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春秋花壇

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動く老人ホーム

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動く老人ホーム

秋の夜、穏やかな海を滑るように進む豪華客船「エターナル・シー」。静寂が支配する船内で、まるで時間が止まったかのような空気が漂っている。そんな中、一人の乗客、陽子は、静まり返ったパームコートにやってきた。彼女は70歳。世間では「シニア世代」と呼ばれる年齢に達していたが、気持ちだけは若々しくありたいと思っている。

「ソフトドリンクは無料なのね」

陽子はセルフサービスの炭酸水を注ぎ、パームコートの窓際の席に腰掛けた。外は暗く、波に揺れる船のライトが、まるで星のように煌めいている。それは美しい光景ではあったが、彼女の心にある何かを満たすには至らなかった。

「静かすぎる…」陽子は呟いた。

この船の雰囲気は彼女にとって違和感しかなかった。誰もが静かに過ごし、音楽もほとんどかからない。乗客の多くは年配者であり、陽子のように刺激や活気を求める者は少ないのだろう。さすがに耳に障るくらいの騒がしさは望まないが、それにしても「動く老人ホーム」と感じるほどの静けさには、彼女の心は少しばかり苛立ちを覚えていた。

陽子はふと、過去の旅のことを思い出した。若い頃に訪れた南フランスの活気あふれるレストラン、アフリカの砂漠で見た壮大な星空、そして、友人たちと夜更けまで語り明かした時の楽しさ…。彼女はそんな青春の日々を思い出しながら、炭酸水を一口、喉に流し込んだ。

「静かさを楽しむってのも難しいものね…」そう呟くと、陽子は周りを見渡した。パームコートには彼女と同じく高齢者が数人、互いに会話もせず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

ふと陽子の頭に浮かんだのは、「この船に音楽でも流せないものかしら?」という考えだった。陽子は、せめて少しでも明るい気分になれるような音楽が流れれば、気分も変わるかもしれないと思った。しかし、彼女の心の中で楽しい音楽を想像した途端、ある出来事が蘇ってきた。

ある日、船のスタッフが音楽を流そうと試みたことがあった。しかし、それを快く思わなかった乗客が「うるさい!消してくれ!」と怒りの声を上げたそうだ。まるで音が許されない空間であるかのように、彼らは静寂を求めていた。

「そうよね、ここにいる人たちは、穏やかで静かな時間を望んでるのかもしれない。でも、私には…やっぱりちょっと寂しすぎるわ」と陽子は一人ごちた。彼女は炭酸水を飲み干し、パームコートを後にすることにした。

廊下を歩きながら、陽子は自分の思いを整理し始めた。自分と同じように、刺激を求め、若い頃のように生き生きとした時間を楽しみたいと感じている人は、この船にはいないのだろうか。ふと、そんなことを考えた時、彼女の目に飛び込んできたのは、アートギャラリーの看板だった。

「アートなら、少しは気分転換になるかしら?」と考え、彼女はギャラリーに足を運んだ。

そこには、若いアーティストの作品が並べられており、その中には明るく色彩豊かな作品もあった。特に、夕焼けのビーチに立つ人々を描いた一枚の絵が目を引いた。活気あふれる雰囲気が絵から伝わり、陽子はしばしその絵の前に立ち尽くした。

「こういう場所がもっと増えればいいのに…」と彼女は呟き、少し微笑んだ。

その後も、陽子は静かな船内を歩き続けた。誰もが穏やかな表情で、まるでこの静寂を享受するかのように過ごしている。しかし、陽子は自分自身の心が満たされないことを実感していた。「私はまだ、こんなに静かな老後を望んでいるわけではない」と心の中でつぶやき、彼女は船上の夜を後にするように、早めに自室に戻ることにした。

部屋に戻った陽子は、ベッドに腰掛け、窓の外に広がる夜の海を眺めた。「動く老人ホーム、か…」彼女は、そんな言葉が浮かび、自分の今の心境を正確に表していることに気付いた。

陽子にとって、この船旅は「人生の終盤」を象徴するものではなく、「まだまだ続く挑戦の一部」でありたいと思っていた。静かな空間で穏やかに過ごすことも悪くはないが、彼女にはまだ情熱があり、活力ある生活を望んでいる。

「動く老人ホーム」だと感じたこの船が、彼女の生き方や心の在り方といかにかけ離れているかを実感しつつ、陽子は明日からの過ごし方を変えてみようと心に決めた。

陽子はその夜、次の旅では、もっと若々しい空気と活気に満ちた場所を探そうと決意した。






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