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春秋花壇

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老後の始まり

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「老後の始まり」

66歳になったばかりの松田昭雄は、静かにリビングのソファに座っていた。妻の美智子が隣で新聞を読んでいる。窓の外では春風がやわらかく庭の木々を揺らし、まるで穏やかな老後を象徴するかのようだった。しかし、松田の心の中は穏やかではなかった。

「老後とは、経済的な側面から見ると、公的年金や退職金以外に準備した資金を使い始める年齢を指します……」

彼は、先日目にしたテレビ番組での解説を思い出していた。その内容が、彼の胸に重く響いていた。平均的には66.8歳から老後資金を使い始める――その統計は自分にも当てはまるのか、と考えたからだ。

昭雄は、若い頃から大企業に勤め、安定した収入を得ていた。退職時には、退職金と会社が用意してくれた年金制度があったため、「老後の生活に困ることはない」と信じていた。だが、現実はそれほど甘くなかった。

年金はあるものの、それだけでは十分とは言えない。医療費や予想外の出費がかさみ、ここ数年で貯蓄を使い始めるタイミングが迫っていた。昭雄は「老後の備え」として積み立ててきた預金を、いつから本格的に切り崩していくべきかを考えていた。

「あなた、どうしたの?」

新聞を読み終えた美智子が、ソファに深く座りなおし、昭雄を見つめた。

「いや、ちょっと考え事をしていただけだよ」

美智子は彼の手を握りしめ、心配そうな顔をした。彼女も同じく、老後の生活について少なからず不安を抱えているのだろう。二人は長い結婚生活を共にし、多くの困難を乗り越えてきたが、今、最後の課題が目の前にあった。

「お金のこと?」

美智子の言葉に、昭雄は一瞬、どきりとした。彼女には何でも見透かされているような気がした。

「そうだな……年金だけじゃ足りないのは分かってる。でも、退職金や貯蓄をどのタイミングで使い始めるべきか、それが分からなくてね」

美智子は小さくうなずいた。

「私たち、あんまりお金のことを真剣に話し合ってこなかったかもしれないね」

「そうかもしれないな。でも、今こそちゃんと話し合うべきだと思うんだ」

昭雄は、テーブルの上に置かれた家計簿を手に取った。これまで二人は生活費を抑えるため、少しずつ倹約をしてきた。だが、医療費や家の修繕費、そしてこれから訪れるであろう予期せぬ出費を考えると、この先の計画が曖昧なままでは不安が残る。

「私たち、十分な準備ができていると思ってたけど、やっぱり何があるか分からないものね」

美智子は穏やかに言ったが、その目には深い憂いがあった。昭雄もまた、そうした未来に不安を抱えていたのだ。

「老後の生活費がどのくらい必要か、もう一度考えてみようか」

そう言うと、二人は改めて手元の資金を見直し始めた。昭雄が長年勤めた企業から受け取った退職金は、既に銀行の口座に眠っている。老後のために積み立てていた預金もあったが、問題はそれをどう使い始めるかだった。

「老後って、退職してすぐに始まるものだと思っていたけど、実際に年金や貯蓄を使い始めるときが、本当に『老後の始まり』なんだろうな」

昭雄の言葉に、美智子はそっと微笑んだ。

「私たちはまだ元気だし、できるだけ長く自立した生活を送りたいわね」

昭雄はうなずいた。二人とも、健康でいる限りはなるべく自分たちで生活費をやりくりし、子どもたちに迷惑をかけないようにしたいと思っていた。だが、その一方で、将来の予測不能な医療費や介護費用が脳裏をよぎる。

「そろそろ、資金を使い始めるべきだろうな」

昭雄は、とうとう自分の心の中の結論を口に出した。これまで老後資金に手を付けることを避けてきたが、現実にはその時期がやってきているのだ。

「でも、無理に急ぐ必要はないわ。私たちはしっかり準備してきたんだから。少しずつやっていけばいいのよ」

美智子の言葉に、昭雄は少しだけ心が軽くなった。二人はまだ健康で、幸いなことに今のところはそれほど大きな出費もない。焦る必要はないかもしれない。

「そうだな。少しずつだ」

昭雄は、再び穏やかな春風を感じながら、美智子と共にこれからの人生を歩んでいく覚悟を決めた。老後の生活は、決して一つの答えで解決するものではない。彼らはこれからも、二人で手を取り合いながら、少しずつ進んでいくしかないのだ。

「老後の始まり」は、今まさに訪れていたが、昭雄はそれを恐れることなく、次の一歩を踏み出す準備ができていた。






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