老人

小さな挑戦

小さな挑戦

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を淡い黄色に染める。松村久子（70）は、目を覚ますと無意識に体を伸ばし、静かにベッドから起き上がった。長年の一人暮らしが、もうすっかり習慣になっていた。普段は動きが鈍く、体も心も重く感じる日々が続いていたが、今日は違った。心の中に、何かを変えたいという小さな意志が芽生えていた。

数ヶ月前、久子は転倒して足を痛め、そこから始まったリハビリの日々。最初は病院で受けるリハビリが多かったが、最近は訪問リハビリテーションを利用するようになった。毎週、理学療法士の山田圭子が訪ねてきては、久子の体を少しずつ動かす手助けをしてくれる。

その日も山田が訪れる日だった。久子はいつもどおり、朝食を済ませ、軽く掃除をして過ごしていた。心の中で、今日は少し頑張ろうと思っていたのだ。前回、山田から教えてもらった壁を使った簡単な腕立て伏せを、今日は少しでもできるようになりたいと思っていたからだ。

「松村さん、おはようございます。」と、山田が玄関の扉を開けると、明るく挨拶をして入ってきた。

久子は微笑んで答えた。「おはよう、山田さん。今日もよろしくね。」

「もちろんです。」山田はニコニコしながら、玄関の靴を脱いで上がった。

リハビリは、久子が椅子に座っている間に行うものから、床に座ってやるものまで様々だった。今日も軽く体操から始まり、すぐに本題に入った。

「松村さん、前回の壁での腕立て伏せ、覚えていますか？」と、山田が尋ねる。

久子は頷いた。「覚えてる。でも、正直言って、少しきつかったわ。」

山田は微笑んだ。「それが普通です。でも、少しずつやっていけば、必ず効果が出てきますから、焦らずにやりましょう。」

久子は、山田の言葉を受け入れながら、床に並べられたクッションを少し動かして、壁に向かって立ち上がった。少しずつ体を動かすことに恐怖はあったが、心の中で「今日はやるぞ」と自分を奮い立たせる。

「では、壁に手をつけて、足を少し後ろに引いてみてください。ゆっくりと、少しずつ腕を曲げて、元の姿勢に戻るという動作です。」

久子は深呼吸をし、壁に手をつけてみた。足を後ろに引き、手を壁につけると、その体勢がなんとも不安定で、ふらつきそうになる。最初は不安と恐怖が混ざり合い、心が沈みそうだったが、山田が穏やかな声で励ましてくれる。

「大丈夫、松村さん。焦らずに、ゆっくりやってみましょう。」

久子はその言葉を信じ、ゆっくりと腕を曲げた。体は固く、最初は少しだけしか曲がらなかったが、それでも久子は嬉しさを感じた。「できた」という小さな成功感が、久子の心に光を灯した。

「よくできました！松村さん、すごいですよ。」

久子は、少し疲れたものの、その言葉に安堵した。たったの数回でも、進歩を実感することができた。それが、自分にとっては大きな一歩だった。

その後、山田は「ハイハイ」のような動きを取り入れる運動を提案した。床に手をつき、膝を曲げて四つん這いの姿勢を取る。そして、軽く手と膝を交互に動かしていくというものだった。

「この運動は、下半身の筋力を鍛えるためにも大切なんですよ。」山田が説明しながら、久子に手本を見せた。

久子は最初、四つん這いになること自体が難しく、膝をつくことに恐れを感じていた。転倒してからというもの、足腰に対する恐怖心が強くなっていた。しかし、山田が丁寧に支えてくれることで、少しずつその恐れが解けていった。

「よし、少しだけでも。できる範囲でやってみるわ。」久子は心の中で自分を励まし、手と膝を動かし始めた。

最初はうまくいかなかったが、次第に体が慣れてきて、少しずつスムーズに動くことができるようになった。その瞬間、久子は心の中で歓声を上げた。「できた！」と。

山田はそれを見て、にっこりと笑った。「素晴らしいですね。少しずつでも、進んでいる証拠です。」

リハビリが終わる頃には、久子は少し疲れていたが、心の中に確かな手応えを感じていた。今日は体を動かすことができ、少しでも前進できた自分を誇らしく思った。

「今日は、少しだけど本当に頑張ったわ。」久子は心の中で呟きながら、山田にお礼を言った。

「次回も、もっとできるように頑張りましょうね。」山田は励ましの言葉を残して帰って行った。

久子は、再び静かな部屋に一人残されたが、以前とは違って心は軽かった。体も少しずつではあるが動かせるようになり、恐れずに前に進む力を取り戻していた。

そして、久子は心の中で静かに誓った。「もっと健康になりたい。少しずつでも、できることを増やしていこう。」