老人

ひとりの食卓、月の光

「ひとりの食卓、月の光」

冷たい冬の夜、台所の灯りがぼんやりと照らす中、70歳の一人暮らしの老人、藤原は、冷蔵庫を開ける。中には、青々とした小松菜、ほうれん草、青梗菜、ねぎ、そして椎茸、えのき、しめじが並んでいる。肉もある。豚肉と鶏肉。どれも新鮮で、今日の食事にはもってこいだ。

それでも、藤原はしばらく冷蔵庫の中を眺めているだけで、手が動かない。食材を無駄にしてはならないことはわかっているが、作る気が起きないのだ。そんな気持ちは、しばらく続いていた。誰かと一緒なら、食事作りもきっと楽しいだろうと思う。でも、今は一人だけ。冷たい空気が部屋を包み、あたりの静けさがますます心を重くさせる。

「何か作らなきゃな…」と、藤原は小さく呟く。

お腹は空いているし、食べなければ体に良くないこともわかっている。それに、もう年齢も年齢だ。栄養のバランスも気を使わなくては。そう思って、重い腰を上げることに決めた。冷蔵庫から取り出した豚肉ともやし、椎茸を手に取り、小鍋に放り込んでいく。

「うーん、しゃぶしゃぶにでもするか…」

くつくつと湯気が立ち上り、白い湯気が台所の冷たい空気にゆっくりと漂っていく。普段から台所は寒いが、今は冬。寒さが一層強く感じる。藤原は、手を温めるためにこまめにキッチンの壁に手を当てる。冷たさが少しだけ和らぐ。

豚肉がひとしきりしゃぶしゃぶされて、柔らかくなると、藤原はねぎを切り、柚子を絞ってその上に散らす。色合いが華やかになり、なんだか料理が完成したことが嬉しく感じる。あれほど作りたくなかったのに、いざ出来上がると、心の中にほんの少しの安堵が広がった。

「できたな…」

藤原は鍋の中を見つめてしばらく静かに立っていた。食卓に持っていくにはまだ少し時間がかかりそうだった。だが、その間に、ふとひとつの思いが頭をよぎる。もし息子が一緒にいれば、きっともっと楽しく食事を囲んだだろうな、という思いだった。

息子は数年前に結婚して家を出た。何度も一緒に食事をしたり、週末に訪ねてきたりしていたが、最近ではなかなか会うことが少なくなってしまった。息子も忙しいのだろう。藤原は、少しだけ寂しさを感じる。

「でも、仕方ないか…」

そう呟きながら、鍋の中をかき混ぜる。肉が柔らかく、野菜も色鮮やかに煮込まれていく。藤原は、それを見て、少しずつ食欲が湧いてきた。

その時、ふと窓の外に目を向けると、冷たい月が空高くに輝いているのが見えた。コールドムーンと言われるその月は、まるで何もかもを見透かすように、冷たい光を放っている。藤原は、しばらくその月を眺めていた。

「冷たい月だな…」と、声にならない声で呟く。

月の冷たさが、今の自分の気持ちを映し出しているように感じる。静かな夜、静かな台所、そして静かな自分。だが、それでも食べることができる。自分で作った料理を口にできる。ひとりであっても、食事を取ることで命を繋いでいる。

「これでいいんだろうな…」

藤原は鍋のふたを取り、作った料理を食卓に運んだ。静かな部屋の中で、月明かりがやさしく差し込む。冷たい空気を感じながら、暖かい食事を食べることができることに、少しの感謝の気持ちが湧き上がった。

その瞬間、藤原はふと思う。どんなに寂しくても、どんなに疲れていても、今日もこうして食事を作り、食べることができることが、どれだけありがたいことか。食材が無駄にならないようにするために、作った料理を大切に食べること。それが、今できる唯一のことなのだと、心から感じた。

「おいしいな…」

ふと、そんな言葉が口をついて出た。まるで誰かに話しかけるように。でも、その声はただの独り言。藤原はそのまま、静かに食事を進めた。寒さに包まれた部屋の中で、ひとりの時間を楽しむように。