上 下
1,300 / 1,736

境界線の向こう

しおりを挟む
 境界線の向こう

夜の静寂の中、健太は一人ベッドの中で天井を見つめていた。外の街灯の光が窓から差し込み、淡いオレンジ色の影を壁に作り出す。その影はじっと動かないはずだったが、健太の目にはそれがゆっくりと形を変えているように見えた。黒い影がまるで生き物のように蠢き、言葉を持たない声で何かを囁いているような気がする。

「またか……」

健太は深いため息をついた。これが現実か、ただの幻覚か、もう判断することすら億劫になっていた。最初はただの疲れだと思っていた。大学の試験やバイトのストレスが溜まっているのだろうと自己診断していた。しかし、次第にその感覚は日常の隙間に忍び込み、健太の生活を侵食していった。

数ヶ月前、彼は最初の幻覚を経験した。図書館で勉強していた時、不意に本棚の影が動き始め、何かがこちらを見ているのを感じた。振り向いても誰もいない。そんな馬鹿げた出来事を誰にも話せず、そのままやり過ごした。それが始まりだった。

「健太、大丈夫?最近元気ないけど。」

友人の優しい声が、彼を現実に引き戻した。食堂で昼食をとっていた時、いつものメンバーが集まっていたが、健太はどこか遠くの世界に意識が漂っていた。友人の言葉に軽く微笑み、肩をすくめてみせる。

「うん、ただの疲れだよ。」

口ではそう答えるが、心の中は不安でいっぱいだった。食堂のざわめきが耳元で異様に大きく響き、周囲の人々が自分を監視しているような感覚が離れない。彼の目の前の友人たちの声が、突然、遠くで聞こえるようになり、言葉の意味が霧の中でかき消されていく。

――彼らは本当に友人なのだろうか?それとも、誰かに操られた偽物たちなのか?

健太は自分の疑念に囚われ、深く考え込む。何も信じられなくなりつつある自分に、恐怖が静かに忍び寄ってくる。現実と幻覚、どちらが真実なのか、その境界線が薄れ、健太は自分自身さえ信じられなくなっていた。

家に戻り、部屋のドアを閉めると、そこには静寂だけが待っていた。健太は目を閉じ、深呼吸をする。ここにいれば安全だ、そう思いたかった。だが、すぐにその安心感もかき消される。

「……逃げられないよ。」

低く冷たい声が耳元で囁いた。驚いて振り向くが、誰もいない。それでも、声は確かに聞こえた。いや、聞こえていたはずだ。頭の中で誰かが笑っているような錯覚が広がり、健太の心拍が急速に上がっていく。

「誰だ!?」

自分の声が部屋に響き渡る。答える者は誰もいない。代わりに、目の前の壁が微かに波打ち始め、部屋の形が歪んでいくのを見た。健太は後ずさりし、壁に背中を預けたが、それでもその不気味な現象は止まらない。まるで部屋そのものが生きているかのようだった。

それはもう、現実ではなかった。

翌日、健太は精神科の診察室に座っていた。自分がここに来ることになるなんて思ってもみなかった。家族に勧められて、ようやく足を運んだのだが、それが正しい選択だったのかさえ分からない。診察室の白い壁は無機質で、何も語らない。しかし、健太にはその静けさがどこか不気味に感じられた。

「最近、幻覚や妄想が増えてきているんですね?」

目の前に座る医師が、穏やかな口調で話しかけてくる。健太は何とか頷いた。

「はい……特に夜になると、現実と非現実の区別がつかなくなってしまうんです。」

医師はしばらく考え込むように眉をひそめ、健太の話に耳を傾けた。彼の症状は進行しているようだった。幻覚や妄想が現実に影響を与えるようになると、生活そのものが困難になっていく。

「おそらく統合失調症の可能性が高いと思います。」

医師の言葉は、健太にとって衝撃的だった。統合失調症――それは、自分が恐れていた最悪の結論だった。この病気は現実と非現実の境界線を曖昧にし、妄想や幻覚に囚われてしまう。健太はまさにその境界に立たされている。

「妄想型、解体型、緊張型といった異なるタイプがありますが、あなたの場合、妄想型の症状が強く出ているようです。適切な治療を始めることで、症状を軽減できる可能性があります。」

健太はぼんやりと医師の言葉を聞いていた。自分がその「妄想型」に分類されるという現実を、受け入れられる気がしなかった。だが、一方で、彼の内側では新たな妄想が芽生え始めていた。

「医者も、本当に信用できるのか……?」

診察を終えた健太は、再び日常に戻ろうとしたが、それは容易ではなかった。街を歩く人々が自分を嘲笑っているように感じられるし、建物の影がまた動き始める。今、自分がどこにいるのか、何をしているのか、全てが虚構のように感じられた。

「これが本当の現実なのか?」

健太の心の中に浮かんだその問いは、誰にも答えることができない問いだった。






しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

季節の織り糸

春秋花壇
現代文学
季節の織り糸 季節の織り糸 さわさわ、風が草原を撫で ぽつぽつ、雨が地を染める ひらひら、木の葉が舞い落ちて ざわざわ、森が秋を囁く ぱちぱち、焚火が燃える音 とくとく、湯が温かさを誘う さらさら、川が冬の息吹を運び きらきら、星が夜空に瞬く ふわふわ、春の息吹が包み込み ぴちぴち、草の芽が顔を出す ぽかぽか、陽が心を溶かし ゆらゆら、花が夢を揺らす はらはら、夏の夜の蝉の声 ちりちり、砂浜が光を浴び さらさら、波が優しく寄せて とんとん、足音が新たな一歩を刻む 季節の織り糸は、ささやかに、 そして確かに、わたしを包み込む

注意欠陥多動性障害(ADHD)の日常

春秋花壇
現代文学
注意欠陥多動性障害(ADHD)の日常

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

陽だまりの家

春秋花壇
現代文学
幸せな母子家庭、女ばかりの日常

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...