り注いでいる。街を歩く人々はみな、傘を差し、肩をすぼめて急ぎ足だ。そんな中、公園の片隅で一人座っている私は、雨のしぶきを受けながらじっと空を見上げていた。手に握った缶コーヒーはぬるくなっていて、心の温もりを求めるには頼りなさすぎた。

いつか見た、心の中の汚れない笑顔だけが、私を支えてくれていた。あの笑顔だけが、凍てついて温度を失った私を、ギリギリのところで人として形を保たせてくれたのだ。けれど、今はもうその笑顔も遠く、霞んで見えなくなりつつあった。

「貴方に大事なものはありますか？本当に大事にしていますか？」
かつて誰かが投げかけたその問いが、冷たい雨音の中で耳にこだまする。心の底に埋もれていたその質問が、今さらながら鮮やかに蘇ってくるのが不思議だった。何が大事なのか、そして本当にそれを守れているのか——それがわからないまま、私はずっともがき続けていた。

かつての私には、限りない喜びがあった。未来に向けて、無邪気に希望を抱いていたあの頃。けれど今、それは遥か遠く、届かない夢物語に過ぎない。大切にしたいもの、守りたかったもの、それらが次々と崩れ去り、気づけば心には冷たい虚無だけが残っていた。

そんな日々の中で、私にできることといえば、ただ「前に進む」ことだけだった。自分の足で一歩ずつ歩くしかなく、立ち止まって振り返ることさえもできなかった。何も考えず、ただ目の前の一歩を繰り返すことで、辛うじて自分を保っていたのだ。

今日もまた、いつものように雨の中を歩き続け、公園のベンチに腰掛ける。雨が降る公園には人影がなく、どこかひんやりとした空気が漂っている。耳に届くのは、自分の心拍と、雨粒が葉を叩く音だけだ。

「好きな歌、思い出すくらいならできるかな」
自嘲気味に口ずさんでみた。心が温かかったあの頃に聴いていた歌。歌詞の一節一節が頭に浮かび、かすかな懐かしさが胸を締め付ける。

雨の中で、ふと小さな祝杯をあげたくなった。手に持っていた缶コーヒーを掲げ、空のどんよりとした雲に向かって乾杯する。まるで無意味な儀式のようで、滑稽でもあったが、これが今の私にできる唯一の贅沢なのかもしれない。小さな一口を喉に流し込み、少しだけ目を閉じる。

「一つの地獄が終わったんだ、きっと」
そう自分に言い聞かせる。長い間、抜け出せなかった苦しみの中で、ようやく何かが一区切りついた気がしていた。でも、それと同時に、新たな地獄が私を待っていることも分かっていた。

次の地獄がどんなものかはわからない。ただ、今までと同じように、静かに耐えるしかないだろうと覚悟していた。

雨は止むことなく降り続け、やがて夜が訪れる。街灯の淡い光が公園のベンチをぼんやりと照らし、私はその光の下で一人、次の一歩を踏み出す準備をしていた。

「それでも、生きていくしかない」
そう自分に言い聞かせ、また足を踏み出す。