陽だまりの家

春秋花壇

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鱈ちりの温もり

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鱈ちりの温もり

夕暮れの団地の一室。古びたちゃぶ台の上には、湯気を濛々と上げる土鍋が置かれている。中では、白菜や春菊、ネギ、椎茸といった冬の野菜たちが、鱈の切り身と白い白子と共に、優しく煮込まれていた。

サクラ、26歳。夫を亡くし、自身もうつ病と闘いながら、三人の娘を育てている。6歳のハル、4歳のヒナ、そして2歳のミク。賑やかな子供たちの声が、部屋いっぱいに響いていた。

「わぁ、お魚!」「おいしそう!」

ハルとヒナは、待ちきれない様子でちゃぶ台の周りをうろちょろしている。ミクは、まだ言葉をうまく話せないながらも、両手を伸ばして鍋を指さし、「もあもあふわふわ」と歓声を上げている。

サクラは、子供たちの嬉しそうな顔を見て、ほんの少しだけ、心が軽くなるのを感じた。夫の死後、深い悲しみと絶望に囚われ、何もかもが嫌になってしまった時期があった。子供たちの世話さえ、まともにできない自分が情けなくて、何度も消えてしまいたいと思った。

そんなサクラを支えたのは、精神障碍者年金と生活保護、そして何よりも、子供たちの存在だった。彼女たちのためなら、どんなにつらくても、生きなければならない。そう思って、一日一日をなんとかやり過ごしてきた。

今日、食卓に並んでいるのは、鱈ちり。サクラにとって、特別な料理だった。

小学一年生の頃、サクラは山吹色のランドセルを持っていた。おばあちゃんの住む過疎の村では、そのランドセルはとても目立った。学校からの帰り道、ランドセルをからかわれ、砂場で砂を入れられたり、時には蹴られたりして、毎日泣かされた。

毎日毎日続く陰湿ないじめ。学校に行くのが怖くて、家にいるのも辛くて、サクラは生きているのがとてもつらかった。消えてしまいたい、そう何度も思った。

そんなある日、おばあちゃんが鱈の白子を鍋に入れてくれた。白い湯気の向こうに、白菜や春菊、ネギや椎茸、そして何よりも、熱々の鱈と白子が、サクラを優しく包み込んでくれた。そのおいしさに、サクラは夢中で舌鼓を打った。

「この魚のこっこ(白子のこと)をおなか一杯食べてから死のう」

それが、7歳のサクラの、唯一の希望だった。死ぬ前に、せめてこれだけは、という、小さな、けれど切実な願いだった。

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」

サクラは、子供たちに鱈ちりをよそってあげた。ハルとヒナは、熱い熱いと言いながらも、おいしそうに食べている。ミクは、小さく切られた鱈の身を、もぐもぐと味わっている。

子供たちの幸せそうな顔を見ていると、サクラは、あの頃の自分が、まるで昨日のことのように思い出された。砂だらけのランドセル、帰り道の夕焼け、そして、おばあちゃんの作ってくれた、温かい鱈ちり。

「ヒナ、もうすぐ小学生だね」

サクラは、鱈を口に運びながら、ヒナに話しかけた。

「うん!ランドセル、早くほしい!」

ヒナは目を輝かせて答えた。

「学校では、色んなことがあるかもしれない。楽しいことばかりじゃないかもしれない。でもね、ヒナ。どんなことがあっても、覚えておいてほしいことがあるの」

サクラは、ヒナの目を真っ直ぐ見つめて、ゆっくりと言った。

「生きてるだけで、まるもうけ。どんなにつらいことがあっても、生きてさえいれば、きっといいことがある。だから、絶対に、諦めないで」

ヒナは、少し不思議そうな顔をしながらも、「うん!」と力強く頷いた。

その言葉は、ヒナにだけでなく、サクラ自身にも言い聞かせているようだった。過去の自分を、そして、今の自分を、励ますように。

食事が終わり、子供たちを寝かしつけた後、サクラは一人、ちゃぶ台に座っていた。鍋に残った汁を温め直し、ゆっくりと味わう。あの日の、おばあちゃんの作ってくれた鱈ちりとは、少し味が違うかもしれない。けれど、この温かさは、確かに、あの日の温もりと繋がっている。

サクラは、窓の外を見た。暗い夜空には、かすかに星が瞬いている。

「生きてるだけで、まるもうけ…」

もう一度、小さく呟いた。それは、過去の自分への、そして、未来の自分への、静かな誓いだった。
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