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寄る年波の先に
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「寄る年波の先に」
オンラインゲームの画面が白く輝き、ログアウトのメッセージが表示される。沢村春子(さわむらはるこ)、70歳はひと息ついた。
「何とか間に合った」
彼女はそう思った。いつものようにオンラインゲームの仲間たちと、レベル上げやイベント攻略を楽しみ、充実した時間を過ごした。仲間と過ごすひとときは、孤独な日々を忘れさせてくれる貴重な時間だった。
「ありがとう、楽しかった!」
チャットにそうメッセージを打ち込み、丁寧に別れの挨拶を済ませた春子は、急いでトイレに向かった。
用を済ませて立ち上がったとき、春子は異変に気付く。
「えええええええええええ!」
目に飛び込んできたのは、便器のふちに付いた汚れ。慌てて下着を確認すると、信じたくない現実がそこにあった。
「大なのに…気づかなかった…」
春子は思わずその場に座り込んだ。胸の奥から込み上げてくる自己嫌悪と、抑えきれない悲しさに襲われる。
「もう…こんなことがあるなんて…」
最近、介護予防のためのデイサービスで「家トレ」を教わっている。赤ちゃんのようにハイハイの練習をしたり、体をほぐす体操をしたり、少しでも体の衰えを食い止めようと努力しているのに。
なのに、この有様だ。
ふと窓から差し込む夕陽が目に入る。春子は、ぼんやりとその光を見つめた。
「少しずつ、赤ちゃん返りしていくんだろうな」
言葉にすることで、悲しみが少し軽くなる気がした。誰に聞かせるでもなく、自分に向けて言う言葉。それが彼女にとってのささやかな慰めだった。
後片付けを終えた春子は、再びパソコンの前に戻った。椅子に座り、画面を開くと、ログイン中の仲間たちの名前が並んでいる。
「みんなは知らないんだろうな。私がこんなことを抱えながら、ここにいるって」
オンラインの仲間に話したことはない。自分が70歳の独居老人であることも、日々の小さな敗北や挫折も。彼らはきっと、春子を年齢や背景ではなく、ゲームの腕前や会話の楽しさで見てくれている。それが彼女にとって唯一の救いだった。
少し前、デイサービスで知り合ったスタッフが言っていた。
「春子さん、赤ちゃん返りなんて言わないでくださいよ。誰だって老いるけど、それは生きている証拠なんですから」
生きている証拠。
その言葉が今、頭の中に浮かんでくる。
春子はチャットにメッセージを打ち込む。
「こんばんは。また今日もよろしくお願いします!」
画面の向こうで仲間たちが返事をしてくれる。ゲームが始まれば、彼女の中の孤独や悲しみは一時的に薄れる。年齢や体の衰えに縛られることのない自由な世界が広がっていく。
「もう少しだけ、頑張ってみよう」
春子はそう心の中で呟き、キーボードを叩き始めた。寄る年波には勝てないとしても、今を生きることを選ぶ。それが春子にとってのささやかな反抗だった。
白い湯気が立つお茶を片手に、春子は再び画面の中の冒険に没頭していった。
オンラインゲームの画面が白く輝き、ログアウトのメッセージが表示される。沢村春子(さわむらはるこ)、70歳はひと息ついた。
「何とか間に合った」
彼女はそう思った。いつものようにオンラインゲームの仲間たちと、レベル上げやイベント攻略を楽しみ、充実した時間を過ごした。仲間と過ごすひとときは、孤独な日々を忘れさせてくれる貴重な時間だった。
「ありがとう、楽しかった!」
チャットにそうメッセージを打ち込み、丁寧に別れの挨拶を済ませた春子は、急いでトイレに向かった。
用を済ませて立ち上がったとき、春子は異変に気付く。
「えええええええええええ!」
目に飛び込んできたのは、便器のふちに付いた汚れ。慌てて下着を確認すると、信じたくない現実がそこにあった。
「大なのに…気づかなかった…」
春子は思わずその場に座り込んだ。胸の奥から込み上げてくる自己嫌悪と、抑えきれない悲しさに襲われる。
「もう…こんなことがあるなんて…」
最近、介護予防のためのデイサービスで「家トレ」を教わっている。赤ちゃんのようにハイハイの練習をしたり、体をほぐす体操をしたり、少しでも体の衰えを食い止めようと努力しているのに。
なのに、この有様だ。
ふと窓から差し込む夕陽が目に入る。春子は、ぼんやりとその光を見つめた。
「少しずつ、赤ちゃん返りしていくんだろうな」
言葉にすることで、悲しみが少し軽くなる気がした。誰に聞かせるでもなく、自分に向けて言う言葉。それが彼女にとってのささやかな慰めだった。
後片付けを終えた春子は、再びパソコンの前に戻った。椅子に座り、画面を開くと、ログイン中の仲間たちの名前が並んでいる。
「みんなは知らないんだろうな。私がこんなことを抱えながら、ここにいるって」
オンラインの仲間に話したことはない。自分が70歳の独居老人であることも、日々の小さな敗北や挫折も。彼らはきっと、春子を年齢や背景ではなく、ゲームの腕前や会話の楽しさで見てくれている。それが彼女にとって唯一の救いだった。
少し前、デイサービスで知り合ったスタッフが言っていた。
「春子さん、赤ちゃん返りなんて言わないでくださいよ。誰だって老いるけど、それは生きている証拠なんですから」
生きている証拠。
その言葉が今、頭の中に浮かんでくる。
春子はチャットにメッセージを打ち込む。
「こんばんは。また今日もよろしくお願いします!」
画面の向こうで仲間たちが返事をしてくれる。ゲームが始まれば、彼女の中の孤独や悲しみは一時的に薄れる。年齢や体の衰えに縛られることのない自由な世界が広がっていく。
「もう少しだけ、頑張ってみよう」
春子はそう心の中で呟き、キーボードを叩き始めた。寄る年波には勝てないとしても、今を生きることを選ぶ。それが春子にとってのささやかな反抗だった。
白い湯気が立つお茶を片手に、春子は再び画面の中の冒険に没頭していった。
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