老人

春秋花壇

文字の大きさ
上 下
331 / 436

おれんちこないか

しおりを挟む
おれんちこないか

親指立てて、声を落とす
「おれんちこないか」
そうつぶやいてみる。

彼の声は低く、しわがれた。言葉が出た瞬間、自分でも驚くくらい臆病な響きだった。

川村拓海(かわむら たくみ)、56歳。
駅前でよく見かける「親指立ておじさん」と呼ばれているのは彼だ。
昼下がり、駅のベンチに座り、通り過ぎる人たちに向かって親指を立てる。といっても、特に意味はない。ただの癖だ。

拓海の顔を覚えている人は多いが、彼に話しかける人はほとんどいない。髪はボサボサ、服はよれよれ。ホームレスに見えなくもないが、実際は違う。
彼は駅の近くの古びた一軒家で一人暮らしをしている。家にはほとんど家具がない。台所に錆びたやかん、居間には畳の上に毛布一枚。テレビもラジオもなく、唯一の娯楽は駅前の風景を眺めることだった。

出会い
その日も、拓海は駅前に座っていた。
「親指立ておじさん」として自分がどう思われているかなんて気にしない。ただ、親指を立てて、通り過ぎる人々を眺めるだけ。

「何してんの?」
その声に、拓海はハッとした。

目の前に立っていたのは、細身の若い女性だった。髪を明るく染め、リュックを背負っている。20代半ばだろうか。くたびれたジーンズとスニーカーが、どこか自由な雰囲気を漂わせている。

「ああ、別に。ただ座ってるだけさ」
拓海はぼそっと答えた。

「親指立てるのが趣味?」
彼女は笑いながら尋ねた。その笑顔には、見下すような色はなかった。ただの好奇心。

「まあ、そういうことにしといてくれ」

彼女はしばらく拓海の隣に腰を下ろし、特に話すでもなく、駅前の通行人を眺めていた。

おれんちこないか
次の日も彼女は現れた。名前を聞くと、「麻由(まゆ)」と名乗った。アルバイトで稼ぎながら放浪しているらしい。彼女が3日続けて顔を見せたとき、拓海はふと聞いてみた。

「家、ないのか?」

「うん、今はネットカフェ生活かな。あんまり快適じゃないけどね」

その言葉を聞いたとき、拓海の心に何かが引っかかった。麻由の存在は、どこか昔の自分を思い出させたのかもしれない。

「親指立ててるだけのおじさんの家なんて来たくないだろうけど…」
声を落として、つぶやくように言った。
「おれんちこないか?」

麻由は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「いいの?」

「別に何もない家だぞ。ただ、座る場所くらいはある」

奇妙な共同生活
その日から、麻由は拓海の家にやってきた。二人の間に特別な関係はない。ただ、奇妙な共同生活が始まった。

麻由は家の掃除をした。何年も使われていなかった食器棚を開け、埃まみれの食器を洗い、冷蔵庫の中身を整理した。拓海が近所のスーパーで買ってきた食材を使い、簡単な料理を作るようにもなった。

拓海は変わらず駅前で親指を立てる生活を続けたが、帰宅すると家に明かりがついている。それだけで、彼の心には少し温かさが生まれていた。

それぞれの再出発
ある日、麻由が拓海に言った。
「そろそろ、次の町に行こうと思う」

拓海は黙って聞いていた。

「でも、あんたと一緒に過ごした時間は楽しかったよ。ありがとう」

彼女はリュックを背負い、駅に向かった。
拓海はいつもの場所で親指を立てて見送った。

麻由が去った後、拓海の家にはまた静けさが戻った。しかし、彼の心の中には小さな変化があった。

駅前で親指を立てる彼の姿に気づいた人が、こう言うことがある。
「前より、少し優しい顔になったね」

それでも彼は、いつも通りつぶやく。
「おれんちこないか」







しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

季節の織り糸

春秋花壇
現代文学
季節の織り糸 季節の織り糸 さわさわ、風が草原を撫で ぽつぽつ、雨が地を染める ひらひら、木の葉が舞い落ちて ざわざわ、森が秋を囁く ぱちぱち、焚火が燃える音 とくとく、湯が温かさを誘う さらさら、川が冬の息吹を運び きらきら、星が夜空に瞬く ふわふわ、春の息吹が包み込み ぴちぴち、草の芽が顔を出す ぽかぽか、陽が心を溶かし ゆらゆら、花が夢を揺らす はらはら、夏の夜の蝉の声 ちりちり、砂浜が光を浴び さらさら、波が優しく寄せて とんとん、足音が新たな一歩を刻む 季節の織り糸は、ささやかに、 そして確かに、わたしを包み込む

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【新作】読切超短編集 1分で読める!!!

Grisly
現代文学
⭐︎登録お願いします。 1分で読める!読切超短編小説 新作短編小説は全てこちらに投稿。 ⭐︎登録忘れずに!コメントお待ちしております。

陽だまりの家

春秋花壇
現代文学
幸せな母子家庭、女ばかりの日常

感情

春秋花壇
現代文学
感情

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

処理中です...