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春秋花壇

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「『はいよろこんで』歌ってみた

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「『はいよろこんで』歌ってみた」

70歳、独居老人の鈴木明(すずき あきら)は、長い間平凡な生活を送ってきた。妻に先立たれ、子供たちもそれぞれ自立し、遠方に住んでいる。彼の一日は、静寂に包まれた家の中で始まり、終わる。趣味もなく、テレビをぼんやりと眺める日々。友人たちも少しずつ減り、人生の楽しみはほとんどなくなったかに思えた。

そんな彼の毎日は、まるで時間が止まったかのように変化がなかった。だが、ある日、インターネットの動画サイトで「歌ってみた」動画を偶然見つけたことで、鈴木の生活は思わぬ方向へと動き始めた。

第1章 出会い
ある夜、鈴木は夕食を済ませ、いつものようにリモコンでテレビのチャンネルをぼんやりと変えていた。だが、どれも興味を引く番組はない。テレビに飽きた彼は、久しぶりにパソコンを開いた。娘が使い方を教えてくれたが、あまり触っていなかった。画面には見慣れないニュースや広告が次々と表示されている。彼は検索欄に何気なく「懐メロ」と打ち込んでみた。出てきたのは、昔懐かしい歌謡曲の動画。しばらくそれを聴きながら、時の流れを感じていた。

その時、関連動画の中に、若い男性が楽しそうに歌う「歌ってみた」というタイトルの動画が目に入った。何かと思いクリックしてみると、見知らぬ若者が元気よく歌い、画面に向かって笑顔を振りまいている。

「なんだこれは…?」

鈴木は最初、その若者の軽いノリに驚いた。しかし、何本か動画を見続けるうちに、彼もその軽妙さに引き込まれていった。「歌ってみた」というジャンルは、自分の好きな曲をアレンジして歌い、それをネットに公開するものらしい。

「こんなことが今の若い人たちには流行っているのか…」

それでも、鈴木の中で何かが動き出した。歌うこと自体は彼にとって全く新しいことではなかった。若い頃、カラオケが流行り始めた時期には、同僚たちとよくカラオケに行ったものだ。歌うことが楽しく、ストレス発散にもなった。しかし、それもずいぶん昔の話で、今ではそんな機会もほとんどない。

第2章 挑戦の決意
次の日、鈴木は一日中、その「歌ってみた」という動画のことを考えていた。「俺でもできるんだろうか?」という不安と同時に、やってみたいという気持ちがじわじわと湧いてきた。自分の生活にはもう少し何か新しいことが必要だと感じていたのだ。だが、70歳の老人がインターネットに歌を投稿するなんて、笑われるだろうか?いや、誰も見ないだろうし、好きにやってみればいい。

そして、決意した。鈴木は「歌ってみた」に挑戦することにしたのだ。

しかし、何から始めればいいかも分からない。動画を作るための機材もないし、どの曲を歌えばいいかも決まっていない。彼はまず、カメラ付きのマイクをネットで注文し、数日後に届いたそれをテーブルに置いた。次に問題なのは、何を歌うかだ。昔よく歌った演歌や歌謡曲もいいが、どうせなら少し新しいものに挑戦したい。そんなとき、孫が言っていた「はいよろこんで」という曲が頭に浮かんだ。

孫が家に来た時、楽しそうにその曲を口ずさんでいたのを思い出したのだ。「はいよろこんで?」という言葉自体は耳慣れないが、コミカルなリズムが孫たちに人気のようだった。鈴木はさっそくその曲を検索し、聞いてみた。アップテンポで、陽気なメロディー。若者にはやや難解だが、鈴木の心に新鮮さを感じさせた。

「これに決めた!」と鈴木は思った。

第3章 撮影の日
鈴木はマイクとカメラをセットし、パソコンの前に座った。使い方を学ぶのに少し時間がかかったが、なんとか録音・録画の準備が整った。彼は鏡で自分の姿を確認し、少し緊張しながらもマイクに向かって声を出してみた。

「よし、いけるぞ。」

孫たちが大好きな「はいよろこんで」の歌詞を表示させながら、音楽に合わせて口を開いた。最初はぎこちなかったが、何度も練習するうちに次第にリズムに乗れるようになってきた。まさか自分がこんな曲を歌う日が来るとは思わなかったが、歌っているうちにだんだんと楽しくなってきた。

やがて、録音が終了した。録画を見返すと、少し声が震えている部分や、音程が外れている部分もあったが、それでも鈴木は満足だった。何より、自分がここまでやり遂げたことに自信が湧いたのだ。

「まあ、誰が見るわけでもないしな」と、鈴木は笑って自分の動画をYouTubeにアップロードした。タイトルは【70歳独居老人が『はいよろこんで』を歌ってみた】。ちょっとした挑戦の記録として、彼の中では十分だった。

第4章 思わぬ反響
数日後、鈴木がパソコンを開くと、通知が次々と表示された。投稿した動画が思わぬ反響を呼んでいたのだ。再生回数は数百回を超え、コメントも寄せられていた。

「おじいちゃん、かっこいい!」 「こんなに元気に歌ってくれて嬉しいです!」 「私も一緒に歌いたくなりました!」

鈴木は驚き、そして少し照れくさい気持ちになった。だが、それと同時に彼の心には喜びが広がった。誰かが彼の歌を聴いてくれて、それに反応してくれたのだ。人生の終わりに近づいていると感じていた鈴木は、この小さな交流によって再び生きる活力を感じ始めていた。

次の週末、孫たちが彼を訪ねてきた。孫娘が興奮した様子でこう言った。

「おじいちゃん、見たよ!『はいよろこんで』、めちゃくちゃ良かった!」

鈴木は照れくさそうに笑いながら答えた。

「そうか、まあ、楽しかったよ。今度は一緒に歌ってみるか?」

孫たちの笑顔が溢れる中、鈴木の家は久しぶりに賑やかな笑い声に包まれた。彼の新しい日常は、少しずつ明るさを取り戻していったのだった。









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