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四万温泉の優しさ

四万温泉の優しさ

東京からバスで四時間、群馬県の四万温泉へ向かうための道は、徐々に都会の喧騒を離れ、山々に囲まれた静かな景色へと変わっていった。春の暖かな陽射しが窓を通して差し込み、車内の空気を穏やかにしていく。バスの揺れが心地よく、今はただ旅路の途中にいることに安らぎを感じていた。

高橋陽子、70歳。彼女は東京の一軒家で独り暮らしをしていた。息子も娘も家を出て、年に数回顔を見せるだけで、普段は誰とも話すことなく過ごす日々が続いていた。毎日が同じ繰り返しで、たまに寂しさを感じることもあったが、どうしても外に出て行く気にはなれなかった。買い物にも近くのスーパーにしか行かず、友人との交流も減っていた。

「これが老後というものか…」と、陽子は独り言を言ってはため息をつくこともあった。最近は体調もすぐれず、散歩することさえ億劫に感じていた。

しかし、ある日、テレビで見た四万温泉のCMに心が動いた。「自然に囲まれ、ゆったりとした時間を過ごす」といった言葉が、どこか懐かしく、そして魅力的に響いた。温泉は昔から好きだったし、以前は旅行もしていた。でも、長年のブランクでどうしても出かける気持ちが薄れていたのだ。

だが、今回のCMはどこか違った。陽子は思い切って、電話で宿泊予約をし、次の週末に出かけることを決めた。往復の高速バス付きのプランがあり、乗り換えの手間もなく、気軽に行けることがわかった。最初は少し躊躇したが、最後には「行こう」と決心した。

その日、バスが四万温泉に近づく頃、陽子の心は少し高揚していた。外の景色は、だんだんと山が迫ってくるように感じ、空気が澄んでいるのを感じる。到着してからは、地元の観光協会から手渡された観光マップを手に、宿のある温泉街へと向かう。

宿に着くと、あたたかな出迎えが待っていた。スタッフの若い女性が、陽子をにこやかに案内しながら、足元に気をつけるように優しく声をかけてくれた。宿のロビーは古き良き昭和の雰囲気が漂い、どこか懐かしさを感じさせる落ち着いた空間だった。陽子はそれだけで少し心が安らぐのを感じた。

「こちらでおくつろぎください」と言われ、部屋に案内されると、窓からは清らかな渓谷が見渡せ、川のせせらぎが心地よく耳に届いた。

温泉の前に、まずは部屋で少し休むことにした。テレビをつけて、古い映画を見ながら、時折窓の外に目をやる。街並みはレトロでありながら、どこか温かさを感じさせてくれた。陽子はふと、長年感じていた孤独感が少し薄れていくのを感じた。

夕方になり、温泉に入る時間が来た。ゆったりと浴衣に着替え、浴場へ向かう。温泉に浸かるのは何年ぶりだろうか。お湯が肌に優しく、ぬるめの温度でゆっくりと体が温まる。陽子は目を閉じ、静かに息を吐いた。お湯の中で、過去に訪れた温泉地や、家族と過ごした思い出が自然と思い浮かんだ。

「こんな時間、久しぶりだな…」陽子は呟く。

温泉の湯気の中で、長年感じていた心の重さが少し軽くなったように思った。そして、ふと気づく。自分の人生の中で、一度も自分を大切にすることを忘れていたかもしれない。息子たちに尽くすことに疲れていた自分が、少しだけ解放されたような気がした。

温泉から上がった後、宿の食事は地元の食材をふんだんに使った料理だった。とても新鮮で、ひと口ごとに自然の味が広がった。陽子はそのすべてに感謝しながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。

夜も更け、部屋の窓を開けると、外から涼しい風が入ってきた。川のせせらぎが耳に心地よく響き、陽子はもう一度目を閉じ、深い呼吸を繰り返す。今日は、ただただ心が休まる一日だった。

翌朝、四万温泉の清々しい空気を吸いながら、陽子は改めて感じた。自分がこの地で過ごしてきた時間が、まるで命の源のように思えた。自然の中で、自分を見つめ直すことができた。息子たちや家族のことを思いながらも、自分自身のために生きる時間を持つことの大切さを改めて感じた。

「また来よう…」陽子は心の中で誓い、温泉街を後にした。

帰路のバスの中、陽子は少しだけ違う自分を感じていた。ひとりでも、たまにはこんなふうにリフレッシュして、心を整えることができる。それがまた、明日を前向きに生きる力になると感じていた。

そして、彼女は再び静かな家に戻り、次の瞬間からまた新しい一歩を踏み出す準備をしていた。四万温泉の優しさが、彼女の心の中に深く根を下ろしたのだった。