「俺は小説家になる」と申しております

機会損失に目を向ける

「機会損失に目を向ける」

田中誠（たなか まこと）は、28歳の平凡なサラリーマンだった。毎日同じ時間に起き、電車に乗り、定時に会社へ行き、決められた業務をこなして帰る。週末は疲れを癒すために家でダラダラと過ごすだけ。そんな彼の生活には、特に不満はないものの、特別な喜びもなかった。

彼がこの生活に甘んじているのには理由があった。誠は自分の選択を極端に恐れていたのだ。大きなリスクを避け、安全な選択を取り続けることで、失敗することを恐れずに済むと信じていた。しかし、そんな生活の中で、彼は何かを失っていることに気づき始めた。

ある日、大学時代の友人である佐々木陽介（ささき ようすけ）と久しぶりに会うことになった。陽介は同じようなサラリーマン生活を送っていたが、数年前に会社を辞め、自分の夢だったカフェを開業していた。

カフェは小さく、客もまばらだったが、陽介の顔には充実感が溢れていた。その姿に誠は強い衝撃を受けた。

「田中、お前も一度きりの人生なんだから、やりたいことやってみたらどうだ？」

陽介の言葉に、誠は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。やりたいことはある。しかし、リスクを考えると踏み出せないのが現実だった。

その夜、帰宅した誠は久しぶりに昔のノートを開いた。そこには彼が学生時代に描いた事業プランが書かれていた。オンライン教育サービスの立ち上げだった。学生の時は熱中していたが、就職活動が始まると同時にその夢は棚上げになり、次第に忘れ去られていた。

「あの時、あのプランを実現していたら…」

誠の胸に小さな後悔が浮かんだ。しかし、それは瞬時に打ち消された。過去に戻ることはできない。現実的な選択を続けてきた自分に言い訳をすることで、その後悔を見ないようにしてきたのだ。

翌日、誠はいつも通りの電車に乗り、会社に向かった。車内でスマホをいじっていると、偶然にもそのオンライン教育サービスの成功事例を目にした。それはまさに、かつて誠が考えていたプランそのものだった。

「こんなに成功するなんて…」

誠の心にズキリと痛みが走る。その事業は、彼が描いた以上に発展し、多くの人々に利用されていた。見知らぬ誰かが、誠の夢を実現し、社会に貢献していたのだ。

その瞬間、誠ははっきりと理解した。自分が失ったのは単なる成功のチャンスではなく、自分の人生の主導権そのものだったのだ。彼はリスクを恐れ、挑戦することから逃げていた。その結果、得られたはずの経験や成長、そして本当の喜びを自ら手放していたのだ。

それからの日々、誠の心には一つの問いが浮かび続けた。「このままでいいのか？」。それは仕事中も、帰宅後も、寝る前の静かな時間にも消えることはなかった。彼は何かを変えたいという思いを強く抱くようになっていたが、同時にそのための具体的な行動には踏み出せずにいた。

そんな中、会社での仕事も次第に物足りなく感じるようになった。新しいプロジェクトが始まっても、誠にはどこか退屈で、意欲が湧かなかった。かつての自分ならば、もっと熱心に取り組んでいただろう。しかし、今の誠にはその情熱がなかった。

ある日、同僚の藤井（ふじい）が話しかけてきた。

「田中さん、最近元気ないけど、大丈夫？」

「いや、別に。ただ、何かやり残してる気がしてさ」

藤井は誠の顔を見つめた後、言葉を選ぶように口を開いた。

「俺も前にそういうこと考えたことがあるよ。でもさ、やらないよりはやって失敗するほうが後悔は少ないんじゃないかな」

その言葉は、誠の心に深く刺さった。やらなかったことの後悔は、今になっても彼の胸を締め付け続けている。それに気づいた時、誠はようやく動く決心をした。

誠はまず、仕事以外の時間を使って新しい事業プランを考え始めた。以前のプランをベースに、現代のニーズに合わせた改良を加える。調査を進める中で、誠の中に久しぶりにワクワクする感覚が蘇ってきた。これは、会社の業務では決して得られなかった感覚だった。

そして、いくつかのビジネスセミナーに参加し、実際に成功している起業家たちと話をすることで、彼は自分の考えが現実的であることを確信するようになった。

最後の決断は、会社を辞めるかどうかだった。安定を捨てることへの不安は大きかったが、それ以上に今のままでは本当に失うものが大きいと感じていた。誠は決断を下し、退職願を提出した。

新しい道を歩み始めた誠は、かつてのように不安もあったが、同時に大きな期待も抱いていた。陽介のように、小さくても自分のやりたいことを実現できることが何よりも重要だと気づいたのだ。

誠は過去の自分を責めることはしなかった。機会損失に目を向けたことで、彼は今まで見えていなかった可能性に気づき、行動を起こすことができた。それは、ただの後悔ではなく、未来への一歩を踏み出すための大切な教訓だった。

「これでいいんだ」

そう自分に言い聞かせながら、誠は新たな挑戦を続けている。彼の人生はこれからも多くの困難に直面するだろう。しかし、誠にはもう一つの大きな力があった。それは、機会を逃さないという決意だった。

彼の人生はこれから、どんな困難があっても、もう逃げることはない。