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静かなるお盆の夜

 「静かなるお盆の夜」

夏の終わり、田舎町ではお盆の風習が厳かに守られていた。辺り一面に広がる田んぼや、古びた民家が立ち並ぶ風景は、どこか懐かしく、そして不思議な静寂に包まれている。佐藤家も例外ではなく、この時期になると家族全員が集まり、ご先祖様を迎える準備に追われていた。

主人公の優子は、久しぶりにこの実家へ帰ってきた。東京での忙しい生活から離れ、田舎で過ごす時間は彼女にとって貴重なものであった。しかし、今年は特に厳しい注意が必要だと、母の和代が何度も念を押していた。

「お盆の間は、やってはいけないことがたくさんあるんだから、ちゃんと守りなさいよ、優子。」

和代の言葉には、何か重みが感じられた。彼女は、毎年お盆になると、その決まりごとを一切破らないように細心の注意を払っていた。例えば、川や湖などの水辺には決して近づかないことや、生き物の命を粗末にしないこと。優子も小さい頃からそれを叩き込まれてきたが、都会の生活に染まるうちに、次第にその意味を忘れかけていた。

「分かってるよ、そんなに心配しないで。ちゃんと気をつけるから。」

優子は苦笑いしながら母に応えたが、実際にはその制約がどこか煩わしく感じられていた。彼女は都会で自由に生きてきたため、こうした風習に縛られることが鬱陶しく思えてならなかったのだ。

お盆が始まったその夜、家族は静かにご先祖様を迎えるため、仏壇の前に集まった。お供え物が並び、ろうそくの火が揺らめく中、和代が手を合わせ、祈りを捧げる姿はどこか神聖であった。優子もそれに倣い、心を落ち着けて手を合わせたが、頭の片隅では「本当にこんなに注意する必要があるのだろうか」と疑問が湧いていた。

その夜、優子はどうしても眠れなかった。窓から見える月明かりが、どこか不気味に感じられ、妙な寒気が彼女を襲った。まるで何かが自分を見ているような気がして、ベッドの中で身を縮めた。

「お盆の間は、お祝い事は避けなさい。特に入籍や結婚式、引っ越しなんて絶対にダメよ。」

母の言葉が耳元でこだまする。そう言えば、今夜は彼氏の健太がプロポーズするつもりだと言っていたが、優子は「お盆だから」と断るわけにもいかず、結局、彼の提案を受け入れるつもりでいた。

「お盆くらい大丈夫だよね…」優子は自分に言い聞かせた。

翌朝、健太からのメッセージが届いた。「今日は特別な日だから、夕方に湖のほとりで会おう」という内容だった。優子はその提案に少し不安を覚えたが、「こんな機会は滅多にない」と自分に言い聞かせ、約束の時間に湖へ向かうことにした。

夕方、湖に到着した優子は、健太が既に待っているのを見つけた。彼の手には、小さな花束が握られていたが、それは母から禁止されていた赤いバラだった。

「赤い花は、お盆には良くないんじゃないかしら…」優子はそう言いかけたが、健太の真剣な表情を見て、言葉を飲み込んだ。

「この花、君に似合うと思って。どうしても渡したかったんだ。」健太の言葉に、優子は心が揺れた。彼の気持ちを無下にすることができず、赤い花を受け取った。

そして、プロポーズの言葉が健太の口からこぼれると同時に、湖の表面がざわつき始めた。風もないのに、まるで何かが湖の底から湧き上がってくるような不穏な動きが見えた。

「何これ…？」優子は驚きの声を上げたが、健太は気に留めず、彼女の手を取り続けた。しかし、次の瞬間、湖の水が突然激しく揺れ、大きな波が二人に押し寄せてきた。

「逃げよう！」優子は健太の手を引き、必死に岸辺へと向かったが、足元が滑り、二人とも転倒してしまった。水しぶきが上がり、赤い花束が湖に流されていく。

その瞬間、優子の脳裏に母の言葉が蘇った。「お盆の時期に水辺に近づくのは禁物だ」と。後悔の念が彼女を襲い、必死で立ち上がろうとしたが、湖の水は彼女の足を掴んで離さなかった。

その夜、優子は無事に家に戻ったが、健太は湖から戻らなかった。警察が捜索を続けたが、彼の行方は分からないまま。母は泣き崩れ、優子も深い悲しみに包まれた。赤い花、湖、水辺の怪奇現象―すべてが母の警告通りであった。

「お盆の禁忌を破ると、何かが起こる…」

それ以来、優子はお盆の間、どんなに小さなことでも禁忌を守るようになった。母の言葉が、ただの迷信ではなかったことを、彼女は痛感したのである。

そして、毎年お盆になると、彼女は健太の写真の前で手を合わせ、静かに祈りを捧げる。決して破ることのない、古くからの戒めを胸に刻みながら。

完