「俺は小説家になる」と申しております

逃げ出せない音

「逃げ出せない音」

窓を閉めても、遮音カーテンを引いても、音は容赦なく部屋に侵入してくる。工事の騒音は、朝から晩まで絶え間なく響き渡り、安らぎの瞬間を一切与えてくれない。奈緒美はその音に苛まれ、どんどん追い詰められていくのを感じていた。

「ぶおおーん、ががががが……」

重機の轟音とコンクリートを削るドリルの音が混じり合い、奈緒美の頭を締め付ける。耳の奥で響き、脳に直接届くような感覚。まともに眠ることもできず、仕事に行く気力も次第に削がれていった。

「こんな生活、もう耐えられない……」

何度も心の中で呟き、部屋の四隅を見渡すが、そこに逃げ場はなかった。自分の部屋なのに、自分の居場所ではないような感覚に陥る。隣のマンションの建て替え工事は半年も前から始まっていたが、終わりの見えない日々に、奈緒美の心はすり減る一方だった。

「健康な人なら、ただそこから離れればいいんだ。物理的に距離を置けば、音は小さくなる。簡単なことじゃないか」

友人に相談しても、そう返されるだけだった。奈緒美も理屈では理解している。自分の足で歩いて、電車に乗って、少しでも遠くに行けば、今の状況から逃れられるはずだ。だが、現実は違った。身体がまるで鉛のように重く、ベッドから立ち上がることさえ困難だった。足が床についた途端、そこに根を張るように硬直してしまう。

「どうして動けないんだろう……」

奈緒美は自分に問いかけるが、答えは出ない。工事の音が鳴り響くたびに、身体が恐怖で凍りついてしまうのだ。胸の奥で何かが固まっていく感覚。音が鳴るたびに、心臓の鼓動が速くなり、息が詰まりそうになる。まるで音に鎖で縛られているかのように、奈緒美は一歩も動けなかった。

ある日、窓の外から響いてくる騒音が特に酷く感じた。ドリルの音がやけに耳に刺さり、吐き気を催す。奈緒美は耐えきれず、両耳を塞ぎ、ベッドに縮こまった。頭の中で音を遠ざけようとするが、現実は音の海に溺れたまま。瞼を閉じても、鼓動が高まり、視界が暗くなるばかりだった。

「このままじゃだめだ……」

それでも奈緒美は逃げ出すことができなかった。工事現場の前を通るだけで、身体が硬直し、足が前に進まなくなる。いつの間にか、彼女の意識はその音に支配され、工事の終わりが訪れることなど想像すらできなくなっていた。

「音に負けちゃいけない……そう言われても、動けないんだ」

カフェに避難しようとしても、家を出る勇気が出ない。耳を塞ぎながら、奈緒美は心の中で繰り返す。自分にはもう逃げる力すら残っていないのだ、と。

時間が経つにつれ、奈緒美は何も感じなくなっていった。工事の音は生活の一部となり、常に彼女の周りを取り巻いていた。友人たちは奈緒美の変化に気づいていたが、どうすることもできなかった。相談を受けたカウンセラーも、「まずは環境を変えてみましょう」と勧めたが、奈緒美はそれに従うことができなかった。

ある日、いつものように耳を塞いでいた奈緒美の耳に、微かな音楽が聞こえてきた。それは工事の音の中に紛れて、かすかに流れるメロディだった。耳を澄ませると、それは近所の小学校から響く子供たちの合唱の音だった。奈緒美は、その音に救われた気がした。ほんの一瞬だったが、工事の音を忘れさせてくれるほどの力がその歌声にはあった。

「音に縛られていたのは、私自身だったのかもしれない……」

奈緒美は少しずつ、外に出る努力を始めた。窓を開け、耳栓を外して、工事の音に慣れるようにした。少しずつでも良いから、音に対する恐怖を和らげていこうと決意したのだ。足元が不安定でも、一歩を踏み出すことを諦めなかった。

数週間後、奈緒美は少しずつ外出できるようになっていた。騒音が完全に消えるわけではなかったが、自分を取り戻す努力を続けていた。街の中で微かに聞こえる音楽や、鳥のさえずりが、奈緒美の心を和らげてくれた。工事は相変わらず続いていたが、その音に押しつぶされることはもうなかった。

やがて、工事は終わり、新しいマンションが完成した。静けさが戻った街で、奈緒美は久しぶりに深呼吸をした。騒音に支配されていた日々を乗り越えたことで、彼女は少し強くなった気がしていた。音に逃げ場を奪われていた時間が、今では遠い過去のように思えた。

「もう、音には負けない」

奈緒美はそう自分に誓い、新しい日常を歩み始めた。建物が建て替わっても、街の音が変わっても、彼女はもう動けなくなることはなかった。自分の心の中に、静けさを見つける術を知ったからだ。音に囚われない自由を手に入れた奈緒美は、少しだけ誇らしげに街を歩いた。