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春秋花壇

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四君子の朝

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「四君子の朝」

朝の光が部屋に差し込むと、隣家の犬が遠くで一声吠えた。平一(ひらいち)は薄目を開け、起き上がる。今日もこの音が目覚まし代わりだ。七十歳を超えてからというもの、目覚めるのが日に日に早くなるのを彼は感じていた。

朝食をとり、ゆっくりと茶をいれながら、ふと手元の茶器に目を落とす。その絵柄に描かれているのは、蘭、竹、梅、菊──四君子だ。どれも長年大切にしてきたもので、古い家を売り払い、この小さな賃貸に越してくるときも、手放さなかった数少ない品だ。

四君子の絵柄には、各々に特有の美徳が宿っているとされる。蘭は気高さ、竹は節操、梅は忍耐、菊は品位を象徴する。平一はその四つの美徳を心に描きながら、己の暮らしがどれほどそれらに近づけたのかと、自嘲気味に微笑んだ。

彼は独り暮らしであり、子どもも遠方に住んでいる。誰かが頻繁に訪れるわけでもなく、彼を訪ねてくるのはたまの郵便配達と、ごく稀に電話をくれる旧友だけ。寂しさがないわけではないが、若い頃に比べ、そんな気持ちはずいぶん薄れてきた。

四君子の茶器を愛でながら、彼はふと思い立ち、久しぶりに筆を手に取った。学生時代、書道を学び、書に向き合う時間を楽しんでいたが、社会に出てからは筆を握る機会も少なくなっていた。ふわりと墨の香りが漂い、彼の記憶がゆっくりと甦る。

最初に書いたのは「蘭」だ。蘭の持つ清らかさに触れると、自然と背筋が伸び、かつての自分の誠実さや希望を思い出す。次に竹、力強く、そしてしなやかに書く。そのまっすぐな姿勢には、苦しい時期に逃げ出さなかった自分を思い出すものがある。続いて梅、厳しい冬を越えて花を咲かせる梅のように、幾度も試練を乗り越えた日々が心をよぎった。そして最後に菊、落ち着きと知恵が求められる晩年の自分を重ねるように筆を走らせた。

すべてを書き終えた平一は、墨が乾くまでじっとそれを眺めていた。四君子はただの象徴ではなく、今の自分の人生そのもののように思えた。若い頃のような華やかさはなくとも、静かに咲き続ける強さを持ちたい──そう願いながら、彼は一人微笑んだ。

その日、部屋にはいつもより少し穏やかで満たされた空気が流れていた。四君子の茶器と共に暮らす彼の心は、季節の巡りのように静かに色づいていた。






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