老人

身の丈に合った幸せ

「身の丈に合った幸せ」

70歳の佐藤一郎は、今日も小さなアパートの一室で、ゆっくりとお湯を沸かしていた。家賃3万円、年金は月に10万円ほど。退職金はすでに使い切り、贅沢をする余裕などない。それでも、一郎はこの静かな生活に満足していた。

「贅沢はしなくても、幸せは手に入るもんだ」

そんなことを呟きながら、狭い台所で夕飯の支度を始める。今日は安売りの鯖缶と大根を煮込んだ、シンプルな一品だ。冷蔵庫の中身も、質素なものばかり。だが、それでいい。若い頃はもっと大きな夢を見ていたが、今ではこの身の丈に合った生活が、自分にとっての理想だと感じていた。

一郎が若いころ、会社勤めに励み、家族を養っていた頃は、贅沢をしたいという欲望に駆られることも多かった。友人たちは豪華な海外旅行に行ったり、高級車を購入したりしていた。自分もいつかは、と心のどこかで焦りを感じていたものだ。しかし、現実はそこまで甘くはなかった。子供たちの教育費や家のローン、妻の医療費がかさみ、贅沢どころか、生活そのものがやっとの状態だった。

妻が亡くなった後、子供たちもそれぞれ独立し、一郎は一人きりの生活を始めた。孤独感は否めなかったが、それ以上に解放感があった。もう誰のためでもなく、自分のために生きることができる。そんな思いが少しずつ、彼の心を満たしていった。

夕飯を食べ終わると、一郎は風呂を沸かすために浴室へ向かった。風呂場の小さな窓を開け、秋の冷たい風を少しだけ感じながら、湯がぐつぐつと沸き上がる音を聞く。その音を聞いていると、何とも言えない安心感が胸に広がる。贅沢なものではなくても、自分の手の届く範囲で生活を楽しむことができる。それこそが「身の丈に合った幸せ」なのだと、一郎はしみじみ感じていた。

湯船にゆっくりと体を沈めると、一郎は目を閉じて深呼吸をした。湯気が立ちこめ、秋の夜風が肌をかすめる。体の隅々まで温まる感覚が心地よく、彼はその瞬間を噛みしめる。かつての自分が思い描いていた「幸せ」とは、まったく違う形のものかもしれない。だが、これで十分だった。

風呂を上がると、一郎はお気に入りの古いパジャマに着替え、窓辺の小さなテーブルに座る。カーテンの隙間からは、夜空に瞬く星が見える。若いころの一郎は、星など見上げる余裕はなかった。仕事に追われ、家庭に責任を感じ、常に前を見て走り続けていた。だが今は、その必要がない。静かな時間が、彼にとって最大の贅沢だった。

「贅沢ってのは、何も高いものを買うことや豪華な生活をすることじゃないんだな」

一郎はコップ一杯の水を飲みながら、ぽつりと呟く。身の丈に合った生活をしていれば、それだけで十分に幸せだと感じられる。大きな夢や目標を追いかけることも、もちろん大切だが、今はこの穏やかな日々こそが、彼の求めていたものだったのだ。

その夜、一郎は床につき、窓の外に広がる秋の夜空を見上げた。静かな風が揺れる音と、遠くで聞こえる虫の声が、心地よい眠りへと誘ってくれる。これ以上望むものはない、そんな思いを抱きながら、一郎はゆっくりと目を閉じた。

彼の人生は決して派手なものではなかった。だが、最後にたどり着いたこの平穏な生活こそが、一郎にとっての「身の丈に合った幸せ」だったのだ。