憧れから始まった恋

盤上の革命

盤上の革命

「陽さん、見て。この一手、どう思う？」

舞がタブレットを持って陽の前に駆け寄ってきたのは、ある冬の夜のことだった。タワーマンションのリビングは暖かく、カーディガンを羽織った舞の顔には興奮が満ちていた。

陽は、彼女が手にする画面を覗き込む。そこには、AIの将棋解析アプリが表示され、舞が指した「奇妙な」一手が指摘されていた。

「これ、悪手って出てるけど……本当に？」
舞は首をかしげながら陽に聞く。その目は、単なる確認ではなく、自分の選択に対する好奇心で輝いていた。

「いや……多分、普通に考えたら悪手なんだろうけど……なんでそんな手を指したんだ？」
陽は舞の顔を見上げながら尋ねる。

「直感よ。でも、さっきまで押されてたのが、この手で局面が動き始めたの。面白くない？」

舞が将棋に夢中になり始めたのは、陽との結婚生活が始まってしばらく経ったころだった。それまでは彼女にとって、将棋はただの駆け引きの象徴、陽とのシーソーゲームの一環でしかなかった。だが、実際に指し始めてみると、その奥深さに引き込まれていった。

千駄ヶ谷の道場での日々

舞が千駄ヶ谷にある将棋連盟の道場に通い始めたのは、陽を驚かせるための「冗談」がきっかけだった。

「陽さんが強すぎるから、ちょっと鍛えてくるわ。」
そう宣言した舞は、翌日から本当に道場に通い始めた。最初は子供たちや初心者と対局し、すぐにその場の雰囲気に馴染んでいった。

「お姉さん、将棋始めたばっかりなのに、筋がいいね！」
道場の常連の老紳士や小学生たちが、次第に舞の成長に驚きを隠せなくなっていった。

舞はそこでの体験を陽に楽しそうに話した。
「小学生の男の子にボコボコにされたけどね、最後の一手で褒められたの！『お姉さん、すごく工夫してた』って。」

陽は苦笑しながらも、彼女が将棋の世界にのめり込んでいく姿を微笑ましく見ていた。

棋譜とAIと将棋ウォーズ

道場での対局だけでは飽き足らず、舞は自宅でも夜な夜な棋譜を並べたり、オンライン対戦アプリ「将棋ウォーズ」で対局を重ねたりするようになった。

「昔は、こんな指し方なんて誰も思いつかなかったんだろうね。」
舞は棋譜を見ながら呟く。彼女が研究しているのは、AIが導き出した人間離れした手筋だった。それは「AI時代の将棋」とも言われ、陽も最近のプロ棋士の試合を見て「信じられない」と感じていたようなものだった。

「舞、それ、本気でやってるの？」
陽がそう尋ねると、舞は真剣な顔で頷いた。

「本気よ。昔の将棋は、コツコツと積み上げていくのが普通だったんでしょ？でも、今はAIが教えてくれる新しい手があるじゃない？だから、私もそんな手を指してみたいの。」

舞の情熱に、陽は驚きつつも密かに喜びを感じていた。舞が将棋に対してこれほどまでに情熱を燃やすようになるなんて、思ってもみなかったからだ。

勝ち負けよりも楽しさ

舞が道場での初段試験に合格したのは、通い始めて半年後のことだった。初段とは、将棋の実力を測る一つの指標で、一般的にはアマチュアの中でも一定の実力が必要だとされる。

その日、舞は満面の笑みで家に帰り、陽に合格証を見せた。
「ほら！見て、初段になったの！」
陽は驚きながら拍手を送った。
「おめでとう、舞。本当に強くなったんだな。」

だが、舞は笑いながら首を振った。
「強くなったかどうかは、どうでもいいの。勝ち負けよりも、将棋が楽しくて仕方ないのよ。」

陽はその言葉を聞き、彼女の変化を感じ取った。かつて舞は、全てを支配し、自分の優位を確認するために行動していた。だが、将棋を通じて、彼女は勝ち負けを超えた楽しさや充実感を見出していた。

新しい一手

ある夜、舞と陽は家で対局をしていた。舞は将棋盤に駒を並べ、慎重に手を進めていく。その表情は真剣そのもので、陽も本気で応じていた。

「それ、桂馬を跳ねてくるんでしょ？」
舞が陽の手を読みながら言う。陽は驚いた顔をした。
「お前、もう俺の手がわかるようになったのか？」

「陽さんの癖は全部見てるもの。」
舞はいたずらっぽく笑いながら言った。そして、その後に指した一手が、陽の予想を大きく超えるものであることに彼は気付いた。

「……その手、どこで覚えた？」
「将棋ウォーズで、AIがやってたの。こういう奇抜な手って、楽しいでしょ？」

陽は笑いながら頭をかいた。舞の将棋はすでに自分の手を追い越しているように思えた。

変わる舞、喜ぶ陽

舞は将棋を通じて、人との関わり方を少しずつ変えていった。道場での交流や、棋譜を研究する中で、他人の考えや視点に興味を持つようになったのだ。

陽はそれを見守りながら、結婚当初にはなかった彼女の新しい一面を発見していった。舞にとって将棋は、勝ち負けを超えた自己成長の場であり、陽にとっては、彼女の成長を共有できる喜びの象徴だった。

「陽さん、次はもっと面白い手を指すから、楽しみにしててね。」
舞がそう言ったとき、陽は心からの笑顔で頷いた。

将棋盤の上で繰り広げられる小さな世界は、二人の関係をより深く結びつけるものになっていった。そして、その世界には、舞が見つけた新しい「楽しさ」と、陽が見つけた「舞への新しい愛」があふれていた。