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母と秋刀魚

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「母と秋刀魚」

夕暮れ時、秋風が涼しく吹き始める頃、70歳の京子は息子の和也と一緒にダイニングテーブルに向かっていた。テーブルには、こんがりと焼かれた秋刀魚が皿にのっている。食欲をそそる香ばしい匂いが漂い、和也の口元には自然と笑みが浮かんだ。

「今日は秋刀魚にして正解だったな、母さん。いい香りだよ。」

和也が箸を取り、秋刀魚の身をほぐすと、脂がじゅわっとあふれ出す。彼はその一口を口に運び、満足そうに頷いた。京子も一緒に箸を持ち、秋刀魚に口をつける。やわらかな身が口の中で溶けるように広がり、彼女もまた、その味わいに喜びを感じていた。

「うまいわねえ、秋刀魚って。これだけで幸せだわ。」

京子はにっこりと笑い、和也に目を向けた。彼女の顔には、子供の頃からの喜び上手な性格がにじみ出ている。その笑顔に和也もまた心が温かくなった。京子は昔から些細なことでも幸せを見つけるのが得意だった。和也が幼い頃、ささやかな家族の夕食でも、「おいしいね」と笑顔で喜ぶ姿はいつも彼の記憶に残っている。

「母さん、ほんとに秋刀魚好きだよね。昔もこんな風に食べてたの?」

京子は箸を置き、少し遠くを見るような表情をした。そして、懐かしさを込めて静かに話し始めた。

「そうねえ……子供の頃は、秋刀魚一匹なんて贅沢なものだったわ。大人たちがほとんど食べて、私たち子供はほんの少しのおすそ分け。それでも嬉しくてね、その一口がごちそうだったのよ。」

和也は母の話を聞きながら、ふと子供の頃の自分を思い出していた。秋刀魚を丸ごと一匹食べることができるようになったのは、和也が大人になってからだった。彼の家庭では、父親が早くに亡くなり、京子は一人で和也を育ててくれた。経済的には決して豊かではなかったが、京子はいつも笑顔で、和也に寂しさを感じさせないようにしてくれていた。

「昔は何でも今よりも少なかったけれど、それでもみんなで分け合うのが楽しかったわ。秋刀魚の頭の部分だって、『これが一番おいしいんだ』って言いながら食べてたの。子供の私には、どこが一番なのかなんてわからなかったけれどね。」

京子はそう言って笑いながら、もう一度秋刀魚の身をほぐして口に運んだ。その一口が京子にとってどれだけの価値があったのか、和也は改めて感じることができた。彼もまた、自分の箸を持ち直し、秋刀魚を一口食べる。京子の言葉には、彼の中にある感謝の気持ちを引き出す何かがあった。

「母さんが昔の話をしてくれるの、いいなあ。こうして一緒に秋刀魚を食べられるのも、幸せだよ。」

京子は和也の言葉を聞いて、少し目を潤ませた。息子が自分の喜びを理解してくれることが何よりも嬉しかったのだ。彼女は、和也が成長する中で、彼自身の幸せを見つけてほしいと願い続けていた。今、この瞬間、和也と一緒にいることが何よりも尊いと感じていた。

「そうね、和也。こうして一緒に食事ができることが一番の幸せだわ。おいしいものを一緒に食べて、話して、笑う。それだけで十分よね。」

和也も同じ気持ちだった。日々の忙しさの中で、こうした時間を持つことは容易ではないが、だからこそその一瞬一瞬が大切だと感じていた。和也はもう一口秋刀魚を頬張りながら、母の顔を見た。彼女の笑顔には、今までの苦労や喜びがすべて詰まっているように感じた。

「本当に、母さんがいてくれてよかったよ。これからも一緒に秋刀魚を食べようね。」

京子は頷きながら、再び箸を持ち、秋刀魚を口に運んだ。彼女の笑顔は、和也にとってかけがえのないものであり、これからも大切にしていきたいと思った。

夜が更ける頃、二人は静かに食事を終えた。食後の茶を飲みながら、和也は秋刀魚の香ばしい余韻を楽しんでいた。京子はゆっくりとした動作で茶をすすりながら、もう一度和也に微笑みかけた。

「秋刀魚一匹、昔は夢のようだったけど、今こうしてたくさん食べられるなんて、いい時代になったわね。でも、やっぱり一番おいしいのは、こうして一緒に食べられることなのよ。」

和也はその言葉に頷き、改めて母への感謝の念を強くした。秋刀魚の味わいに、ただの食事を超えた幸せが詰まっていることを二人は感じていた。

京子の喜び上手な性格が、和也にも少しずつ伝わり始めているようだった。秋の夜風が家の中に入り込み、二人の間を静かに流れていく。そこには、母と息子のささやかながらも深い絆が確かに存在していた。










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