老人

ないない尽くしの子守歌

「ないない尽くしの子守歌」

寒さが深まる中、古びたストーブがかすかに温もりを放っている。70歳の一人暮らしの老人、辰巳幸子（たつみさちこ）は、静かな部屋で肩を落として座っていた。今月もわずかな年金ではやりくりが厳しく、冷蔵庫の中は空っぽだった。

「お米も、トイレットペーパーもない…」

小さな声で呟き、彼女は窓の外を見る。街はクリスマスの装いで華やかだったが、その温かさが家の中に届くことはなかった。商店街から聞こえるクリスマスソングと賑やかな人々の笑い声が、逆に静けさを際立たせる。

ふと、幸子の脳裏に遠い記憶がよみがえる。

――冬の夜、夫が湯呑みを手に微笑んでいた。

「こんな寒い日は、お茶とおせんべいだな。」

若い頃、夫婦で囲んだ小さなちゃぶ台が幸子の心に浮かんだ。ストーブの上で湯気を立てる薬缶、窓に映る外の雪景色、そして子供たちの笑い声。それらのひとつひとつが、彼女の心を静かに温めた。

しかし、その記憶もすぐに消え、寒さが現実に引き戻した。部屋に響くのは時計の秒針だけ。食卓に広がる空っぽの皿を見つめ、ため息をつく。

その時、玄関のチャイムが鳴った。

驚いて立ち上がり、扉を開けると、近所の若い夫婦が温かな笑顔で立っていた。

「おばあさん、これ少しだけど…」
差し出された袋には、食料とトイレットペーパーが入っていた。

「いつも挨拶してくれるから、ちょっとお礼にね。」

その優しさに、幸子の胸は温かくなった。涙をこらえながら、袋を抱きしめる。

「ありがとう…ありがとう…」

夫婦が去った後、幸子は袋の中身を一つ一つ取り出した。お米、味噌、缶詰…。それは単なる食料以上の重みがあった。それぞれの品物が、誰かの心の温もりを届けているように思えた。

その夜、幸子は久しぶりにお米を炊き、小さな夕食を楽しんだ。食卓には小さなキャンドルを灯し、その光が彼女の顔を穏やかに照らしている。ふっくらと炊き上がった白米を一口食べ、目を閉じると、遠い記憶がまたよみがえった。

――幼い頃、母が炊いてくれたお米の味。その香り、その甘さ。それは、今でも幸子の心に刻み込まれていた。

食事を終えた幸子は、古いアルバムを取り出した。そこには、子供たちがまだ小さかった頃の写真が並んでいた。運動会で一緒にお弁当を食べた日、浴衣姿で花火を見上げる姿。そして、家族で笑い合った数々の瞬間。それらの写真が、幸子の心に一筋の温もりを運んできた。

ベッドに横たわった幸子は、ふと思い出したように歌い出した。

「ないない尽くしの子守歌…」

それは、かつて母が歌ってくれた歌であり、彼女が子供たちに歌い継いだものだった。「お布団ないない、枕もないない…」と続くその歌詞は、どんなに物がなくても心は温かくいられる、という母の教えそのものだった。

そのメロディーが、心の奥にある暖かな記憶を引き出す。幸子は微笑みながら、ゆっくりと目を閉じた。

外では雪がちらつき始めていた。冷たい空気が窓を曇らせる中、幸子の心には、母の歌声と、家族の笑顔、そして今日受け取った温かい気持ちが、じんわりと広がっていった。それは、まるで体の芯から温まるお風呂に入っているような、優しいぬくもりだった。