老人

月桂冠と独りの夜

「月桂冠と独りの夜」

高橋耕太郎、70歳。彼の生活はいつも通り規則的で、淡々としたものであった。朝は早く起きて新聞を読み、簡単な朝食を済ませた後、近所の公園を散歩する。昼間はテレビをつけっぱなしにして、たまに通販番組を眺める程度。午後には日記を少し書き、夕方になるとスーパーへ買い物に出かける。

ある日、耕太郎はスーパーの酒売り場で「月桂冠 THE SHOT 純米吟醸」を見つけた。小さな瓶で、シンプルかつ洗練されたデザイン。「めちゃフルーティー」というキャッチコピーが目に留まり、その言葉に少し興味を惹かれた。

「フルーティーねえ、酒が果物みたいだっていうのか？」

耕太郎は独り言を呟きながら、その瓶をカゴに入れた。いつもの発泡酒やカップ酒ではない、ちょっとした冒険だった。

その夜、夕飯を済ませた後、耕太郎は静かにその瓶を開けた。香りを確かめると、驚くほど華やかな果実の香りが漂った。

「ほう、これは確かにフルーティーだな……」

少しずつ口に含むと、酸味と甘味が絶妙に調和していた。舌の上で広がる柔らかな味わいに、耕太郎は思わず笑みを浮かべた。

久しぶりに感じる贅沢。だが、それ以上に、この酒が彼の心にある記憶を呼び起こした。

記憶の中のあの味
耕太郎は若い頃、妻と一緒に京都を訪れたことを思い出した。清水寺を観光した帰りに、二人で入った小さな居酒屋。そこで飲んだ日本酒が、まさにこんな香りと味わいだった。

「この味、あの時の酒と似てるな……」

耕太郎は少し涙ぐんだ。妻が他界してから十年以上が経つが、彼女の笑顔は今も鮮やかに記憶に残っている。その居酒屋で彼女が言った言葉が脳裏によみがえった。

「お酒ってね、香りと味だけじゃないの。誰と飲むか、それが一番大事なのよ。」

当時の耕太郎は、そんな妻の言葉を深く考えなかった。ただ、その場の楽しい雰囲気を味わっていたに過ぎない。だが今になって、その言葉の意味を実感している。

「誰と飲むか、か……」

耕太郎はため息をつきながら、月桂冠の瓶を見つめた。

独りの夜に浮かぶ顔
ふと、耕太郎はスマートフォンを手に取った。子どもたちは遠く離れた街に住んでおり、普段は滅多に連絡を取らない。孫たちの顔も、もう何年も見ていない。

「こういう時くらい、電話してみるか……」

耕太郎は息子の名前を画面で見つけたが、なかなか指が動かなかった。独りで生きると決めたのは自分だ。それをいまさら覆すのは気恥ずかしいし、プライドもあった。

酒の香りが部屋を包み込む中、耕太郎はまた少し飲んだ。だが次第に孤独感が胸に押し寄せてきた。酒の甘みが、逆に彼の心の寂しさを浮き彫りにする。

「……やっぱり、誰かと飲むのが一番だな。」

手紙の代わり
翌朝、耕太郎は日記を書いた後、封筒を一枚取り出した。筆ペンを握り、息子に宛てた短い手紙を書き始める。

「元気にしているか。こちらはまあまあだ。昨日、美味い日本酒を見つけた。お前もたまには飲んでみるといい。」

それだけ書いて封筒に入れ、近くのポストに投函した。

耕太郎の胸には、少しだけ温かな気持ちが残った。独りでも、誰かに繋がることはできる。次の酒を飲む夜まで、この気持ちを大事にしよう。

その日の夜もまた、月桂冠 THE SHOT 純米吟醸の香りが彼の部屋に広がっていた。