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駅までの一歩

駅までの一歩

秋の午後、陽射しが温かく感じられる季節になった。高齢者向けの介護施設に住む70歳の女性、松井和子は、自室の窓から遠くに見える駅の方向をじっと見つめていた。彼女の心には一つの目標があった。それは、何年も前にできていた駅までの徒歩の道を、再び歩けるようになることだった。

和子は独り身で、周りに頼る人も少なかった。最寄りの駅へ行くには、徒歩で十数分かかる。しかし、数年前に膝を痛めてからは、外出もままならず、歩くこと自体がつらく感じるようになっていた。買い物や医者の定期診察に行くにも、今は施設の車両を使うことがほとんどだった。それでも、彼女には昔からの習慣があり、駅まで自力で歩くことができれば、少しでも自立した生活に戻れると思っていた。

だが、その思いが胸にある一方で、体の衰えは隠せなかった。腰の痛み、膝のこわばり、そして立ち上がるたびに感じる不安定さ。それでも、和子は諦めたくなかった。彼女の心の中で、少しずつ自分を奮い立たせる言葉が繰り返し響いていた。

「もう一度、あの駅まで歩きたい。」

ある日、和子のもとに、介護保険サービスで訪問リハビリを提供するリハビリ専門職の佐藤が来ることになった。彼女は以前から、何度も施設内でリハビリを受けていたが、今回は自宅でのリハビリが本格的に始まることとなった。

佐藤は、和子が抱える問題をしっかりと聞き取り、リハビリ計画を立てていった。和子の目的は、「駅まで歩けるようになること」だ。最初に佐藤が和子に尋ねたのは、「駅に行くことに対して、どんな不安があるか」ということだった。

和子は少し黙ってから答えた。「自分の体力に自信がないんです。歩ける気がしないし、途中で倒れてしまうんじゃないかって、怖くて。」

その言葉に、佐藤は優しく頷きながら、和子に適切なリハビリ方法を提案した。リハビリの第一歩は、筋力をつけることから始めるというものだった。和子の膝や足首を支える筋肉が衰えており、それを強化することが重要だった。

佐藤は、和子に毎日できる簡単な運動を指導した。最初は、椅子に座って足を上げる運動や、足踏みをすることから始めた。和子は最初、その運動ができるかどうか不安だったが、佐藤が一緒に手を引きながら励ましてくれたおかげで、少しずつ動きがスムーズになっていった。

「大丈夫ですよ、和子さん。少しずつ、少しずつですから。」佐藤の言葉に、和子は元気づけられた。

それから数週間後、和子はリハビリを続けながら、日に日に自分の体力に自信がついていった。膝の痛みも少し軽減し、足の筋肉も強くなったように感じた。リハビリを続けていく中で、和子はかつてのように元気に歩ける日を夢見るようになった。

「これなら、駅まで歩けるかもしれない。」和子は少しずつ自信を取り戻していた。

そして、リハビリから3か月が経過したある日、佐藤が言った。「和子さん、今日は駅まで歩いてみませんか？」

和子はその言葉を聞いて、胸の奥に湧き上がる興奮を感じた。駅まで歩くことが、ここまでの道のりだった。膝が少し痛むこともあったが、それでも和子は一歩一歩を踏みしめながら歩き始めた。

最初の数メートルは少し不安だったが、佐藤がそばで支えてくれるので、心強かった。和子の足は確実に前に進んでいた。駅に向かう途中、和子はふと、自分がどれほど長い間歩けなかったかを思い出した。そして、この道をもう一度、自力で歩けるようになった自分に、驚きと喜びを感じた。

駅に到達した時、和子は思わず涙がこぼれそうになった。彼女の顔には、達成感と誇りが浮かんでいた。

「できた、できたわ…！」和子は感動の声をあげ、思わず立ち止まって空を見上げた。自分でも信じられないような、長い旅路を歩んできたことが実感として湧き上がった。

佐藤も微笑みながら、「和子さん、よく頑張りましたね。これからも、無理せずに少しずつ歩いていきましょう。」と言った。

和子はその言葉に答え、再び歩き出した。駅までの道のりは長かったが、リハビリを受けて少しずつ進むうちに、和子は自分の可能性を信じることができるようになった。

それは、ただ歩けるようになっただけではなかった。和子にとって、このリハビリは自立への一歩であり、自分の力でできることを取り戻すための大切な過程だった。そして何より、もう一度自分の足で外の世界に踏み出す勇気を持てるようになったことが、和子にとっての最大の宝物となった。

「転んでもただでは起き上がらない。」和子は心の中で、そう強く誓った。この先も、ゆっくりと前に進みながら、毎日を楽しみながら生きていこうと思った。